ピラビタール

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動物の道徳的地位についての整理

今回の記事と次回の記事で、道徳的地位や道徳的権利といった混乱しがちな概念を整理します。参考図書はデヴィッド・ドゥグラツィア『動物の権利』です。よろしくお願いします。

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

 道徳的地位とは、「倫理的な配慮に値する地位」のことである。例えば、この記事を読んでいるあなたは道徳的地位を確実に有する。言われなき危害を加えられたり、不当に利益を奪われてはならない。それに対して、あなたの手元にあるスマートフォンは、道徳的地位をもたない。私たちはスマートフォンを丁寧に扱うだろうが、それはスマートフォンに壊れてほしくないからである。スマートフォンが不要になれば、精密機器に興味のある人は分解してみたくなるかもしれない。スマートフォンは分解されたとしても、何らかの非倫理的な扱いを受けたとは言えない。意識や感覚のない存在を、倫理的に意味のある形で害したり益したりすることは不可能である*1

 

ある対象が道徳的地位をもつとは、「対象がその対象自身の資格において配慮に値する」ということを意味する。例えば、「イヌを虐待してはいけない」という見解を共有している3人がいるとしよう。一郎は、イヌを虐待してはならないのは、そのイヌの所有者の財産を傷つけるからだと考える。二郎は、イヌを虐待してはならないのは、イヌを虐待することによって残酷さという悪徳を自身の中に培い、やがて人に対しても残酷になるかもしれないからだ、と考える。そして三郎は、イヌを虐待してはならないのはイヌ自身に謂れなき危害を加えるからだ、と考えている。

 

3人の中で、イヌに道徳的地位が備わっていると考えているのは、三郎だけである。一郎は、イヌを虐待してはならない理由を、他人のスマートフォンを壊してはならない理由と同程度にしか考えていない。それは、他人に不利益を与えてはならないという判断の範疇でしかない。二郎は、動物虐待は、人間を虐待するような人間を育ててしまうという理由で良くないと考えている。二郎が動物虐待に反対する理由も、やはり人間の利益を根拠としている。一郎も二郎も、動物の利益が独立した道徳的意義をもち、動物が動物自身の資格において配慮に値することを認めておらず、三郎だけがそれを認めている。

 

今日、動物が道徳的地位をもち、動物自身の利益が人間の利益とは独立して配慮されなければならない、という考え方を、良識ある多くの人は支持する。畜産農家動物実験従事者も、この考え方を支持している(少なくとも支持していることをアピールしている)。だが、動物の利益がどの程度配慮されなければならないのか、という点において、アニマルライツ論者と衝突する。

 

ある見解に従えば、動物の利益は動物自身の資格において倫理的に重要であり、配慮されなければならないが、人間の利益の重要性を下回る。したがって、正当な理由があれば――ここで言う正当な理由とは、新しい化粧品の毒性試験をする企業利益も含むほど広く解釈される――人間の利益のために動物の利益を犠牲にすることはやむを得ない。これは、「動物福祉」の考え方の根底にある価値観である。動物福祉は人間が動物を利用し、殺すことを否定しない。だが、その過程で動物が感じる苦痛をできる限り軽減・除去しようと努める。

 

別の見解――アニマルライツの見解――に従えば、動物の利益は人間の利益と同程度に重要であり、配慮されなければならない。苦痛を避け、監禁から自由であることの利益は、動物だろうと人間だろうと大きな違いはない。したがって、人間の利益のために動物の利益を犠牲にすることは道徳的に正当化し難い。ここまでの考え方をわかりやすくチャートにまとめたので、参考にしてもらえれば幸いである。

 

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*1:そのスマートフォンが誰かの所有物ならば、それを壊すことはその人に対する危害になり得る。ただしその場合も、スマートフォンその物に対する危害ではなく、その所有者に対する危害である。