ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

ヒュームの法則、普遍化可能性

前回は、「特徴」や「能力」といった観点から、人間の特権的な道徳的地位を主張する議論を批判した。今回は論理学と倫理学の概念を用いて、この議論の構造を分析する。そして、やはり「種差別」は擁護し難い、という結論を導くつもりだ。尚、今回の議論は伊勢田哲治先生の『動物からの倫理学入門』の第2章に多くを負っているので、興味のある人は手に取ってみてほしい。

 

動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

 

 

まず、「種差別」を擁護して、動物に対する差別的な扱いを許容する人たちが頻繁に提示する根拠を5つほどピックアップしてみよう。

 

(1)動物は自ら権利を主張しない。

(2)動物は人間のように知性をもたない。

(3)動物は責任能力や契約能力をもたない。

(4)人間が動物を利用するのは自然だ。

(5)人間は伝統的に動物を利用してきた。

 

多くの種差別主義者は、このような根拠を提示し、「だから動物を差別扱いしてよい」(=「だから人間は特別な道徳的地位をもつ」)という主張を展開する。しかし、こうした主張とそれに対する反論は動物倫理ではもはやお馴染みのやり取りになっている。(1)~(3)の根拠については、既に前回の記事で反駁した通りである。そこで強力な論法となるのが「限界事例論」であった。

 

とは言え、「動物は自ら権利を主張しない、だから動物を差別扱いしてもよい」と主張する人は、それによって「権利を主張しない者を差別扱いしてもよい」ということまで主張したことになってしまうのだろうか。この人はあくまで動物の話をしていたはずなのに、なぜその主張が、人間にまで拡張された一般論としての意味を帯びてしまうのだろうか。

 

その秘密は、この主張の論理構造に隠されている。

 

推論A

前提 動物には責任能力や契約能力がない

結論 動物は差別扱いしてもよい

 

この「前提、だから結論」の流れを推論という。「今日は月曜日だ。だから明日は火曜日だ」はひとつの推論だ*1。では、推論Aは正しいのだろうか。推論Aは

 

前提 XはYである

結論 XにZしてよい

 

という構造をしている。この推論に対しては、有名な「ヒュームの法則」に違反している、と指摘することができる。

 

ヒュームの法則とは、事実判断から価値判断を導くことはできない、という法則だ。わかりやすくいうと、「~である」という事実に基づく前提から、「~すべきである(でない)」とか「~はよい(悪い)」といった価値評価を含む結論を導くことはできない、論理が飛躍している、ということだ。18世紀イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームにちなんで「ヒュームの法則」と呼ばれる(ただしこの“法則”が実際にヒュームの意図に沿ったものであるかどうかは議論の余地がある)。

 

例えば、

 

推論B

前提 まりなは女性だ。

結論 まりなはお淑やかにすべきだ。

 

この推論は、「まりなは女性である」という事実に基づく前提から、「まりなはお淑やかにすべきだ」という価値判断を結論として導いている。

 

推論C

前提 この絵は対称性を備えている。

結論 この絵は美しい。

 

この推論は、「この絵は対称性を備えている」という事実に基づく前提から、「この絵は美しい」という価値評価を結論として導き出している。(「美しい」とか「ダサい」といった評価も価値判断である。「善い」「悪い」のような道徳的な価値判断に対して、これは美的な価値判断である。)

 

さて、「まりなは女性である」とか「この絵は対称性を備えている」というのは単なる事実である。この単なる事実から、「だからどうすべきだ」とか「だからよい」といった価値判断を論理的に導くことはできるのだろうか。ヒュームの法則が正しければ、できない。端的に言えば、「論理が飛躍」している。

 

「論理が飛躍している、だからこの推論は却下!」というだけでは面白くない。ヒュームの法則はさらに、この推論に暗黙の前提が隠れていることを示唆している。例えば推論Bは、「まりなは女性だ」という前提に加えて「女性はお淑やかであるべきだ」という価値判断に基づく第二の前提が隠れている、ということを見抜くことができる。推論Cについては、前提「この絵は対称性を備えている」に加えて「対称性を備えている絵は美しい」という第二の前提(あるいは仮定)が実は隠れているのだ、ということを見抜くことができる。

 

つまり推論Bは本当は

 

前提① まりなは女性だ。

前提② 女性はお淑やかであるべきだ。

結論 まりなはお淑やかにすべきだ。

 

という形の推論だったというわけだ。一般化して書くと、

 

前提① XはYである

前提② YであるならZすべきだ

結論 XはZすべきだ

 

ということになる。そして、推論Cは本当は

 

前提① この絵は対称性を備えている。

前提② 対称性を備えている絵は美しい。

結論 この絵は美しい。

 

という形の推論だったというわけだ。

 

このような三段論法に基づく推論なら、とりあえず形式的には正しい。形式的には正しいとは、これら2つの前提から、確かに結論が導かれるということ。この前提の内容が正しいかどうかはまた別の話である*2

 

さて、ヒュームの法則という武器によって隠された暗黙の前提を見抜くことができることがわかった。では、種差別を擁護する先ほどの推論Aを検証してみよう。

 

推論A

前提 動物には責任能力や契約能力がない

結論 動物は差別扱いしてもよい

 

推論Aにもやはり、隠された暗黙の前提を指摘することができる。隠れている前提は「責任能力や契約能力がない者ならば差別扱いしてもよい」だろう。つまり推論Aは以下のように再構成することができる。

 

推論A

前提① 動物には責任能力や契約能力がない

前提② 責任能力や契約能力がない者ならば差別扱いしてもよい

結論 動物は差別扱いしてもよい

 

もし推論Aがこのような三段論法なら、推論の形式自体は正しい。しかし前提②を私達は受け入れることができるだろうか。これはかなり厳しい。もちろん、「相手が人間だろうと、責任能力や契約能力がない者は差別してもよいのだ」とか「相手が人間だろうと、権利を主張しない者を保護する必要はない」などと開き直って、限界事例の人々への配慮も否定することはできる。しかしそうすると、私達の培ってきた社会道徳は後退を余儀なくされ、歴史の歯車を大幅に巻き戻さなければならなくなるだろう。

 

次に、道徳判断につきまとう「普遍化可能性」という概念を導入する。普遍化可能性とは「ある場面で道徳判断をしたなら、それと類似したあらゆる場面で同じ道徳判断を下したことになる」という道徳判断のもつ性質である。

 

具体例で説明しよう。電車内で村山くんが、高齢者が目の前に座っているのに席を譲らずに座っていた。これを目撃したまりなさんは、村山くんに「高齢者には席を譲らないとダメじゃない」と注意した。この時まりなさんは、「高齢者には席を譲るべきである」という道徳的判断を下したことになる。もしこのしばらく後、まりなさんの前にも高齢者がやってきたのに、「私は席を譲らなくてもいいの」と呟いて寝たふりをしたら、先のまりなさんの発言は普遍化可能性を欠いており、まりなさんの道徳判断は失格だということになる。

 

高木くんが林くんにお金を貸しているとしよう。高木くんは「君はボクにお金を返すべきだ」と要求した。このとき高木くんが誠実な道徳判断に基づいて発言したなら、これは「借りたお金は返すべきである」という普遍化可能性のある判断を下したことになる。もし高木くんも別の人にお金を借りているのに、「自分は返さなくてもいい」と考えているなら、高木くんの発言もやはり普遍化可能性を欠いていて、道徳判断としては失格だと言わねばならない。

 

この道徳判断につきまとう「普遍化可能性」を手がかりに、最後の(4)と(5)を見てみよう。

 

(4)人間が動物を利用するのは自然だ。

(5)人間は伝統的に動物を利用してきた。

 

この(4)と(5)から「だから動物を差別的に扱ってよい」という結論を導くには、先ほど見たように、暗黙の前提を付け加えて再構成しなければならない。つまりこうだ。

 

推論D

前提① 人間が動物を利用するのは自然だ。

前提② 自然なことをすべきである(または自然なことをしてもよい)

結論 動物を差別的に扱ってよい

 

推論E

前提① 人間は伝統的に動物を利用してきた

前提② 伝統は維持すべきである

結論 動物を差別的に扱ってよい

 

推論Dの「自然なことをすべきである」や「自然なことをしてもよい」、推論Eの「伝統は維持すべきである」が普遍化可能性を備えた誠実な道徳判断ならば、動物に関与する場面に限らず「自然なこと」や「伝統」に関わる場面では一律にこのように判断を下さなければならない。

 

そもそも「自然なこと」という語の意味が非常に曖昧でつかみ難く、論者が恣意的に定めることのできる不適切な表現であろう。私たちが服を着ることや車や飛行機に乗ること、スマホやパソコンを使うことは自然なことだろうか。あるいは、路上での排泄や性行為も、性欲の赴くままに誰かを襲うことも、すべきこと、よいことになるのだろうか。私達が病気に倒れ、高度な医療によってこれを治療することはおよそ自然界では見られない現象だが、これは良からぬことなのだろうか*3。「野生動物も他の動物を殺して食べる」ことを自然なことの一例として挙げる者もあるが、野生動物の中には恐ろしい子殺しをする動物もいれば、レイプをする動物もいる。私達もそれに倣っていいのだろうか(ちなみに、大部分の野生動物は草食なのだが)。

 

「伝統は維持すべきである」なら、民主主義や人権などというものは放棄して、男尊女卑の社会に立ち返るべきだ、という判断も導かれかねない。

 

以上のように、動物への差別的扱いを肯定する根拠を厳密に分析すると、限界事例の人々に対する差別的扱いも肯定されたり、残酷な伝統も擁護しなければならなくなったり、非常にまずい結論が導かれてしまう。結論を言う。種差別を擁護するのは、非常に難しそうである。道徳判断が備えている普遍化可能性という性質はかなり強い縛りで、私達の倫理的思考をかなりの程度方向付けてくれるだろう。

 

*1:ただし厳密に正しい推論ではない。厳密には、もう一つの前提「月曜日の翌日は火曜日である」を必要とする。すなわち「今日は月曜日だ。月曜日の翌日は火曜日だ。だから明日は火曜日だ」が正しい推論である。

*2:当然ながら私は、「女性はお淑やかであるべきだ」という規範を唾棄すべきものと考える。

*3:これまた厳密に言えば、「自然なことをすべきである」は「不自然なことをすべきではない」を含意しない。だが、ヴィーガンに批判的な人は往々にしてヴィーガンの生活が「不自然」であることを指摘するので敢えて同義とした。