ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

人類をあらしめよ?

破壊される地球環境と、日々殺戮される動物たちを憂い、人類の絶滅を願う声を聞くことがある。「いっそのこと人類が絶滅してしまえばよいのだ」。しかし、言ってみれば極めて「ナイーブな」その解決策に対する、無責任であるとの批判も聞く。滅びる前に、地球を以前の状態に戻すべきだろう、人類にはその責務があるだろう、と。

 

この批判には確かに説得力を感じる。借りた部屋を汚したならば、出て行く前にきれいな状態に戻すべきだろう。散々汚しておいて、後始末は次に住む者に任せる、というのは確かに無責任極まりない。しかし、地球を以前の(「以前の」とは果たしていつの状態のことなのかも問題だが、ひとまずそこはおいておく)状態に戻すまで、「人類は滅ぶべきではない」と言ってしまうことにもまた、問題がある。

 

滅びる前に、地球を以前の状態に戻す責務があるとして、その義務を課せられているのは誰だろうか?汚した部屋の掃除ならば、部屋を使用した人物に掃除の義務が課せられよう。しかし単位が人類となると、話は単純ではない。少なくとも、我々の子孫、将来世代の人々にその義務は課せられていない。なぜならば彼らはまだ存在しておらず、地球が今の状態になったことに責任を負わないはずだからだ。*1

 

未来の世代は、地球を現在の状態にした犯人グループの構成員ではない。したがって、「地球を元の状態に戻すためには今の世代の力だけでは不可能だから、将来世代にも手伝ってほしい」と言うことはできない。ましてや、地球を元の状態に戻すために、その手伝いのために将来世代を産出することは言語道断であろう*2。つまり、地球を元の状態へ回復させるまで「人類は滅ぶべきではない」と言えたとしても、そのために子孫を産出することは倫理的に許容し難く、おそらく地球の回復という義務は――義務があるとしたら――我々の一世代で完遂させるべきであるように思われるのである。

 

◾️人類の存続は義務か?

倫理学者のハンス・ヨナスは、我々は将来の人類に対して二種類の義務を負っていると唱えた。第一に、将来の人類を存在せしめる義務。第二に、彼らの存在の在り方に対する義務である。第二の義務は第一の義務が遂行されることを前提とする。したがってまずもって第一の義務により、我々は「人類をあらしめよ」という命法を得る。「人類をあらしめよ」――しかしこの命法は妥当なのだろうか。人類を存続させなければならないということは、それほど強い道徳的命令と言えるのか。

 

私見では、「人類を存続させなければならない」という義務は我々にはない。そのような義務を唱えることは、極めて大きな問題を孕んでいる。それは、我々の自由に対する抑圧、基本的権利に対する制限につながる。以下で採用する思考実験は、現実には起こりえない事態ではあるが、論理的には矛盾のない可能な事態である。論理的に可能な思考実験によって上の命法を棄却できれば、それで十分なのである。

 

話は簡単だ。世界に30組のカップルがいたとしよう。女性30人、男性30人からなるこの60人は、人類最後の60人である。もし人類の存続が義務であるならば、その時、カップルの(より正確に言えば、女性の)自己決定権は否定されることになる。ヨナスは実際、「人類をあらしめよ」の命法は、我々に生殖の義務を課すと言っている。*3

 

別の例で説明しよう。ある中学校で、クラスに30人の生徒がいて、この中から学級代表を“絶対に”選ばなければならないとしよう。すると、立候補者がいない場合、最終的には一人一人の自己決定権は否定されざるを得ない――推薦やらくじ引きやらで強制的に選出されることになるだろう。もし一人一人の自己決定権を最大限尊重するなら、「今回は学級代表なし」も選択肢に入れなければならない。

 

同様に、もし地球上のすべてのカップルが生殖を拒否したとすると、そして各々のカップルの決定権が最大限尊重されるべきだとすると、「今回は次世代なし」も選択肢に入れなければならない。つまり、その世代で人類が終焉を迎えることも、許容しなければならない。子孫を産出する義務は我々にはないのである。*4

 

もちろん、繰り返すがこのような事態が起こり得る可能性はほとんど0%と言える。にもかかわらず、論理的には可能な事態であるがゆえに、この思考実験は意味をもつ。我々が女性の自己決定、生殖の自由への権利(リプロダクティブ・ライツ)を尊重する限り、「人類を存続させなければらない」という命法は棄却すべきである。 *5

 

国際人口開発会議(1994年)で採択された行動計画には、「すべてのカップルと個人が自分たちの子どもの数、出産間隔、ならびに出産する時を責任を持って自由に決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという基本的権利」が確認されている。(宇佐美誠、児玉聡、井上彰、松元雅和『正義論  ベーシックスからフロンティアまで法律文化社 p.227)

 

当然のことながら、以上の議論における結論は、「人類は絶滅すべきだ」ではない。ここまでの議論で言えそうなことは、あくまで「人類は存続すべきだとは言えない」というところである。「人類をあらしめよ」は却下してよい、ということである。偶然にも地球上のすべてのカップルが生殖を拒否することによって、人類がたまたまこの世代で終わってしまっても、そうした事態を許容してよい、ということである。

 

 

責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試み

責任という原理―科学技術文明のための倫理学の試み

 

 

 

パラドックス13 (講談社文庫)

パラドックス13 (講談社文庫)

 

 

*1:地球を今の状態にしたのは現在の世代だけでなく、すでに死んでしまった前の世代の人々も含まれるのだから、我々ばかりがその義務を課せられるのは不公平だ、という反論もあり得よう。だが、それはあまりにもくだらなく、論じるに値しない。

*2:反出生主義(アンチナタリズム,AN)という考え方はいくつかのタイプに分けられる。多くの人が支持するのは快苦の非対称性の議論によりANを展開したデヴィッド・ベネターの理論と思われる。私もANを支持するものの、ベネターのそれとは議論の仕方がまったく異なる。ANについては何年も言及を避けていたが、そのうち議論したい。その時、再びこの記事を引用するだろう。

*3:ただ、ヨナスは「生殖への義務」に括弧をして、「(必ずしも個人に課せられている義務というわけではないが)」と書いてある。個々人に課せられていないとはどういうことだろうか。グループ全体に課せられた義務であり、グループの構成員一人一人には課せられていない、ということであろうか。その場合も、やはり思考実験によって棄却可能と思われる。人類が生殖を義務化されなくても勝手に増え続けている限りは個人の自己決定に対する侵害は起こらないが、人数が小規模になると馬脚を表す。

*4:東野圭吾の『パラドックス13』という作品を読んだことがある方はいらっしゃるだろうか。ネタバレになるので詳細は避けるが、まさにこれはそのような状況を描いていた。滅びかけた世界で、人類の存続という、それ自体に価値があるのかもよくわからない目標のために、女性たちは生殖を要求される。

*5:これは大事なところであるが、反出生主義は、「産む産まないは女性が決める」とする生殖の権利を否定する。反出生主義の主張は「産んではならない」であるから、女性に生殖の自由への権利は認められないのである(もちろん強制的な堕胎などが人道上決して許されないことは言うまでもない)。ここで反出生主義の立場を採用しても、今回の記事における結論は変わらない。