ピラビタール

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「動物の権利」の混乱と整理

昨日の記事で「道徳的地位」なるものが意味するところを整理した。

動物の道徳的地位についての整理 - ピラビタール

続いて、「動物の権利」という語の意味するところについて、整理する。ある者は動物の権利を動物福祉と同様の意味で捉え、またある者は基本的人権と同様の不可侵の権利と考える。このように同じ言葉を論者によって異なる意味で使っていては混乱を呼ぶばかりである。というわけで今回の記事でその意味を整理しておきたい。動物に権利があると言うとき、その人は何を主張しているのか。昨日の記事と同様、デヴィッド・ドゥグラツィアの『動物の権利』を参考にする。ドゥグラツィアは動物の権利の意味を3種類に分けて解説する。

 

①道徳的地位の意味
②平等な配慮の意味
③功利性を乗り越える意味

 

「動物の権利」という語で意味するものを、弱いものから強いものへ順に並べると、上のようになる。「道徳的地位の意味」における権利はもっとも弱い権利概念であり、「功利性を乗り越える意味」における権利は強い権利概念である。今回はこれに第四の権利の意味「④市民権の意味」を加え、解説を試みる。

 

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動物の道徳的地位についての整理

今回の記事と次回の記事で、道徳的地位や道徳的権利といった混乱しがちな概念を整理します。参考図書はデヴィッド・ドゥグラツィア『動物の権利』です。よろしくお願いします。

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

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「動物に権利はあるか」 by ジェームズ・レイチェルズ

先日のとある講義で、動物の権利論が「極端だ」「過激だ」という表面的なコメントだけで退けられるのを聴いた。動物の権利論の要求にしたがえば確かに我々の社会は抜本的な改革を余儀なくされるし、獣医師の職域も大きく狭まるだろう。その意味では過激に聞こえるのかもしれない。しかし過激に聞こえるということはそれが論理的に誤っていることを意味しないし、それだけ現状が理想からかけ離れているということの証左なのかもしれない。少なくとも、過激だという一言で退けるのでなく、動物の権利論のどこがおかしいのか、論理的な誤りにも言及してほしいものである。別の大学の講義ではまた違ったコメントを期待できるのだろうか。

 

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

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道徳、一貫性、矛盾について

「正直になりなさい」「人に親切にしなさい」「約束を守りなさい」――こうした道徳的な命令をされると、私たちは「あなたがそれを言うのか?」「この人にそれを言う資格があるのか?」と反発することがある。自身も嘘つきなのに、他人に対して「正直になりなさい」と言う人。自身も約束を破っているにもかかわらず、「約束を守りなさい」と説く人。汚職に手を染めた過去がありながら、政敵の汚職を批判する政治家。

 

私たちは道徳に関する要請をする人の道徳的資格に敏感であり、その人が潔白でなければ要請する資格はないと感じてしまいがちである。あるいは、自分自身の道徳的資格に敏感な人もいるだろう。他人のいかがわしい行為を見て、それを批判しようとした矢先に、自分も過去に同様のことをしたことを思い出し、批判するのを思いとどまった人もいるのではないか。

 

しかしよく考えてみれば、ある発言の正しさは、発言者の振る舞いに関係がない。「1+1=2である」と言ったのが最低の人間だったとしても、1+1=2という真理は揺るがない。「罪のない人を殺すのは許されないことだ」という発言が脱獄した快楽殺人者のものだったとしても、その発言内容が正しくなくなるわけではない。

 

これから空き巣に行こうと思っている人でも、空き巣をしようとしている同業者を見て「やめなさい」と咎めるのは正しい。ひったくりの常習犯でも、ひったくりの現行犯を捕まえて「あなたはとても不正なことをした」と叱責するのは正しい。この人もひったくりなのだから他人を叱責する資格などない、と私たちは思いたくなるが、それは感情論でしかない。問題はただその叱責が相手の心に響くかどうかという実際的な話である。

 

けれども、一点だけ強調しておきたい。道徳に関わる発言は、その発言者に特定の義務を課す。ある場面で、Aさんが「あなたはXすべきである(すべきでない)」と述べたなら、Aさんは、その後のあらゆる同様の場面で同様にXする(しない)という義務を自身に課したのである。これが一貫性の要求である。

 

「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人を注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課した。「人の陰口を言ったらダメだよ」と言った彼女は、自身に「人の陰口を言ってはならない」という義務を課した。「高齢者に席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意しておきながら、自身は立っている高齢者を前に寝たふりをしていたら、一貫性の欠如、態度の矛盾の謗りを免れないだろう。

 

「自身が同様のことをしているくせに、他者を批判するのか」という批判は前後を逆にすべきで、「他者を批判しているくせに、自身も同様のことをするのか」と問わねばならない。路上喫煙者が路上で喫煙している者を注意したならばその矛盾を笑われるかもしれないが、ここで重要なことは、「自身も路上で喫煙しているのに路上喫煙者を注意する」という行為がいけないのではなくて、「路上喫煙者を注意しているのに自身も路上で喫煙する」という行為がいけないという点である。

 

したがって、この路上喫煙者に対して私たちが言うべきセリフは、「あなたに他人を注意する資格はない」ではなく、「他人を注意するからにはあなたもやめなさい」である。同じことをしているあなたに人を非難する資格などないと反発し、言葉を封じようとするならば、whataboutismの誤謬*1を犯すことになってしまう。

 

■一昨日の記事への追記その2

一昨日の猫のヴィーガン食の記事について。

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう。

一昨日の記事で私はこう書いたが、正確にはジレンマではなく、トリレンマであった。すなわち、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を理由に猫にヴィーガン食を与えることを非難する者は*2、第一に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理のすべてを批判し、それへの支持・加担を拒否するか。第二に、非難を撤回するか。そして第三に、自身の一貫性のなさ、態度の矛盾を認めて開き直るか。この三者択一を迫られている。

 

だが、第二の選択肢をとる必要はないと私は思う。「猫を植物由来のフードで飼養するべきではない」という主張には現時点ではそれなりに根拠があり、撤回すべき非難というわけではない*3。発言者が一貫性や誠実さを大切にするならば、非難を撤回するのではなく、第一の選択肢をとるべきであろう。つまり、猫にヴィーガン食を与えて飼養するヴィーガンを批判しつつ、自身もそうした飼養管理への加担をやめればよい。批判者が肉食者ではなくヴィーガンであるなら、一貫性の欠如、態度の矛盾を指摘されることもないだろう*4

 

最後に。このトリレンマの存在自体を否定する議論も可能ではある。それは、「そもそもそれとこれとは別の事例である」ということを示す議論である。「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課したわけだが、同様ではない場面では、席を譲らないという選択が正当化される可能性も十分にある。例えば、立ち上がれないほど体調が悪かったなら、譲らずに座り続けることも許容されるかもしれない。

 

「同様の事例においては同様の判断を下さなければ、矛盾を犯したことになる」という点に異議を唱える人は滅多にいないが、「それとこれとは同様ではない」と異議を唱える人は多い。猫の食性に憂慮していながら牛や豚の食性に無関心であることを非難された者は、「ペットである猫と食用の家畜である豚や牛は別なのだ」と反発したくなるだろう*5。と言うより、この問題は結局のところここに帰着するのだろう。ペットとされる動物と家畜とされる動物とでは、道徳的に重要な違いがあるのだろうか*6。それとも、彼らに道徳的に重要な違いはなく、同様に扱うべきなのだろうか。この点についてはまた日を改めて議論するが、気になる人はとりあえずtreat like cases alikeの原則を読んでみてもらいたい。

*1:そっちこそどうなんだ主義。wikipediaで調べて下さい。

*2:これに関して、猫へのヴィーガン食を非難する理由はそこではない、という反論が見られた。脚注5を参照。

*3:というより、もしここで「非難を撤回せよ」と迫るならば、それこそwhataboutismの誤謬を犯すことになるだろう。「家畜の悲惨な飼養管理に加担している以上、猫の飼養管理に口を出すな!あなたにそんなことを言う資格はない!」という暴論になってしまう。しかし、それは私の趣旨とはかけ離れている。

*4:実際に、猫に植物由来のフードを与えるヴィーガンを批判するヴィーガンはいる。私は、このような人は一貫していると思う。

*5:その他、一昨日の記事に対して向けられた批判は

・「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と言う人は、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」からそのように非難しているのではない。「自分の子供にまともな食事をさせないこと」や「人間の行動原理である道徳を動物にまで押し付けていること」を非難しているのだ。

・猫にヴィーガン食を与えることを問題視する人は、「動物虐待を批判するヴィーガンが、猫にヴィーガン食を与えるのはどうなのか」と言っているのだ。私たち自身の行為は今問題にしていない。

など…

*6:厳密には、ペットと家畜という区分は正確ではない。「人の飼育管理下に置かれる動物」が家畜の本来の定義なので、私たちがペットと呼ぶ犬や猫も本当は家畜に含まれる。

昨日の記事への追記

昨日の記事 「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断について が賛同・批判を含め思いのほか反響がありました。いくつかの誤解が生じていたようなので、その説明を含めて、補足的に追記します。

 

まず私は、猫をヴィーガン食で飼養することの是非について、記事内では極力言及を避けています。それは、私が最新の調査・研究をフォローできていないためです*1

 

昨夜の記事のテーマはそこではなく、「猫をヴィーガン食で飼養するなんてとんでもない」と憤る人たちが、他の動物に対してはどのような態度でいるのかを明らかにすることが狙いでした。「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という主張には確かに栄養学的な根拠があります。しかし、猫についてはその「本来の食性」をことさら重視していながら、牛や豚や鶏の「本来の食性」に彼らがどれだけ無関心なことでしょう。猫へのヴィーガン食の給餌を「虐待だ」とまで非難するアンチヴィーガンの人たちが、食用にされる動物に対する虐待に等しい飼養に無関心であること、そのダブルスタンダードの指摘が、昨日の記事の趣旨でございます*2

 

私は、以下のぶめすさんの発言に強く賛同します。

 

 

質問箱に寄せられていた質問に回答致します。今後、回答が長くなりそうな質問に対しては、ブログ記事にて回答したく思います。(未回答の質問が貯まっています。待たせている人、ごめんなさい)

 

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まず、私が「家畜の不適切な飼養管理を糾弾」しているというのは、半分正しく、半分間違っています。確かにウシやブタの悲惨な飼養を私は許容できませんが、その飼養方法が著しく改善したとしても、つまりアニマルウェルフェアに十分に配慮された飼養管理へと移行したとしても、やはり許容できるとは思われません。

 

ですので昨日の記事で最後の方に書いた「そうした飼養管理を経て生産された肉や鶏卵や牛乳は、購入を控えるべき」という記述は、誤解を招くものだったかもしれません。これだと、「自然放牧で健康的に過ごしている乳牛から絞った牛乳を買いなさい」「放し飼いにされた鶏の卵を購入しなさい」と訴えているように読めてしまうからです。しかし、それは私の本意ではありません。

 

とはいえ、「人道的に飼養された家畜でもダメ」という主張はかなり反発を呼ぶもので、ここに書くとまた長くなってしまうと思いますので、日を改めて論じたく思います。今日はこのへんで勘弁して下さい。

 

(少なくとも現在)猫の栄養要求を満たすことが可能か不明なヴィーガン食を猫に与えることは不適切であると思うのが自然な流れではないですか?」についてですが、下の脚注にも書いてある通り、「現時点では積極的に支持はできない」というのが私の立場です。ただ同時にヴィーガンのキャットフードが開発されている旨の記事も最近よく見かけ、期待しつ注視しているというのが現状での回答になります。

*1:改めて明記しておくと、私は「現状の知識では積極的に支持はできない」という立場です。しかしながら、昨夜の記事でも触れた通り、植物由来のフードでも問題ないという証拠が蓄積しつつあるようです。たとえば、Vegetarian versus Meat-Based Diets for Companion Animals

*2:もちろん、肉食者の誰もが家畜の福祉に無関心であるとは思っていません。家畜の福祉に関心をもち、改善を図る人々が肉食者の中にも一定数いることを理解しています。