ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

植物の命はいいのか? その1

ベジタリアンヴィーガンに対して頻繁に寄せられる問い、または反論の一つがプランツゾウとも呼ばれる「植物の命はいいの?」です。この問いについては既に『講座 あにまるえしっくす』第2回で扱っています(次回でも少し触れる予定です)ので、敢えて記事にする必要はないと考えてましたが、やはり整理しておこうと思い直しました。この問いにはいい加減うんざりしている方も多いとは思いますが、私としては倫理学の多方面に思考の幅を広げるきっかけともなりました。この記事が誰かの参考になれば幸いです。

 

上で「ベジタリアンヴィーガン」と書きましたが、以下の議論は主にヴィーガンの立場から採用できるものです。ベジタリアニズムの実践はすべてヴィーガニズムの実践に含まれますが、ヴィーガニズムの実践の一部はベジタリアニズムの実践には含まれません。なので、ベジタリアンの立場からは採用できない可能性があることを注意してほしいです。以下の6項目について議論します。※長くなり過ぎちゃったんで2項目ずつ、3回の記事に分けます。この記事では1と2を扱います。ここまで「です・ます」口調でしたが、ここからいきなり「だ・である」口調になります。深い理由はない。

 

  1. 藁人形論法
  2. 生命は神聖なものではない
  3. 生命の神聖性の人間中心主義
  4. 生命の2つの役割
  5. 経験的生を欠く存在の固有の価値
  6. 生命中心主義

 

 1.藁人形論法

ヴィーガニズムは意識や感覚を備える存在に対する加害の拒否を訴える思想であり、「命を奪うな」という思想ではない。「命を奪ってはならない」と主張していないヴィーガンに対して、「植物の命はいいのか?」と問うことは、典型的な藁人形論法である*1。「あらゆる生命を奪うべきでない」と主張する者が植物を食しているならば、彼に対して「植物も命だよ」と突っ込むことは正当である。しかしそもそもヴィーガンは「あらゆる生命を奪うべきでない」と主張していないのだから、そのような突っ込みは意味をなさない。

 

2.生命は神聖なものではない

生命とは何かを定義するのは困難である。ごく一般的な解釈としては、「生きている状態」を指し、その状態とは、非生命との区別を可能にする諸現象や諸特徴の連続である。別の用法では、上記の状態を維持している「生きているそれ」そのものを指すことがある*2。混乱がないと思われる限りで、両者を生命と呼ぶ。ここで諸現象・諸特徴とは、代謝や自己増殖、ホメオスタシスや外界との隔絶など、生物学・生命科学の基礎的な教科書で一般的に言及されているものを指す*3

 

一部のアンチヴィーガンは、「命はみな平等で尊いもの」という価値観に立脚し、「ヴィーガンは植物の命をどうでもよいと思っている」「植物の悲鳴が聞こえない冷たい連中」などの非難をヴィーガンに加える。これらの言説の基底にある規範は、生命に対する徹底した神聖視と言ってよいだろう。

 

最初に強調すべき点は、これらの非難を口にする者も、その基底にあるべき規範を内面化してなどいないだろうということである。もしそうした規範を内面化しているのならば、彼らは一体どのような日常を送っているのだろうか。我々は日常で膨大な数の細菌を殺す。うがい手洗いをすれば、無数の口内雑菌や手の表面の雑菌を殺す。テーブルをアルコール除菌すれば、テーブル上の雑菌を殺す。彼らはうがい手洗いを行うたびに、心を痛めるのだろうか。健康な人のうんちには兆を越える腸内細菌が含まれており、我々はトイレを流すたびに想像もつかない量の生命を奪っている(地球上の人口をはるかに凌ぐ)。「生命の神聖性」論者は、この事実を知り、トイレでうんちをするたびに罪の意識に苛まれるのだろうか。「植物の悲鳴」に耳を傾けることを説く者は、うんちを流すたびに膨大な数の腸内細菌の悲鳴に耳を傾けられるのだろうか。

 

「生命の神聖性」は言葉の上では便利なフレーズだが、それをふりかざしてヴィーガンを非難する者の大部分はこれを内面化していないし、おそらくできない。しかしもちろん、彼らがその規範を実際には内面化していないという指摘は、それ自体ではこの規範に対する有効な批判とはならない。あくまでその規範が合理的であるかどうかを問わねばならない。

 

そして、それは不合理である。生命が上記のような諸現象・諸特徴から定義されるとしよう。それらは生化学的な現象である。ATPの生成と消費、遺伝情報の転写と翻訳、細胞の分裂は物理化学法則に従った反応の連続である。これらのどこに、「侵し難さ」や「尊さ」、あるいは捉えきれない宇宙的価値(?)のようなものが存するのだろうか。この現象に神聖さを見いだすのは、宗教的な考えとしてはあり得るが、理性的とは言えない。生命現象は神秘的だが、そこで起きていることは神秘ではないのである。

 

植物の命はいいのか? その2」に続く。

*1:ヴィーガニズム自体は、命をどう扱うべきかという問題について語らない。ヴィーガンによってさまざまな考え方があるはずである。

*2:この用法ではほぼ「生物」と等しくなる。しかし生命と生物は厳密にはイコールではない。

*3:例えば、東京大学生命科学教科書編集委員会『理系総合のための生命科学 第4版』羊土社。この教科書ではさらに、親の特徴を受け継ぐこと(遺伝)、環境変化に応じて適切な応答をすること(環境応答)が挙げられている(p.19~20)。