ピラビタール

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ピーター・シンガーはアニマルライツ?

現在、『講座 あにまるえしっくす』第1巻の製本に向けて準備中です。と言っても今のところゆび子さんに任せきりで、私はほとんど何もしていないのですが……。販売はたぶん8月くらいになると思います。どうぞよろしくお願いします。第1巻に収録予定の話は第0~5回、及びコラム1~5です。

 

ちなみに第2巻(販売は1年後くらいでしょうか?)の最初に収録されるであろう第6回は、ピーター・シンガーを扱います。シンガーは誤解も多く、またやや複雑な議論をしているのでなるべく丁寧な解説を試みたいです。誤解のいくつかを解けたらいいですね。一番解きたい誤解は、「ピーター・シンガーアニマルライツを唱えた」という、多くの人が抱いている誤解です。

 

ピーター・シンガーアニマルライツ? 

ピーター・シンガーは「動物の権利」運動の父と呼ばれる。これは「動物の権利」という言葉の含意を骨抜きにし、極めて大雑把に捉えた場合には、あるいは正しいと言えるかもしれない。しかし「動物の権利」という言葉を学問的な定義に沿って扱うならば、まったく正しくない。シンガーは、そもそも厳密な意味での「動物の権利」を一度も唱えていない。にもかかわらず、シンガーをアニマルライツの提唱者と誤解する人々を度々見かける。今回の記事ではこのへんの誤解を解きたい。

 

■動物解放論と動物権利論

動物を擁護する運動は一般にAnimal Rights Movement(アニマルライツムーブメント)という呼称が用いられている。これを日本語に訳すと「動物の権利」運動ということになる。思想的根拠がどうであれ、動物を擁護し、畜産や動物実験に反対する立場、あるいはその縮小や福祉的改革の導入を主張する立場を指す言葉として「動物の権利」と言うのであれば、その意味では、シンガーも「動物の権利」論者ということになる。

 

しかしこれはかなり大雑把な分類で、学問的には誤りだ。背景をざっくりと説明してみよう。1975年のシンガーの『動物の解放』以来、欧米では動物擁護の運動が盛り上がり、活動家はAnimal Rights Movement、すなわち「動物の権利」の運動を自称した。1980年にPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)を創立したイングリッド・ニューカークもまた、シンガーの『動物の解放』に感化されたのだと言う。したがって、確かにシンガーはその意味で「動物の権利」運動の父ということになる。しかし、実はシンガーは学問的な営為においては「権利」という概念を使っていない。シンガーは功利主義によって動物を擁護する議論を組み立てており、シンガー自身も自分の議論を動物権利論と注意深く区別している。つまり、シンガーの著作に影響を受けて起こった運動の側が、(シンガーの意図に反して)「権利」という言葉を使い始めたということなのだ。

 

もう1人の代表的な理論的指導者であるトム・レーガンは、「権利」の概念を中心に据えて議論をする。シンガーが依拠する功利主義では、人であれ動物であれ「不可侵の権利」のようなものを決して認めない。それに対し、レーガンはある種の動物にまで「不可侵の権利」を拡張することを唱え、人類による動物の制度的利用を全面的に廃止すべきであるとした。ここにシンガーの功利主義とは区別される動物権利論の学問的アイデンティティがある。

 

したがって、まず学問的には、功利主義的なシンガーの動物擁護の議論と、レーガン以降の「権利」を中心に据えた動物擁護の議論とは、区別しなければならない。前者をシンガーの著作をとって動物解放論と呼び、後者を動物権利論と呼ぶことが適切であるだろう。

 

では、運動についてはどうか。運動側の呼称を尊重し、「動物の権利」運動と呼ぶことがふさわしいだろうか(尚、文献によっては「動物解放」運動という呼称も使われている)。問題は、今や単なる福祉的改革を求める運動までも含めた雑多な集合がAnimal Rights Movementと呼ばれているところである。権利とは通常、少なくとも動物倫理の文脈においては、自己の利益と公益とを比較の天秤に乗せられないようにするところのもの、言わば「切り札」を意味するはずである*1。動物福祉を訴えるような運動を「動物の権利」運動と呼ぶのは混乱を助長させるだけではないのか*2

 

伊勢田哲治の見解は以下のようである。

「動物の権利運動」も「動物解放論」も定着した呼称であるが、なぜ一方で「権利」という言葉が使われ、他方で「解放」という言葉が使われるかに簡単に触れておく。シンガーは動物の権利運動の理論的指導者ではあるが、本人は「権利」という概念は使わず、功利主義に近い枠組みで議論する。もう一人の理論的指導者であるレーガンは「権利」を中心に据えて議論をする。両者の共通点は「解放」というところなので、彼らの総称としては動物の権利論ではなく動物解放論の方が望ましい。他方、運動の側では(少なくとも欧米では)「権利」という言葉が一貫して使われるし、実際、一九世紀依頼の旧来の動物愛護運動*3とこの新しい運動を区別する一番目立つ特徴が「権利」概念の使用である。そんなわけで運動の側の総称としては「動物の権利運動」がふさわしい。

 

伊勢田 2011、p.11

 

伊勢田によれば、動物を擁護する学問的営為の総称を「動物解放論」と呼ぼう、ということらしい*4。しかしその用法だと、レーガンの権利論とは区別されたシンガーの理論を独立で何と呼べば良いのか、判然としない。また、権利を要求するわけでもない運動も含めて「権利」運動と呼ぶことは、私にはさまざまな弊害があるように思われる。運動側のこうした雑な言葉の使い方によって、例えば畜産農家さんをして、「私なりにアニマルライツに取り組んでいます」といった発言をさせるのではないのか。

 

私は総称としては「動物擁護運動」や「動物保護運動」を使用し、そのうち動物福祉を求める運動は動物福祉運動、権利獲得を目指すものは動物権利運動、と厳密に区分するべきであるように思うのだが、どうだろうか。

 

以下に、ピーター・シンガーアニマルライツとの関連を否定している文献から、いくつかを引用する。

  

シンガーは著書の中で“権利”という言葉をほんの二、三回しか使っていない。権利についての哲学的議論は彼の理論にとってはあまり意味がない。というのは、彼の理論は平等の原理に基づいているからである。

 

ローレンス・プリングル 1995、pp.37-38

 

ピーター・シンガーは、現代における功利主義擁護の戦士といえます。/功利主義者は、典型的に、動物も人間も権利をもたないと信じています。

 

マーク・ベコフ 2005、p.93

 

「現代動物権運動の父」と言われるピーター・シンガーは、ベンサムより複雑な功利主義を論じる。シンガーの功利主義は、選好を有する者すべてに適用される選好功利主義の見解(preference utilitarian view)であり、実際は動物の「権利」それ自体と何の関係もない。

 

ローリー・グルーエン 2015年、p.34

 

次に「動物の権利」(アニマルライツ)の思想について見ていこう。動物の権利運動の出発点として、功利主義の哲学者シンガー(Singer)の一連の著作がしばしば挙げられる。ただし、シンガー自身の立場は一般に言われる動物の権利の考え方とは重要な点で異なっており、「動物解放論」という別の名前で呼ぶ方が適切である。

 

伊勢田哲治 2015年、p.10

 

我が国では前者の(引用者注:ピーター・シンガーの)功利主義的な議論も動物権利論と言われることも多いが、不正確な言い方である。厳密には功利主義的な動物擁護論は義務論的な動物権利論と区別される。

 

田上孝一 2017、p.19

 

動物の権利には、倫理学説としてのアイデンティティを明確にした狭義の用法がある。この場合シンガーの動物解放論とは理論的根拠が異なるものとして区別される。シンガー自身も常に注意深く自説を狭義の動物権利論と区別している。

 

田上孝一 2017、pp.43-44

 

動物の権利には倫理学説としてのアイデンティティを明確にした狭義の用法がある。この場合シンガーは決して動物の権利論者ではない。というのも、シンガーは功利主義者であり、功利主義という倫理学説は「不可侵の権利」という観点を支持しないからである。シンガー自身も常に注意深く自らを功利主義的「動物解放」論者と位置づけ、義務論的な狭義の動物権利論との区別を強調している。

田上孝一 2017年、p.73

 

(シンガーに続くレーガンの著作の)以後、「動物の権利」(アニマルライツ)という言葉は独り歩きをし始め、権利論とは関係のないシンガーの思想を柱に、動物の苦痛を減らそうとする全ての取り組みが「動物の権利」運動と称される混乱が生じた。

 

井上太一 2018、p.340

 

リーガンが指摘するように、シンガーは「権利」の概念に訴えることには消極的である。……ここで浮上するリーガンとシンガーの相違は、自然権論と功利主義という倫理学上の大きな対立におおまかに対応していると言うことができるだろう。

 

一ノ瀬正樹 2019、p.283

 

【引用文献】

伊勢田哲治(2011年)「動物の権利はなぜ説得力を持つのか ――倫理的帰属者文脈主義の試み――」『倫理学研究』第41号、pp.3-12

ローレンス・プリングル〔著〕、田邊治子〔訳〕(1995年)『動物に権利はあるか』NHK出版 

マーク・ベコフ〔著〕、藤原英司、辺見栄〔訳〕(2005年)『動物の命は人間より軽いのか 世界最先端の動物保護思想』中央公論社 

ローリー・グルーエン〔著〕、河島基弘〔訳〕(2015年)『動物倫理入門』大月書店

上野吉一、武田庄平〔編〕(2015年)『動物福祉の現在 動物とのより良い関係を築くために』農林統計出版、伊勢田哲治「第1章 動物への倫理的配慮」より

田上孝一(2017年)「環境倫理学に見る人間と動物の関係」、「環境をめぐる規範理論の対抗」、「動物権利論の実像」『環境と動物の倫理』本の泉社

ゲイリー・フランシオン〔著〕、井上太一〔訳〕(2018年)『動物の権利入門』緑風出版、翻訳者井上太一氏による「解題」より

一ノ瀬正樹(2019年)『死の所有 増補新装版』東京大学出版会

 

環境と動物の倫理

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  • 作者:田上孝一
  • 発売日: 2017/03/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

*1:これはデヴィッド・ドゥグラツィアによる権利の3つの分類のうち、第3の用法が厳密な意味での「権利」概念であるということを意味している。デヴィッド・ドゥグラツィア〔著〕、戸田清〔訳〕(2004年)『動物の権利』、岩波書店のpp.21-23を参照。これをまとめた記事は、「動物の権利」の混乱と整理

*2:動物福祉は動物の生活の質の向上を目指す考え方や取り組みであり、そもそも動物に権利を認めるものではない。動物の権利は、動物に「人間の食用にされない権利」や「人間に実験に利用されない権利」を認めるが、動物福祉はこれらを認めない。動物を食用にすることや実験に利用すること――すなわち人間の利益のために殺すこと――を許容し、その上で、人間に殺されるまでの間、できる限り苦痛や不快を除去し、動物の快適な生活を保障しよう、というのが動物福祉の基本的な考え方である。そうであるならば、動物の権利活動家が動物福祉的な活動を「動物の権利」に含めてしまうのは、運動の根本的な理念を瓦解させかねない愚挙だということになる。

*3:ちなみに、欧米の運動を動物「愛護」運動と呼ぶのもおかしく、ここは動物保護運動と書くべきであるように思う。

*4:面倒なことに、総称を「動物権利論」と呼ぶ用法もある。井上太一氏のツイートより。これは上述のデヴィッド・ドゥグラツィアの三つの分類が背景にあるためと思われる。