ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

道徳、一貫性、矛盾について

「正直になりなさい」「人に親切にしなさい」「約束を守りなさい」――こうした道徳的な命令をされると、私たちは「あなたがそれを言うのか?」「この人にそれを言う資格があるのか?」と反発することがある。自身も嘘つきなのに、他人に対して「正直になりなさい」と言う人。自身も約束を破っているにもかかわらず、「約束を守りなさい」と説く人。汚職に手を染めた過去がありながら、政敵の汚職を批判する政治家。

 

私たちは道徳に関する要請をする人の道徳的資格に敏感であり、その人が潔白でなければ要請する資格はないと感じてしまいがちである。あるいは、自分自身の道徳的資格に敏感な人もいるだろう。他人のいかがわしい行為を見て、それを批判しようとした矢先に、自分も過去に同様のことをしたことを思い出し、批判するのを思いとどまった人もいるのではないか。

 

しかしよく考えてみれば、ある発言の正しさは、発言者の振る舞いに関係がない。「1+1=2である」と言ったのが最低の人間だったとしても、1+1=2という真理は揺るがない。「罪のない人を殺すのは許されないことだ」という発言が脱獄した快楽殺人者のものだったとしても、その発言内容が正しくなくなるわけではない。

 

これから空き巣に行こうと思っている人でも、空き巣をしようとしている同業者を見て「やめなさい」と咎めるのは正しい。ひったくりの常習犯でも、ひったくりの現行犯を捕まえて「あなたはとても不正なことをした」と叱責するのは正しい。この人もひったくりなのだから他人を叱責する資格などない、と私たちは思いたくなるが、それは感情論でしかない。問題はただその叱責が相手の心に響くかどうかという実際的な話である。

 

けれども、一点だけ強調しておきたい。道徳に関わる発言は、その発言者に特定の義務を課す。ある場面で、Aさんが「あなたはXすべきである(すべきでない)」と述べたなら、Aさんは、その後のあらゆる同様の場面で同様にXする(しない)という義務を自身に課したのである。これが一貫性の要求である。

 

「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人を注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課した。「人の陰口を言ったらダメだよ」と言った彼女は、自身に「人の陰口を言ってはならない」という義務を課した。「高齢者に席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意しておきながら、自身は立っている高齢者を前に寝たふりをしていたら、一貫性の欠如、態度の矛盾の謗りを免れないだろう。

 

「自身が同様のことをしているくせに、他者を批判するのか」という批判は前後を逆にすべきで、「他者を批判しているくせに、自身も同様のことをするのか」と問わねばならない。路上喫煙者が路上で喫煙している者を注意したならばその矛盾を笑われるかもしれないが、ここで重要なことは、「自身も路上で喫煙しているのに路上喫煙者を注意する」という行為がいけないのではなくて、「路上喫煙者を注意しているのに自身も路上で喫煙する」という行為がいけないという点である。

 

したがって、この路上喫煙者に対して私たちが言うべきセリフは、「あなたに他人を注意する資格はない」ではなく、「他人を注意するからにはあなたもやめなさい」である。同じことをしているあなたに人を非難する資格などないと反発し、言葉を封じようとするならば、whataboutismの誤謬*1を犯すことになってしまう。

 

■一昨日の記事への追記その2

一昨日の猫のヴィーガン食の記事について。

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう。

一昨日の記事で私はこう書いたが、正確にはジレンマではなく、トリレンマであった。すなわち、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を理由に猫にヴィーガン食を与えることを非難する者は*2、第一に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理のすべてを批判し、それへの支持・加担を拒否するか。第二に、非難を撤回するか。そして第三に、自身の一貫性のなさ、態度の矛盾を認めて開き直るか。この三者択一を迫られている。

 

だが、第二の選択肢をとる必要はないと私は思う。「猫を植物由来のフードで飼養するべきではない」という主張には現時点ではそれなりに根拠があり、撤回すべき非難というわけではない*3。発言者が一貫性や誠実さを大切にするならば、非難を撤回するのではなく、第一の選択肢をとるべきであろう。つまり、猫にヴィーガン食を与えて飼養するヴィーガンを批判しつつ、自身もそうした飼養管理への加担をやめればよい。批判者が肉食者ではなくヴィーガンであるなら、一貫性の欠如、態度の矛盾を指摘されることもないだろう*4

 

最後に。このトリレンマの存在自体を否定する議論も可能ではある。それは、「そもそもそれとこれとは別の事例である」ということを示す議論である。「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課したわけだが、同様ではない場面では、席を譲らないという選択が正当化される可能性も十分にある。例えば、立ち上がれないほど体調が悪かったなら、譲らずに座り続けることも許容されるかもしれない。

 

「同様の事例においては同様の判断を下さなければ、矛盾を犯したことになる」という点に異議を唱える人は滅多にいないが、「それとこれとは同様ではない」と異議を唱える人は多い。猫の食性に憂慮していながら牛や豚の食性に無関心であることを非難された者は、「ペットである猫と食用の家畜である豚や牛は別なのだ」と反発したくなるだろう*5。と言うより、この問題は結局のところここに帰着するのだろう。ペットとされる動物と家畜とされる動物とでは、道徳的に重要な違いがあるのだろうか*6。それとも、彼らに道徳的に重要な違いはなく、同様に扱うべきなのだろうか。この点についてはまた日を改めて議論するが、気になる人はとりあえずtreat like cases alikeの原則を読んでみてもらいたい。

*1:そっちこそどうなんだ主義。wikipediaで調べて下さい。

*2:これに関して、猫へのヴィーガン食を非難する理由はそこではない、という反論が見られた。脚注5を参照。

*3:というより、もしここで「非難を撤回せよ」と迫るならば、それこそwhataboutismの誤謬を犯すことになるだろう。「家畜の悲惨な飼養管理に加担している以上、猫の飼養管理に口を出すな!あなたにそんなことを言う資格はない!」という暴論になってしまう。しかし、それは私の趣旨とはかけ離れている。

*4:実際に、猫に植物由来のフードを与えるヴィーガンを批判するヴィーガンはいる。私は、このような人は一貫していると思う。

*5:その他、一昨日の記事に対して向けられた批判は

・「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と言う人は、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」からそのように非難しているのではない。「自分の子供にまともな食事をさせないこと」や「人間の行動原理である道徳を動物にまで押し付けていること」を非難しているのだ。

・猫にヴィーガン食を与えることを問題視する人は、「動物虐待を批判するヴィーガンが、猫にヴィーガン食を与えるのはどうなのか」と言っているのだ。私たち自身の行為は今問題にしていない。

など…

*6:厳密には、ペットと家畜という区分は正確ではない。「人の飼育管理下に置かれる動物」が家畜の本来の定義なので、私たちがペットと呼ぶ犬や猫も本当は家畜に含まれる。

昨日の記事への追記

昨日の記事 「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断について が賛同・批判を含め思いのほか反響がありました。いくつかの誤解が生じていたようなので、その説明を含めて、補足的に追記します。

 

まず私は、猫をヴィーガン食で飼養することの是非について、記事内では極力言及を避けています。それは、私が最新の調査・研究をフォローできていないためです*1

 

昨夜の記事のテーマはそこではなく、「猫をヴィーガン食で飼養するなんてとんでもない」と憤る人たちが、他の動物に対してはどのような態度でいるのかを明らかにすることが狙いでした。「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という主張には確かに栄養学的な根拠があります。しかし、猫についてはその「本来の食性」をことさら重視していながら、牛や豚や鶏の「本来の食性」に彼らがどれだけ無関心なことでしょう。猫へのヴィーガン食の給餌を「虐待だ」とまで非難するアンチヴィーガンの人たちが、食用にされる動物に対する虐待に等しい飼養に無関心であること、そのダブルスタンダードの指摘が、昨日の記事の趣旨でございます*2

 

私は、以下のぶめすさんの発言に強く賛同します。

 

 

質問箱に寄せられていた質問に回答致します。今後、回答が長くなりそうな質問に対しては、ブログ記事にて回答したく思います。(未回答の質問が貯まっています。待たせている人、ごめんなさい)

 

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まず、私が「家畜の不適切な飼養管理を糾弾」しているというのは、半分正しく、半分間違っています。確かにウシやブタの悲惨な飼養を私は許容できませんが、その飼養方法が著しく改善したとしても、つまりアニマルウェルフェアに十分に配慮された飼養管理へと移行したとしても、やはり許容できるとは思われません。

 

ですので昨日の記事で最後の方に書いた「そうした飼養管理を経て生産された肉や鶏卵や牛乳は、購入を控えるべき」という記述は、誤解を招くものだったかもしれません。これだと、「自然放牧で健康的に過ごしている乳牛から絞った牛乳を買いなさい」「放し飼いにされた鶏の卵を購入しなさい」と訴えているように読めてしまうからです。しかし、それは私の本意ではありません。

 

とはいえ、「人道的に飼養された家畜でもダメ」という主張はかなり反発を呼ぶもので、ここに書くとまた長くなってしまうと思いますので、日を改めて論じたく思います。今日はこのへんで勘弁して下さい。

 

(少なくとも現在)猫の栄養要求を満たすことが可能か不明なヴィーガン食を猫に与えることは不適切であると思うのが自然な流れではないですか?」についてですが、下の脚注にも書いてある通り、「現時点では積極的に支持はできない」というのが私の立場です。ただ同時にヴィーガンのキャットフードが開発されている旨の記事も最近よく見かけ、期待しつ注視しているというのが現状での回答になります。

*1:改めて明記しておくと、私は「現状の知識では積極的に支持はできない」という立場です。しかしながら、昨夜の記事でも触れた通り、植物由来のフードでも問題ないという証拠が蓄積しつつあるようです。たとえば、Vegetarian versus Meat-Based Diets for Companion Animals

*2:もちろん、肉食者の誰もが家畜の福祉に無関心であるとは思っていません。家畜の福祉に関心をもち、改善を図る人々が肉食者の中にも一定数いることを理解しています。

「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断について

■倫理的判断の普遍化可能性

誠実な倫理的判断は、普遍化可能性を備えていなければならない。普遍化可能性とは倫理的判断がもつとされる性質であり、「ある状況である道徳判断をしたなら、それと類似したあらゆる場面で同じ道徳判断を下したことになる」という性質を指す(以下、倫理的判断と道徳判断とを特に区別しない)。

 

具体例で説明しよう。

 

電車内でAさんが、高齢者が目の前に立っているのに席を譲らずに座っていた。これを目撃したBさんは、Aさんに「どうして座っているんだ、高齢者には席を譲らなくちゃダメじゃないか」と注意した。この時Bさんは、「高齢者には席を譲るべきである」という普遍化可能性のある道徳判断を下したことになる。もしこのしばらく後、Bさんの前にも高齢者がやってきたのに、「私は今ちょっと疲れているので……」と呟いて寝たふりをしたら、先のBさんの発言は普遍化可能性を欠いており、誠実な道徳判断ではなかったということになる。

 

CさんがDさんにお金を貸しているとする。Cさんは「君はボクにお金を返すべきだ」と要求した。この時Cさんが誠実な道徳判断に基づいて発言したなら、「借りたお金は返すべきである」という普遍化可能性のある判断を下したことになる。つまりCさんは「借りたお金を返す」という義務を自身に課したのである。もしCさんも別の人にお金を借りているのに、「自分は返さなくてもいい」と考えるなら、Cさんの発言もやはり普遍化可能性を欠いていて、道徳判断としては失格だと言わねばならない。

 

分かりやすく言えば、道徳判断はダブルスタンダードになってはならない、ということだ。他人の行為には厳しく、自身の行為には甘く評価するような者は、道徳的な議論に参加する能力を欠く。

 

 ■猫にヴィーガン食を与えること

さて、本題である。ヴィーガンが飼育している猫にヴィーガン食を与えることについて、とんでもないことだと憤る人たちがいる。ペットにまで菜食を強いるなどとんでもない。そもそも猫は肉食動物じゃないか。自分がヴィーガンであるのは勝手だが、猫にまでそれを押し付けるなんて、と。今回は、このように憤る人たちの発言を分析する。この発言が誠実な道徳判断に基づくものならば、発言者にいかなる義務を課すのかを明らかにしたい。

 

まず、犬は肉食性に近い雑食動物であるのに対して、猫は肉食動物である。例えば、猫は植物成分であるカロテンをビタミンA(レチノール)に変換できない。また、必須脂肪酸への依存度が高く、リノール酸とアラキドン酸を摂取させる必要がある。私も講義で、「ベジタリアン用の食事を猫に与えている飼い主さんがいたら、やめるように指導すること」と習っている。「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断には、確かに根拠がある。

 

こうした事情から、猫の飼育はヴィーガンに難題を突きつける。飼育者(「保護者」という語の方が適切かもしれない)は、家族の一員に適切な栄養を与える責任を負う。一方で、倫理的なヴィーガンは、動物を犠牲にすることを避けなければならない。こうして、猫と暮らすヴィーガンは、家族の健康維持のために他者を殺す営みに加担すべきか、家族の健康を損なってでも他者への危害を避けるべきか、というジレンマを突き付けられるのである。

 

とはいえ、このジレンマは早晩解消されるかもしれない。まだエビデンスが少ないことと私自身が詳しく調べていないため断言はできないが、植物由来のフードで十分に彼らの栄養要求を満たすことができるという証拠が蓄積しつつあるようだ。だが、猫にヴィーガン食を与えることの是非は今回は議論しない。今回指摘したいのは別のジレンマについて、すなわち「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と非難する人々が突き付けられているジレンマについてである。

 

「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」。これは、動物由来のアミノ酸脂肪酸に対する栄養要求が高い猫に対して、植物由来のフードを与えることを非難するものである。その核心的な主張だけを抽出すると、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」ということになろう。さて、もしこれが普遍化可能性を備えた誠実な倫理的判断であったとしたら、発言者は常に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理を非難しなければならない。少なくとも、自身が、そのような飼養管理を支持・加担することは避けなければならない。もしこれを支持・加担するならば、「猫にヴィーガン食を与えるなんて」という先の発言は誠実性を備えていなかった、倫理的判断としては失格であった、ということになる。

 

■本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理

日本のブロイラーは、生後50日ほどで、約3kgへと育つ。ある研究によれば、1957年の時点で56日齢の鶏の体重は約900gであった。半世紀ほどでのこの体重増加は、タンパク質含有量が多く、短時間で成長を可能にする「濃厚飼料」のためである。これが鶏本来の特性をどれだけ無視した飼養管理かについては、「約40日齢のブロイラーで27.6%に歩行に問題があり、3.3%はほとんど歩くことができない」ことを指摘すれば容易に理解できるだろう*1

 

NPO法人アニマルライツセンターが、市場で売られている「もみじ(出汁などを取るために売られている鶏足のこと)」178本を調べたところ、うち105本の足裏に皮膚炎が見られた。重たい体重を支えるのに無理がかかっている上に、地面の衛生状態がよくないことから、足がひどい炎症を起こしてしまうのだ。

 

――枝廣淳子『アニマルウェルフェアとは何か 倫理的消費と食の安全』岩波ブックレット

 

本来、乳牛が自分の産んだ子牛のために出す泌乳量は年間数百から1000kgと言われる。それに対し、日本の乳牛の年間平均乳量は約8000kgである。一日に30~40kgの乳を出す牛も珍しくない*2。酪農家は少しでも生産性を向上するため、収益のため、穀物を主体とした過剰な飼料を給餌し、これが脂肪肝などの代謝障害、第四胃変位、低カルシウム血症などを引き起こす。高泌乳量の牛は産前後に起立困難に陥りやすいが、その原因は必要なカルシウムを大量の乳とともに喪失するためである。

 

2016年に公開された「平成27年度家畜共済統計表」によると、約218万頭の肉用牛のうち、死廃・病傷事故頭数は約111万頭(51%)に及び、約5万8000頭の死廃事故のうち、病気で死亡した肉牛は5万6000頭である。死因は約22%が消化器病、18%が呼吸器病、循環器病が17%を占める。これはそれぞれ、濃厚飼料の多給、過密で閉鎖的な屋内飼育、高カロリー飼料の多給に起因すると考えられる*3

 

黒毛和種霜降り牛肉にするためには10か月齢くらいまで乾草を食べさせ、それ以降は筋肉繊維の間に脂肪を入れ込むために極端に高カロリーの濃厚飼料を与え、粗飼料は反芻を促すために必要最低量の乾燥稲ワラしか与えないようにしている。生草はカロチン類を豊富に含み、カロチンは体内でビタミンAに変わるが、カロチンを摂取すると脂肪交雑が起こりにくく、脂肪が黄ばみ等級が下がることから生草を与えず人為的にビタミンA欠乏症にしている。

……

牛は狭い牛舎内で運動不足のうえに高カロリーの飼料を与えられるためにますます肥満し、内臓に脂肪がたまり、脂肪肝動脈硬化が進み、糖尿病状態になって、と畜直前には目が見えず、自分の脚で歩けないような状態になっていることも少なくない。

 

――松本洋一 編著『21世紀の畜産革命 アニマルウェルフェア・フードシステムの開発』養賢堂

 

茨城県畜産協会の発行する機関誌「畜産茨城」平成21年11月号の記事「家畜の病気「生産病」とは」によれば、と畜場に出荷される豚の90%以上に胃潰瘍の症状がみられるとのことである。「この胃潰瘍は飼養環境や供給飼料の形状や油脂、蛋白質の大量増加及び各種の添加剤等、飼料の調整法の変化がストレスの原因とされている。」これもまた、動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理によって引き起こされた疾病に他ならない。

 

■再び、猫にヴィーガン食を……

さて、「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断が普遍化可能性をもつ倫理的判断であり、これが「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」という判断を含意するならば、その発言者は当然ながら上記の悲惨な飼養に対しても強く非難すべきであろう。あるいは、少なくともその飼養管理を支持したり加担したりすることは避けなければならないだろう。つまり、そうした飼養管理を経て生産された肉や鶏卵や牛乳は、購入を控えるべきであろう。

 

しかしながら、「猫にヴィーガン食を与えるなんて」とヴィーガンを非難する者たちの中には、どうしたわけか、肉食者が目立つのである。自身がこれらの悲惨な畜産場から届けられた肉を摂取しながら、すなわち、動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理を支持し、これに加担しながら、ヴィーガンに対しては、そのような飼養管理をすべきではないと非難しているようである。

 

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう*4。私のこの指摘に対して、「家畜とペットは違う」と反発したくなる者もいよう。そのように反発する者は、家畜とされる動物とペットとされる動物に道徳的に重要な違いがあることを示さなければならない*5

 

 

*1:Toby Knowles.(2008),Leg Disorders in Broiler Chickens: Prevalence, Risk Factors and Prevention,Public Library of Science ONE

*2:年間2万kg以上の牛乳を産出する牛をスーパーカウと呼ぶ。

*3:家畜が本来もつ生理的特徴を無視した飼養管理によって起こる人為的な疾病を「生産病」という。ヒトで言う生活習慣病に近い。

*4:上記の通り、発言者が撤回しなくても、今後の信頼性の高い調査・研究により、最早これが無意味な非難であることが明らかになる可能性は十分にある。

*5:道徳的に重要な違い……9月9日の記事「'Treat like cases alike.'という原則」を参照。

死は危害か?

まともな理由もないのに他者に危害を加えてはならない――この倫理観は広く共有され、懐疑主義の立場に固執して敢えてこれを否定しようと試みるのは非生産的であり、不毛であると考える。だが、「まともな理由」に何が含まれるかは議論の分かれるところであるし、「危害」の内容もまた自明ではない。

 

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

今回は、この「危害」の中に「死」が含まれるかどうかを検討する。死は、死ぬ者に対する危害なのだろうか。死は、死ぬ者にとって悪い出来事なのだろうか。デヴィッド・ドグラツィア『動物の権利』を参考に、これを論じる代表的な4つの説について紹介する。4つの説とは、

 ①死の無害説

 ②生存欲求阻害説

 ③未来志向欲求阻害説

 ④機会剥奪説

である。

 

なお、この議論では、死と死ぬ過程を区別しなければならない。4つの説のいずれに依拠するにしても、ヒトや動物が死にゆく過程は、それが当事者の苦痛や恐怖を伴うならば、悪いことである。それは経験の質を低下せしめる出来事だからである。

 

また、常識的な観点から、死が個体に危害を加えるとは言えないであろうケースがいくつかある。死は、100年間の生涯を非常に幸福に生き、老衰により死んでいく高齢者に危害を加えるとは、おそらく言えない。ある動物が「生き続けたい」という欲求を全然持っておらず、非常に苦痛に満ちた生を営んでおり、それが今後改善される見込みもない場合もまた、死がその動物にとって悪であるとは、おそらく言えない。

 

 ①死の無害説

エピクロスによる有名な説*1エピクロスによれば、死は死ぬ者に何ら危害を与えない。

なぜなら、私たちが生きているかぎり、そこに死はなく、逆に死が出現したときには、私たちはもはや生きてはおらず、したがって死を経験することはありえず、こうして死は私たちにとって何者でもないからである。

 

——廣松渉、他『岩波 哲学・思想事典』岩波書店から、渡邊二郎「死」より 

我々が生きて存在している間は、死を体験できない。我々が死んだ時、我々はもはや存在せず、死を経験できない。したがって死は経験不可能なものだというのである。繰り返すが、死と死ぬ過程との区別が重要である。死ぬ過程が苦痛を伴うのであれば、それは確実に害悪である。しかしそれは死そのものとは区別されねばならない。死ぬ過程とはあくまで生きている間に体験する出来事なのである。

 

死の無害説によれば、例えば苦痛を伴う病や拷問により死にゆくことは悪いことだが、交通事故や落雷や核ミサイルの着弾などにより本人の自覚を伴わず死んだならば、それは悪いことではない(後者の場合は、死にゆく過程をほとんどすっとばしているので)。

 

だが、死は何ら悪いことではないという主張はやはり直観に反する。あなたが交通事故に遭い、何の苦痛も恐怖も感ずる間もなく死亡したならば、それは悲劇ではないのだろうか。やはりあなたは死により何物かを損失しており、死は害悪なのだと判断したくはならないだろうか。

 

②生存欲求阻害説

これは、欲求充足説を軸とする主張である。欲求充足説とは、「自分の欲求が実現されることが当人にとっての善(幸福)であり、欲求が実現されないことや、避けたかったことが実現してしまうことが当人にとっての悪(不幸)である」とする学説だ。京都を観光したいという長年の欲求が実現すればそれは当人にとって善(幸福)であり、来ないでほしいと願っていた客人に来られてしまうことは悪(不幸)である。

 

生存欲求阻害説は、この欲求充足説から導かれる結論である。つまり、「生き続けたい」という欲求の実現を阻害するから、死は悪なのである。生き続けたいと願う者にとって、訪れる死は、その実現を奪う出来事であり、したがって、危害である。

 

シンガーによれば、ほとんどの動物にとって、「死」それ自体は危害ではない。なぜなら、動物は死や生という概念を理解していないため、「死にたくない」という欲求を持っていないからである。死にたくないという欲求を持っていなければ(これは「生き続けたい」という欲求を持っていないことと同義である)、死の実現は悪いことではない。そうであれば、ヒトの死は重大な出来事だが、ウシの死は重大ではないことになる。ここから、動物に不自由のない快適な生活を送らせ、無痛で死なせて食べることは不正ではないという結論が導かれる*2。ただし、大型類人猿については「死」を理解するだけの知的能力をもつので、死なせるのは不正であるという*3

 

③未来志向欲求阻害説

生存欲求阻害説によれば、生や死の概念をもたない者にとって死は悪い出来事ではない。生き続けたいと願うヒトや一部の大型類人猿にとって死は危害だが、ウシやネコにとっては死は危害ではない(便宜上「ウシやネコ」と書いたものの、ウシやネコが本当に生や死の概念をもたないかどうかは今後慎重に検証されなければならない問題であり、確定事項ではないのだが、以下、一旦そのように仮定する)。

 

未来志向欲求阻害説は、死は、ある者がもっている未来志向の欲求の実現を妨げるがゆえに危害である、と考える*4。この場合、ある者はたとえ「生き続けたい」という欲求をもっていなかったとしても、未来における何らかの事態を望んでさえいれば、死から危害を被るのである。

 

ドゥグラツィアの例を引用する。あるオオカミは群れのリーダーになりたいと望んでいたとしよう。彼は同盟の形成や幾度かの闘争を経て、群れのトップの地位に近づきつつあった。もし彼が目標を達成する前に死んだとしたら、たとえ死の概念を理解していなかったのだとしても、「群れのリーダーになりたい」という欲求の実現が妨げられたのだから、死から危害を受けたのだと論じることができる。

 

ウシが未来志向の欲求を持つかどうかは不明である。だがもし「明日はあの辺の草をめっちゃ食おう」という欲求をもしウシが持つことができたとしたら――そして現に持っているウシを屠殺するなら――死はウシに危害を与えるのである。

 

④機会剥奪説

②にせよ、③にせよ、これらは個体の欲求に基礎をおくアプローチである。②の場合は生と死の概念の理解に加えて「生き続けたい」という欲求、③の場合は未来志向の欲求を持つことが、死から危害を被る条件とされる。

 

しかしながら、もし②または③が正しければ、人間の乳幼児にとっても死は危害ではないということになる。生後1週間の乳幼児はおそらく未来に対して何の計画も持っておらず、また生に関する概念も形成していないだろう。この乳幼児が苦痛なく死を迎えることは、当人にとって悪いことではない。死によって何の欲求も阻害されておらず、したがって危害を被っていないからである。だが、このような結論は、どうも直観に反するのではないだろうか?私達の多くは、乳幼児が不慮の事故で死んでしまった場合、乳幼児は死によって害悪を被ったと自然に判断するのではないだろうか。

 

それに対して、機会剥奪説によれば、死は乳幼児にとっても危害である。機会剥奪説は、「死は生の継続が可能にする貴重な機会を閉ざしてしまう限りにおいて、手段的な危害である」と論じる。感覚をもつ動物は、生き続ける限り、喜びや満足など、経験の質を高める貴重な機会をもつことができる。死は、死ななければ享受し得たであろう様々な貴重な体験(大空を気持ちよく飛ぶ、楽しく泳ぎ回る)を奪うがゆえに、危害になる。このことは、個体が未来志向の欲求をもっているかどうかにも、将来にそうした機会をもつ可能性について自覚しているかどうかにも、関係がない。

 

したがって、感覚をもつ動物にとって、死は危害となる。乳幼児にとっても、ウシにとっても、マウスにとっても、魚にとっても、そうであろう。だが、感覚をもつ可能性がある存在にとって死が危害を意味するかどうかは議論を呼ぶところである(言うまでもなく、人工妊娠中絶の話である)。

 

さいごに

哲学は数学ではないので、どの説が正しいのか、正解を導くことはできない。だが、私自身は④の機会剥奪説を支持したい。種差別を避けること(すなわち人の死が動物の死よりも重大だとするなら合理的な理由を要すること)、常識的見解や直観と矛盾しないこと*5(奇妙な結論が出てきたら学説を疑うこと)、この二点を重視すると機会剥奪説が妥当と思われるのである。

 

むろん、常識的見解や直観が常に正しいわけではない。だが森村先生が言うように、「少なくとも倫理学のような実践的な領域では、常識の判断にはそれなりの重みがある」のであり、「もし他の点では同じ程度の論理的一貫性や説明力を持つ複数の理論があったら、その中では常識に一番合致するものをとりあえず採用するのが合理的」と言えよう*6

 

ただし、機会剥奪説とて欠陥がないわけではない。散歩家さん*7の指摘した機会剥奪説の欠陥について、今度少し考えてみて、記事にしたく思う。

 

 

 

*1:エピクロスについては、散歩家さんのブログに詳しい。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか

エピクロスの倫理観について   

*2:講座 あにまるえしっくす』第2回にも書いたが、シンガーはこれによって畜産を認めているわけではない。工場畜産で動物に苦痛を与えないのは事実上不可能であるという点から、工場畜産に反対している。

*3:例えばローランドゴリラのココが「死」の概念を理解していたというのは有名な話である。

*4:未来志向の欲求をよく「計画」と表現する。

*5:①はもちろん、②~④のいずれの説を採用しても、最初に取り上げた二つのケース(100歳まで幸福に生きた高齢者の死、苦痛に満ちた生を営む動物の死)について、死は危害ではないという常識的見解と合致する。

*6:森村進『幸福とは何か』ちくまプリマ―新書より

*7:苗野がtwitterで知り合った人。エピクロス主義者。ブログ「思考の断片」。

'Treat like cases alike.'という原則

倫理は趣味と同じで個人の好みの問題だから議論しても仕方ないという意見がある。しかし、良い倫理的判断は、少なくとも三つの要素(事実と価値の区別、判断の一貫性、公平な視点)を考慮に入れている必要がある。

――児玉聡、『入門・倫理学』の第一章「倫理学の基礎」より

 

 良い倫理的判断は、①事実と価値とが峻別され、②判断には一貫性が伴い、そして③公平な視点が保持されていなければならない。①と③についてはまた別の機会に論じるとして、ここでは②の判断の一貫性について軽く紹介したいと思う。尚、「①事実と価値の区別」は8月26日に記事にしたヒュームの法則と関わるものである(ヒュームの法則、普遍化可能性 - ピラビタール)。

 

 倫理的判断の一貫性とは、「似たような事例は、似たように扱わねばならない」という原則であり、いわば正義の要求である。二つの事例について我々の判断が異なっているならば、その評価の違いを正当化するような適切な相違が二つの事例にあることを示さなければならない。二つの事例にそうした違いがないにもかかわらず、その評価が異なっているならば、恣意的であるとの誹りを免れないであろう。尚、そうした適切な相違のことを道徳的に重要な違いという。

 

一郎と次郎という双子がいて、先に帰宅した一郎が学校で良い成績を取ったと言うので親が一郎に特別に小遣いをやったとする。すると後から次郎も帰ってきて、同一の良い成績を取ってきたと言ったとしたら、親はどうすべきか。この場合、何か特別な理由を見出せない限りは、同じだけの小遣いをやるべきだと言えるだろう。これが倫理的判断に要求される一貫性である。

―赤林朗、児玉聡『入門・倫理学勁草書房

 

 確かに、一郎と次郎には様々な相違がある。名前は異なり、双子とは言え二人の顔つきは微妙に異なるだろう。趣味や食べ物の好みも異なるかもしれない。だが、それらは道徳的に重要な違いではない。

 もし親が、次郎が一郎と顔つきが異なるからという理由で次郎に小遣いを与えなかったとしたら、恣意的であることは明らかであり、倫理的判断としては失格である。だが、もし次郎は普段から成績がよく、次郎にとってこのような成績は珍しいものではなく、「その程度で小遣いは要らないよ」という了解が親との間でなされているのであれば、二人を異なった仕方で取り扱う適切な理由、つまり道徳的に重要な違いになるだろう。

 

 「似たような事例は、似たように扱え」'Treat like cases alike.'という原則を、ゲイリー・フランシオンは平等な配慮の原則と呼ぶ。呼び方が異なるだけで、論じている内容は同じである。

平等な配慮の原則は、二人の人物サイモンとジェーンがほぼ同じような利益を持つ際に、妥当な理由がないかぎり両者を別扱いしないことを求める。例えばジェーンにとって大学へ行くことが利益であり、サイモンにとってもそれが利益だったとする。その時、もしサイモンが大学入学を認められるのなら、平等な配慮の原則により、ジェーンも入学を認められるべきで、そうしないのは妥当な理由がある場合に限られる。

―ゲイリー・フランシオン『動物の権利入門』緑風出版

 もしもサイモンがジェーンよりも優秀であるとか、合格基準点を満たしたのがサイモンだけであるとか、そういった理由があるのならば、二人の別扱いは正当化されよう。しかし、サイモンが男性でありジェーンが女性であるとか、ジェーンの出自がほにゃららであるからといった理由で二人に別扱いを設けるのであれば、それは不当であり、道徳的に許容されない。性の違いや出自は、大学で勉強するという共通の利益に何ら関係がなく、道徳的に重要な違いたり得ないからである。

 

 フランシオンは、「平等な配慮の原則はあらゆる道徳理論の必須要素であり、この原則を含まない理論は道徳理論たりえない」と言う。例えばある者は極刑を道徳的に正当だと信じているとしよう。彼は、計画殺人を犯した者は肌の色や性別に関係なく、みな処刑されるべきだと信じていたとする。別の者は、極刑はいかなる場合も不当だと信じていたとする。両者は、極刑の倫理的正当性においては対立しているものの、平等な配慮の原則は共有している

 前者は極刑が人種や性別に関係なく執行されるべきであると考えている点で、後者は極刑はいかなる場合にも許されないと考えている点で、両者の判断は少なくともともに一貫性を備えているのである(ここで、前者が「黒人の犯罪は極刑に処するべきだが、白人の犯罪には極刑を執行するべきではない」と意見したとしたら、一貫性を喪失し、倫理的判断としては失格である)。

 

 さて、動物倫理の話である。我々が、「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」と考えている行為がいくつかある。例えば監禁し、肥らせ、食用にすることがそれである。医学研究や教育のために実験に利用することがそれである。娯楽のために展示することがそれである。「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」という取り扱いの相違を正当化するような道徳的に重要な違いが、人間と動物の間に存在するのだろうか。

 人間は二足歩行だが、動物は四本足であることが、人間を実験に使ってはならないが、動物ならば実験に利用しても許される適切な理由だろうか。言語を用いたコミュニケーションが可能であるか可能でないかという相違が、人間を食用に供してはならないが動物ならばそうしてもよい適切な理由だろうか。これらが取り扱いの違いを正当化できる道徳的に重要な違いであろうか。

 人間が虐待されたり監禁されたりすることを避けたいのは、虐待されないこと、監禁されないことに利益をもつからである。そして、虐待や監禁に苦痛を覚えるのは人間だけではない。少なくともある程度の複雑な神経系(侵害受容器や痛みの経験を処理できる脳構造)を備えた動物は、苦痛を感じることができる。「虐待してはならない」という倫理的判断に我々が共感を覚える最大の(おそらく唯一の、ではないが)要因は、「我々は苦痛を感じる」という点である。そしてその点において人間と動物に違いがなく、他の様々な相違が道徳的に重要な違いでない以上*1、「他者を虐待してはならない」という倫理的判断は人間以外の動物(少なくとも脊椎動物の大部分は含まれるだろう)にも適用されなければならない。

 一方で、人間と動物の取り扱いに違いを設ける適切な理由となるものがある。犬の散歩では、車両が行き来する一般道を歩くことがあるだろう。犬は動いているものに興味を示し突然走り出すかもしれない。車がどれほど危険であるかということを、犬に教え諭すことは困難である。そして走り出した犬を人間が捕まえるのは一層困難である。こうした理由は、人間の幼児には通常リードをつけないが、犬にリードをつけるという取り扱いの違いを正当化する道徳的に重要な違いとなり得るだろう。

 

入門・倫理学

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動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか

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*1:他の様々な違いが道徳的に重要な違いでない以上……人間と動物の様々な相違が人間と動物の道徳的地位に差をもたらす理由とはなり得ないということを、8月23日の記事「人間と動物の道徳的地位」で論じています。