ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

押し付けないで!

ビーガニズムにせよ反出生主義(アンチナタリズム)にせよ、何らかの倫理的なism(イズム)を主張する者は、ほぼ必ず「価値観を押し付けないでほしい」という反発に直面する。ビーガンならば、「自分が肉を食べないのは勝手だが、他人に肉を食べないように押し付けるべきではない」という反発を食らったことが一度はあるのではないか。アンチナタリズムも同様であろう。「自分が子供をもうけないのは好きにしたらいいが、他人の決定に口をはさむべきではない」という反発は頻繁に見かける。

 

今回の記事では、何らかの倫理的なismの主張に対して、「その価値観を押し付けるな」と反発することが不可能であること、不当であること、そして的外れであることを、3つの観点から解説する。(書き終わってから気が付いたが、ビーガニズムの話題がメインで、反出生主義の話はほとんど出てこない。しかし反出生主義にも以下の議論はまったく同様に適用できる)

 

ちなみに今回の記事の一部は、既に『講座あにまるえしっくす』第2回コラム2で論じてある。

 

第1の観点 不可能であること:自縛性

 

そもそも「押し付ける」とはどういう意味か。辞書によれば「相手の意思を無視して、無理に承知させたり、引き受けさせたりする」ということだが*1、その言葉の意味通りに「押し付け」られたノンビーガンが果たしているかというと、甚だ怪しい。自分の行動を実際に制限されたわけでもなく、自分の意に反する何らかの選択を強要されたわけでもないならば(手足を縛られて無理やり菜食料理を食べさせられたり、脅されて肉料理を取り上げられたりしただろうか?)、少なくとも辞書の定義する「押し付け」とは異なる。あなたがビーガンからの説得を無視して動物を食べることが可能ならば、それこそが、少なくとも辞書が定義するような「押し付け」被害には遭っていないという証拠である。

 

ここで、「押し付けるとは辞書通りの意味ではない。もっと緩やかな言葉なのだ」と反論することもできよう。確かに私たちは他人から何かを力強く説得されると、そこに強制性を伴わなくとも「押し付けがましく」感じることがある。ならば、辞書の定義通りに考えることは誤りなのではないか。「押し付け」という言葉は日常ではもっと緩やかに広く使われているではないか。そこで、辞書とは異なった定義を試みてみよう*2

 

「押し付け」という言葉を非常に広く解釈し、「他人に、自分の倫理的判断への支持・共有を求めること」と定義してみよう。すると、「あなたの価値観を押し付けるな」という主張は「他人に、自分の倫理的判断への支持・共有を求めるな」と翻訳できる。これを倫理的判断Aしよう。

 

倫理的判断A:他人に、自分の倫理的判断への支持・共有を求めるべきではない

 

さてこのとき、倫理的判断Aを主張する者は、倫理的判断Aへの支持・共有を他人に求めることができるだろうか。その人が誠実に倫理的判断Aを実行するべきと考えるなら、できない。それは倫理的判断A自身によって禁止されているからだ。倫理的判断Aの支持者は、「他人に、自分の倫理的判断への支持・共有を積極的に求めるべし」と信じて他人を説得して回る者と出会ったとき、何も言うことができない*3。これは「押し付ける」という語を広く定義した時の帰結としての自縛である。

 

第2の観点 不当であること:論点先取と危害原理

 

これは『講座 あにまるえしっくす』コラム2に書いたことだが、「あなたの価値観を押し付けるべきではない」という主張は、食事の問題が、個人的な選択、個人の意見の問題に過ぎないということを最初から前提にしている。しかしながら、ビーガンが疑義を呈しているのはまさにその前提である。ビーガンはそもそも「食事の問題は個人の選択や意見の問題ではないのではないか」と疑義を呈しているのだから、「食事の問題は個人の選択や意見の問題に過ぎない」ということを最初から前提とし、それを主張の根拠にするのは論点先取である*4

 

ではなぜ「動物食の是非は意見の問題に過ぎない」という前提があるのか。それは、動物は平等な倫理的配慮に値しないというさらに根強い大前提があるからだ。そうであればこそ、動物食が善いか悪いかは意見の問題に過ぎなくなる。私たちは人間を対象とした奴隷制は非倫理的であると信じ、奴隷制が善いか悪いかを個人の意見の問題とは考えていない。それは、私たちは人間が誰しも平等な倫理的配慮に値するという大前提、あるいは人権の原理という大前提を既に受け入れているからである。

 

ビーガンが主張していることは「食事の問題は個人の選択や意見の問題ではない」ということである。そしてその大前提にあるのは動物もまた平等な倫理的配慮に値するということである。である以上、「食事の問題は個人の選択や意見の問題なのだから、押し付けるべきではない」という反論は論点先取となり不適切である。反論するならば、「食事の問題は個人の選択や意見の問題である」ということの論証から始めなければならない。そしてその前段階としてまず「動物は平等な倫理的配慮に値しない」ということを論証しなければならない。

 

そして、仮にもし動物が平等な倫理的配慮に値するとすれば、食事は――実験も、娯楽やスポーツの動物利用も――個人の選択でも意見の問題でもなくなる。平等な倫理的配慮に値する対象に危害を加える行為を、私達は個人の自由であると弁護することはできない。端的に言えば、被害者のいる行為は個人の自由ではない。それは、他人に受動喫煙をさせる行為が個人の自由ではないということとまったく同様である*5。もし動物を被害者と見なすことが正当ならば、その場合はノンビーガンこそが動物に苦痛と死を「押し付け」ている、と言えてしまうだろう。喫煙者が周囲の人々に受動喫煙の苦痛を「押し付け」ているのと同様に。

 

要するに、ビーガンの訴えを受け入れられないならば、「価値観を押し付けるな」と反発するのではなく、「動物は平等な倫理的配慮に値しない*6ということを論証すべきだということである。

 

第3の観点 的外れであること:倫理的判断の普遍性

 

倫理的な判断とは、そもそも他人や社会に対して「~すべし/すべからず」と要請するものである。したがって、倫理的な観点から他人に何かしら呼びかける人に対して、「あなたの倫理観を他人に押し付けるな」と反発するのは、そもそも倫理的な判断というものの性質に対する無理解があると言えるだろう。

 

もう少し詳しく解説してみよう。単なる個人的格率と倫理的な格率とを区分する指標の一つは、それを進んで普遍化する用意があるかどうかである。「格率」とは自分の持つ行為規則、決まりくらいに思っておいてほしい。「毎朝7時に起きよう」ということを自身の行為規則にしている人は、それがその人の格率である。「普遍化する用意」とは、「誰もがその規則に従って行動するよう期待する」ということである。「決して人を傷つけてはいけない」という格率を自分1人だけ守ればいいというのではなくて、他の人々にも守ってほしいと同時に期待するとき、人はこの格率を普遍化しようと欲しているというわけだ。

 

もし人がある格率を道徳の原則と考えるならば、それを進んで普遍化する用意がなければならない。また逆に、自分の格率を他の人々にも採用して欲しいと願わない人には、本当の意味での道徳はない。他の人々にもこの格率を共有してほしい、つまりこの格率を普遍化したいという態度が伴わないのなら、その人は倫理的に判断しているのではない。考えてみてほしい。「他人を傷つけてはならない」という格率を自分だけが守ればよいとし、「他の人々が他人を傷つけるのは構わない」と考える人は、倫理や道徳という言葉がふさわしい人間だろうか。

 

つまり、倫理的観点から選択し、判断する――倫理的判断にコミットする――ということは、自分の格率を進んで普遍化しようとするということを必ず伴う*7。「人を傷つけてはならない」という倫理的判断に本当にコミットするならば、これを普遍化し、「誰もが他人を傷つけてはならない」という立場に立たなければならない。「私は他人を傷つけないが、他の人々が他人を傷つけるのは別に構わない」と考える人はコミットしておらず、倫理的な人間ではないのだ。

 

以上の議論を踏まえると、次のように言うことができる。「私は動物を食べないが、他の人々が動物を食べることは構わない」と考える人は、少なくとも倫理的な意味で取り組んでいる人ではない(おそらくは多くのノンビーガンに好まれるタイプだろうが)。倫理的な観点から取り組んでいる人は、「私は動物を食べないし、他の人々にも食べないでほしい」と同時に希望しなければならないのだ、と。

 

そういうわけで、誰かが「~すべきである」という倫理的判断を周囲の人々に訴えているとき、「自分1人でやれ」「押し付けるな」と言うのは、そもそも的外れだということだ。倫理的な判断というものはその性質上周囲に対する支持と共有、採用を求めるものなのである。もし誰かが倫理的な観点から「~すべき」ということを私達に訴えており、そして私達にはそれが受け入れられないものなら、「押し付けるな」と反発するのではなく、その判断が理に適っていないこと、間違っているということを伝えなければならない。つまり、例えば「ビーガンになるべきだ」とか「子供を産むべきではない」といった倫理的な観点からの訴えを聞いて、それを受け入れられないならば、「押し付けるな」と反発するのではなく、「ビーガンにならなくてもよい理由」や「子供を産んでもよい理由」を説明して対抗しなければならないというわけである*8

 

最後に。私は第3の点は、ビーガンを判断する際の最重要の指標になると思っている。ビーガニズムに基づいた生活を「したい人が個人的に採用すればいいもの」と思っているのか、「基本的に誰もが採用すべきもの」と思っているのか。これはその人がどのような観点から取り組んでいるのかを知る重要な判断基準となるだろう。

 

■参考文献

W.K.フランケナ〔著〕、杖下隆英〔訳〕(1975年)『倫理学 改訂版』培風館

野矢茂樹(2017年)『大人のための国語ゼミ』山川出版社

 

倫理学 (哲学の世界 2)

倫理学 (哲学の世界 2)

 

 

*1:松村明〔編〕『大辞林 第四版』三省堂

*2:定義にこだわるのは、明晰な議論を試みるならば、「押し付け」と「押し付けではないもの」とをきれいに区別できなければならないからだ。Aという言葉の定義をせずにAについて議論することはできない。

*3:しかしながら、沈黙もまた支持者にとって矛盾である。というのは、自分の支持する倫理的判断Aとは異なった指針に従う者に対して、批判しないこともまた判断と実践との不一致と言えるからだ。

*4:論点先取とは、「ある主張の根拠の中に、既にその主張が含まれているような論証」のことである。論点先取は論証の教科書では「循環論法」と同様に扱われることが多い(循環論法は『講座 あにまるえしっくす』第4回で扱っている)。以下の例を見てみてほしい。

 

オーガイ「すばらしい芸術作品を鑑賞すべきである」

ソーセキ「どうして?」

オーガイ「そうしないと鑑賞眼が養われないからだ」

ソーセキ「なぜ鑑賞眼なんか養わなくっちゃいけないのかね?」

オーガイ「鑑賞眼がなければ芸術作品を鑑賞することができない」

 

野矢茂樹、2017、p.193

 

オーガイの主張は「すばらしい芸術作品を鑑賞すべき」である。そしてその根拠は「鑑賞眼を養うため」だという。しかし、「鑑賞眼を養うため」という理由は、「すばらしい芸術作品を鑑賞すべき」という考えを前提にしてしまっている。実質的に根拠として成立していないのである。

*5:「他者に危害を加えない限り、個人の自由は最大限保障されなければならない」とするいわゆる危害原理は、喫煙者も非喫煙者も共有している。なぜ喫煙者と非喫煙者とで衝突が生じるかというと、「危害」の範囲に関して見解の相違があるからである。同様に、ビーガンもノンビーガンも危害原理を支持し、共有している(していない人もたまにいるが、大半はしている)。ここでは「他者」の範囲に関して見解の相違がある。ビーガンは「他者」には動物も含まれると考えている。

*6:これは「動物は被害者になり得ない」といった表現にも換言できるだろう。

*7:中には「個人道徳」と呼ばれ得るものもあるかもしれない。「私は決して嘘をつかない(しかし他の人が嘘をつくことはとめない)」という格率が典型である。このような格率を採用している人は倫理的なのだろうか?議論がややこしくなるので、ここでは個人道徳は除外して考える(しかし私は個人道徳は本当の意味での道徳ではないように思う)。

*8:念のため注意しておくと、第3の点はあくまで「倫理的な観点」からの訴えに対する話である。倫理とは全く無関係な場面におけるいわゆる「押し付け」に対しては、「押し付けるな」という反発が正当である場面も多々あると思われる(例えば何かのセールスや勧誘など)。