ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

'Treat like cases alike.'という原則

倫理は趣味と同じで個人の好みの問題だから議論しても仕方ないという意見がある。しかし、良い倫理的判断は、少なくとも三つの要素(事実と価値の区別、判断の一貫性、公平な視点)を考慮に入れている必要がある。

――児玉聡、『入門・倫理学』の第一章「倫理学の基礎」より

 

 良い倫理的判断は、①事実と価値とが峻別され、②判断には一貫性が伴い、そして③公平な視点が保持されていなければならない。①と③についてはまた別の機会に論じるとして、ここでは②の判断の一貫性について軽く紹介したいと思う。尚、「①事実と価値の区別」は8月26日に記事にしたヒュームの法則と関わるものである(ヒュームの法則、普遍化可能性 - ピラビタール)。

 

 倫理的判断の一貫性とは、「似たような事例は、似たように扱わねばならない」という原則であり、いわば正義の要求である。二つの事例について我々の判断が異なっているならば、その評価の違いを正当化するような適切な相違が二つの事例にあることを示さなければならない。二つの事例にそうした違いがないにもかかわらず、その評価が異なっているならば、恣意的であるとの誹りを免れないであろう。尚、そうした適切な相違のことを道徳的に重要な違いという。

 

一郎と次郎という双子がいて、先に帰宅した一郎が学校で良い成績を取ったと言うので親が一郎に特別に小遣いをやったとする。すると後から次郎も帰ってきて、同一の良い成績を取ってきたと言ったとしたら、親はどうすべきか。この場合、何か特別な理由を見出せない限りは、同じだけの小遣いをやるべきだと言えるだろう。これが倫理的判断に要求される一貫性である。

―赤林朗、児玉聡『入門・倫理学勁草書房

 

 確かに、一郎と次郎には様々な相違がある。名前は異なり、双子とは言え二人の顔つきは微妙に異なるだろう。趣味や食べ物の好みも異なるかもしれない。だが、それらは道徳的に重要な違いではない。

 もし親が、次郎が一郎と顔つきが異なるからという理由で次郎に小遣いを与えなかったとしたら、恣意的であることは明らかであり、倫理的判断としては失格である。だが、もし次郎は普段から成績がよく、次郎にとってこのような成績は珍しいものではなく、「その程度で小遣いは要らないよ」という了解が親との間でなされているのであれば、二人を異なった仕方で取り扱う適切な理由、つまり道徳的に重要な違いになるだろう。

 

 「似たような事例は、似たように扱え」'Treat like cases alike.'という原則を、ゲイリー・フランシオンは平等な配慮の原則と呼ぶ。呼び方が異なるだけで、論じている内容は同じである。

平等な配慮の原則は、二人の人物サイモンとジェーンがほぼ同じような利益を持つ際に、妥当な理由がないかぎり両者を別扱いしないことを求める。例えばジェーンにとって大学へ行くことが利益であり、サイモンにとってもそれが利益だったとする。その時、もしサイモンが大学入学を認められるのなら、平等な配慮の原則により、ジェーンも入学を認められるべきで、そうしないのは妥当な理由がある場合に限られる。

―ゲイリー・フランシオン『動物の権利入門』緑風出版

 もしもサイモンがジェーンよりも優秀であるとか、合格基準点を満たしたのがサイモンだけであるとか、そういった理由があるのならば、二人の別扱いは正当化されよう。しかし、サイモンが男性でありジェーンが女性であるとか、ジェーンの出自がほにゃららであるからといった理由で二人に別扱いを設けるのであれば、それは不当であり、道徳的に許容されない。性の違いや出自は、大学で勉強するという共通の利益に何ら関係がなく、道徳的に重要な違いたり得ないからである。

 

 フランシオンは、「平等な配慮の原則はあらゆる道徳理論の必須要素であり、この原則を含まない理論は道徳理論たりえない」と言う。例えばある者は極刑を道徳的に正当だと信じているとしよう。彼は、計画殺人を犯した者は肌の色や性別に関係なく、みな処刑されるべきだと信じていたとする。別の者は、極刑はいかなる場合も不当だと信じていたとする。両者は、極刑の倫理的正当性においては対立しているものの、平等な配慮の原則は共有している

 前者は極刑が人種や性別に関係なく執行されるべきであると考えている点で、後者は極刑はいかなる場合にも許されないと考えている点で、両者の判断は少なくともともに一貫性を備えているのである(ここで、前者が「黒人の犯罪は極刑に処するべきだが、白人の犯罪には極刑を執行するべきではない」と意見したとしたら、一貫性を喪失し、倫理的判断としては失格である)。

 

 さて、動物倫理の話である。我々が、「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」と考えている行為がいくつかある。例えば監禁し、肥らせ、食用にすることがそれである。医学研究や教育のために実験に利用することがそれである。娯楽のために展示することがそれである。「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」という取り扱いの相違を正当化するような道徳的に重要な違いが、人間と動物の間に存在するのだろうか。

 人間は二足歩行だが、動物は四本足であることが、人間を実験に使ってはならないが、動物ならば実験に利用しても許される適切な理由だろうか。言語を用いたコミュニケーションが可能であるか可能でないかという相違が、人間を食用に供してはならないが動物ならばそうしてもよい適切な理由だろうか。これらが取り扱いの違いを正当化できる道徳的に重要な違いであろうか。

 人間が虐待されたり監禁されたりすることを避けたいのは、虐待されないこと、監禁されないことに利益をもつからである。そして、虐待や監禁に苦痛を覚えるのは人間だけではない。少なくともある程度の複雑な神経系(侵害受容器や痛みの経験を処理できる脳構造)を備えた動物は、苦痛を感じることができる。「虐待してはならない」という倫理的判断に我々が共感を覚える最大の(おそらく唯一の、ではないが)要因は、「我々は苦痛を感じる」という点である。そしてその点において人間と動物に違いがなく、他の様々な相違が道徳的に重要な違いでない以上*1、「他者を虐待してはならない」という倫理的判断は人間以外の動物(少なくとも脊椎動物の大部分は含まれるだろう)にも適用されなければならない。

 一方で、人間と動物の取り扱いに違いを設ける適切な理由となるものがある。犬の散歩では、車両が行き来する一般道を歩くことがあるだろう。犬は動いているものに興味を示し突然走り出すかもしれない。車がどれほど危険であるかということを、犬に教え諭すことは困難である。そして走り出した犬を人間が捕まえるのは一層困難である。こうした理由は、人間の幼児には通常リードをつけないが、犬にリードをつけるという取り扱いの違いを正当化する道徳的に重要な違いとなり得るだろう。

 

入門・倫理学

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動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか

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*1:他の様々な違いが道徳的に重要な違いでない以上……人間と動物の様々な相違が人間と動物の道徳的地位に差をもたらす理由とはなり得ないということを、8月23日の記事「人間と動物の道徳的地位」で論じています。