ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

植物の命はいいのか? その2

 植物の命はいいのか? その1」の続き。

3と4を扱います。 

  1. 藁人形論法
  2. 生命は神聖なものではない
  3. 生命の神聖性の人間中心主義
  4. 生命の2つの役割
  5. 経験的生を欠く存在の固有の価値
  6. 生命中心主義

 

  3.生命の神聖性の人間中心主義

そもそも、欧米で長い間人々の規範を構成してきた「命の神聖さ」なる概念は、本質的に人間中心的なものであった。これはあくまで人間の生命の神聖さを強調する概念であって、あらゆる生命の神聖さを説く概念ではなかった。「<生命は神聖である>という時、人々が考えているのは人間の生命なのである。……<人間の生命の神聖性>という考え方は、<人間の生命が非常に特別な価値を、他の生命の持つ価値とははっきりと区別された価値を持っている>ということの一つの言い方にすぎない*1。だからこそ妊娠中絶論争が政治的な争点となるほど人々の感情を揺さぶる一方で、動物を殺して食べることの可否は哲学的な論争にとどまっているのである*2

 

それは欧米の話で、日本(あるいは東洋)はそうではないと思われるかもしれない。日本的生命観、あるいは日本的アニミズムによれば、「あらゆる生命に平等な価値がある」と言えるのだと。しかしそのような生命観の持ち主も人間だけは別扱いしているはずである。「あらゆる生命を平等に扱うべきである」と主張するとき、<あらゆる生命>を文字通りに解釈すれば、当然ながら人間の生命もそこに含まれなければならない。発言者は、植物を刈るように人間を死なせて食することも認めなければならない。そこで、人間だけは別なのだと除外するならば、その根拠を示す必要があるし*3、例外を認めた以上は「あらゆる生命に平等な価値がある」という先の主張は撤回しなければならない。

 

4.生命の2つの役割

生命が神聖なものではないならば、それは無価値なのだろうか。決してそうではない。我々は生命があるからこそ、喜び、楽しみ、悲しみ、苦しむことができる。生きているということによって、意識や感覚が働き、世界を主観的に経験することができる。その意味で、生命には価値がある*4ヴィーガニズムを前提とした動物権利論の主張は、<世界に対する固有の主観的な経験>をもつ存在に道徳的な地位を認め、不可侵の権利を伴う保護を承認することである。内面から自らの生を感じ、さらにその生が良くなったり悪くなったりするのを感じられる存在は、物ではなく、自己なのである。そして、我々はその存在を、喜びや痛み、欲求不満や満足感、楽しみと苦痛、恐れや死といったものに対して影響を受けやすい、脆弱性に悩まされる存在として認識する*5

 

我々は生物学的な意味で生命を維持している。細胞ではエネルギー代謝が、よりマクロな視点では食物の消化と排泄、血液循環が生じている。この意味での生命活動を生物学的生と呼ぶ。それに対して、意識や感覚を伴う、<世界に対する固有の主観的な経験>として生きていることを経験的生と呼ぶ*6。経験的生は、内在的価値をもつ。それに対して、生物学的生は、経験的生を可能ならしめる手段的価値を有する。

 

内在的価値とは、それ自体としてよい、望ましい価値のことである。手段的価値とは、何か別の目標のための手段としての価値のことである。例えばお金にはそれ自体に価値があるのではなく、何かを購入するための手段としての価値がある。他方で、幸福はそれ自体のために望まれるものである。幸福の価値は内在的価値と言える。

 

経験的生……意識や感覚を伴う、<世界に対する主観的な経験>としての生。内在的価値がある。*7

生物学的生……生物として生命を維持するための活動。手段的価値がある。

 

植物の命はいいのか? その3」に続く。

 

 

*1:ピーター・シンガー『実践の倫理 新版』昭和堂

*2:医療倫理の用語でSOL(Sanctity of Life)と言うとき、これが意味するのは「生命の神聖さ」ではなく、あくまで「人命の神聖さ」である。

*3:その根拠を示すことはたいへん難しい。例えば、「人と動物の道徳的地位」、「ヒュームの法則、普遍化可能性」を参照されたい。

*4:「生命は神聖なものではないが、価値はある」という表現に何も奇妙なところはない。例えばパソコンには価値があるが、別に神聖なものではない。

*5:スー・ドナルドソン、ウィル・キムリッカ『人と動物の政治共同体――「動物の権利」の政治理論』尚学社

*6:経験的生は「伝記的生」を改変した私の造語。「伝記的生」ではやや人間(人格)中心主義的なニュアンスがあるため。

*7:内在的価値とは「それ自体としてよい、望ましい価値」なのだから、単に「経験的生に内在的価値がある」と言うのでは、やや不正確かもしれない。快の経験は望ましいが、苦痛の経験は望ましくないからだ。したがって、快の経験には正の内在的価値、苦痛の経験には負の内在的価値があるという表現がより適切だろう。ちなみに、地震のような災害は、それ自体では悪い出来事ではなく、それが人や動物に害悪をもたらす限りで悪い出来事である(生命の存在しない惑星で起こった地震は悪い出来事ではない)。したがって地震は負の手段的価値を帯びている。