ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

植物の命はいいのか? その3

 「植物の命はいいのか? その2」の続き。

5と6を扱います。

  1. 藁人形論法
  2. 生命は神聖なものではない
  3. 生命の神聖性の人間中心主義
  4. 生命の2つの役割
  5. 経験的生を欠く存在の固有の価値
  6. 生命中心主義

 

 5.経験的生を欠く存在の固有の価値

経験的生は、良くなったり悪くなったりする。それゆえに利益に直接関わることになる。ヴィーガニズムを前提とした)動物権利論は、人間を含めた個体の利益を尊重し、不当に利益を奪わないこと、不当に不利益を与えないことを要請する。ここで動物権利論は一つの難問に直面する。感覚や意識をもつものともたないものの線引き、すなわち進化の系統樹をどこまで遡れば経験的生が消失するのかを確定するのが困難なのである。とはいえ、このことは経験的生を有する存在であることがはっきりしている動物の利益を尊重しない理由にはまったくならない*1

 

経験的生を欠いた存在の生は、良くもならないし、悪くもならない。そもそも世界を主観的に経験する「自己」が存在しないのだから、悪くなりようがない。私が浴槽を消毒殺菌し、レジオネラ菌ブドウ球菌を殺しても、それらは害悪を被らない。それらは大脳をもたず、感覚神経ももたず、痛覚の受容器もない。したがって世界の何事をも経験しない。これは、私が手元にあるボールペンを床に投げつけても、(私の心は痛むが)ボールペンは害悪を被らないことと同様である*2。経験的生をもたない生物は、いかなる利益とも不利益とも無縁であり、内在的価値を有さない。(生物と無生物、利益をもつ存在ともたぬ存在のカテゴリー図

 

ジェームズ・レイチェルズは、経験的生と生物学的生のどちらが我々にとって重要であるのかを考えるのに適切な思考実験を紹介している。今、我々に2つの選択肢があるとする。

①今すぐ死ぬ。

②絶対に目覚めることがなく、夢も見ない昏睡状態に陥り、10年後に死ぬ。

どちらを選びたいか、と。たいていの人は①を選ぶだろう。その理由としては、昏睡状態で10年も生き続けるということに尊厳があるとは思えないこと、意識のない患者の世話をするという重労働を大切な人に強いることはできないこと、などが挙げられよう。しかし②が無意味である本当の理由は、不可逆的な昏睡状態に陥れば、その時点で我々の経験的生が終わったからである。「死んでしまったようなもの」と表現しても差し支えない。もちろん生物学的には生きているので、もしあなたが単に「生きていること」に意味があり、「あらゆる命は神聖なのだ」と信じているならば、②を選ぶかもしれない。しかし、もしあなたが②を選ばないならば、「生きていること自体に価値がある」とは根底では信じていないということになる*3

 

生物学的生をもつが経験的生をもたない生物は、生きていることから利益を享受しない。植物もまた世界中の大部分の生物と同様*4、世界を主観的に経験しない。植物は利益や不利益をもたない。しかしアンチヴィーガンの中にはこの点を否定し、植物が痛みを感じること、植物が世界を主観的に経験していることを主張する者が多い。下のツイートのように、彼らはそのことを示唆する(と彼らが信じる)科学研究を好んで提示する。だが実際にはこの記事のどこにも「植物が痛みという感覚を経験する」という報告は書かれていない。これは科学リテラシーの欠如に起因する誤読である。

 

さて、植物の価値は内在的価値ではなくして、人を含めた動物にとっての手段的価値である*5。我々動物はまず生きるために植物を必要とするし、また美的鑑賞による満足を植物から享受する*6。しかしこの見解を強く否定する論者がいる。その代表が生態系中心主義者である。彼らは樹木のような意識をもたない生命、さらに山や土壌、河川のような無生物、生態系や生物多様性に内在的価値を認める。これは大変奇妙な見解である。生態系中心主義ついては日を改めて別の記事で論じたいが、意識をもたない生命や、生命ですらないものの内在的価値とは何だろうか。

 

内在的価値とは、他者の利益や評価には依存しないそれ自体の独立した価値である。意識をもたない生命、河川や土壌のような非生命に我々の認識と独立した価値があると認めることの奇妙さは、このような思考実験を想定すれば明らかであろう。ある宇宙には、意識をもった生命がまったく存在しない。そんな宇宙のとある惑星で長い時間をかけて形成された渓谷に、内在的価値があるだろうか。意識をもつ者が一人もいない宇宙で、価値はあり得るだろうか*7。この議論を続けると本題から脱線してしまうのでここまでにする。また今度。

 

6.生命中心主義

ここまでは生物学的生命に内在的価値が存することを否定してきたが、最後にそれを肯定する議論を紹介する。「あらゆる生命が等しく神聖である」という価値観に基づき、<生命への畏敬>を唱えたのがアルベルト・シュヴァイツァーである。シュヴァイツァーは3で述べたような<人命の神聖性>ではなく、文字通りすべての<生命の神聖性>を信じた。「かれは、この生命あるいはかの生命がどれほどの貴い関心に値いするかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるか、を問わない。生命そのものがかれには神聖なのである。かれは一枚の葉も木からむしらず、一輪の花も折らず、一匹の虫も踏みつぶさないように注意する*8

 

シュヴァイツァーは歩道に出たイモムシを葉の茂みに戻し、水溜まりでもがいている昆虫に手を差し伸べたという。もちろん生きていくために他の生命を奪わなくてはならないことをシュヴァイツァーは認めた。しかしその場合も、他の生命を維持するためにどうしても必要な場合に限られる。医師である彼は病気を治療するために病原菌を殺す必要があったわけだが、その場合も病原菌に対する畏敬の念を忘れなかったらしい。そして晩年には肉食反対を表明し、菜食主義を支持した*9

 

シュヴァイツァーの価値観を現代の環境倫理学の文脈で整理し直したのが生命中心主義を唱えたポール・テイラーである。テイラーもまた植物を含めたあらゆる生物個体に平等な内在的価値を認め、配慮の対象となると考えた。テイラーによればすべての生命は相互に依存し、生命共同体を形成している。そこでは人間は他の生命に対する道徳的な優越性をもたない。テイラーもシュヴァイツァー同様、正当な道徳的理由があればとの条件つきで、他の生命を奪うことを容認する。例えば、食べるために植物を摘むことや、正当防衛による殺人は容認される。しかし正当な理由がなければ、「野草殺しは殺人と同じくらい悪い」。気まぐれで野草を抜くことは、正当防衛による殺人より罪が重いのだという*10

 

テイラーもまた、植物食を支持した。テイラーが植物食を支持した根拠は、第一に動物食は植物食よりも自然資源を多く消費すること*11。第二に、植物食は生命中心主義的な観点から問題であるものの、動物食は生命中心主義と動物に与える苦痛という2つの観点から問題であり、「最小悪の原理」から植物食がより望ましいことである*12

 

私にはシュヴァイツァーやテイラーの立場は不合理に思われる。経験的生をもたない生命に内在的価値が存するとは考え難い。意識や感覚のない生命は、無生物と同様、利益をもたない。しかし、もしも一部のアンチヴィーガンが声高に叫ぶような「命はみな平等で尊いもの」という規範を採用するならば、テイラーの結論を受け容れざるを得ないのではないか。すなわち、大なる悪と小なる悪との選択では我々は常に小なる悪を選ぶべきであるし、その「悪」がかけがえのない尊い生命の収奪だと言うのであればなおさらである。

 

「生命の神聖性」は「失われる生命は最小限でなければならない」という立場とはよく調和すると思われるが、「失われる生命は多くとも少なくとも構わない」という一部のアンチヴィーガンの立場とどのように整合するのか、はなはだ疑問である。

 

 以上、1~6まで、大変長くなったが、「植物の命はいいのか?」という問いをきっかけに巡らせた思索を整理してまとめた。

*1:「他の事例に置き換えればこれが反論となっていないのは明らかである。殺人を犯したかどうかはっきりしない人が存在するからといって、殺人したことがはっきりしている人も処罰できないと考える人がいれば、それは非常に奇妙な考え方といわざるをえないだろう。」伊勢田哲司「動物解放論」、加藤尚武〔編〕『環境と倫理:自然と人間の共生を求めて』有斐閣アルマ

*2:ボールペンは無生物なので経験的生も生物学的生も欠如しているのだが、意識や感覚をもたない生命は、経験的生の欠如という点はボールペンと共通する。

*3:なお、レイチェルズは経験的生ではなく「伝記的生」という用語を使っている。ジェームズ・レイチェルズ『倫理学に答えはあるか――ポスト・ヒューマニズムの視点から』 世界思想社 

*4:経験的生をもつ個体は地球上の生物全体のうちごくわずかである。一個体内に存在する細菌の数、1グラムの土壌中、1ミリリットルの海水中に含まれる微生物の数を調べれば明らかである。

*5:ドイツの哲学者アンゲリーカ・クレプスはもう少し複雑な議論をしている。アンゲリーカ・クレプス『自然倫理学みすず書房によれば、自然には「情感的内在的固有価値」があるとのことだが、パラパラとめくった程度なのでよくわからない。今度しっかり読んでみて紹介したい。

*6:植物の価値が手段的な価値であると言ったからといって、それは「植物をどのように扱ってもよい」ということを含意しない。我々に多大な恩恵を与えてくれる植物を勝手気ままに扱ってはならないのは当然である。

*7:別の例。ピカソの絵に内在的価値があると認めることは、我々がピカソの絵を鑑賞することは無関係に、ピカソの絵に独立した価値があると認めることである。我々がピカソの絵を鑑賞しなくなっても、あるいは地球上から人類が消え去っても、ピカソの絵に価値があるということになる。

*8:氷上英廣(訳)『シュヴァイツァー著作集 第7巻』白水社。日本語版では削除されているが、どうやら原著では3文目の最初に「彼は日にあたって輝く氷の結晶を壊さず」という文言があったようだ。日本語版でなぜ削除されたのか不明である。<生命への畏敬>を唱えながら無生物である氷の結晶の話をし出すのを不可解に思った翻訳者が削除したのだろうか。

*9:こちらのサイトによれば、シュヴァイツァーは完全なベジタリアンにはならなかったようである。

History of Vegetarianism - Dr Albert Schweitzer (1875-1965)

*10:ロデリック・F・ナッシュ『自然の権利――環境倫理の文明史』ミネルヴァ書房

*11:高田純『環境思想を問う』青木書店

*12:伊勢田哲司『動物からの倫理学入門』名古屋大学出版会