ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

動物の道徳的地位についての整理

今回の記事と次回の記事で、道徳的地位や道徳的権利といった混乱しがちな概念を整理します。参考図書はデヴィッド・ドゥグラツィア『動物の権利』です。よろしくお願いします。

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

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「動物に権利はあるか」 by ジェームズ・レイチェルズ

先日のとある講義で、動物の権利論が「極端だ」「過激だ」という表面的なコメントだけで退けられるのを聴いた。動物の権利論の要求にしたがえば確かに我々の社会は抜本的な改革を余儀なくされるし、獣医師の職域も大きく狭まるだろう。その意味では過激に聞こえるのかもしれない。しかし過激に聞こえるということはそれが論理的に誤っていることを意味しないし、それだけ現状が理想からかけ離れているということの証左なのかもしれない。少なくとも、過激だという一言で退けるのでなく、動物の権利論のどこがおかしいのか、論理的な誤りにも言及してほしいものである。別の大学の講義ではまた違ったコメントを期待できるのだろうか。

 

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

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道徳、一貫性、矛盾について

「正直になりなさい」「人に親切にしなさい」「約束を守りなさい」――こうした道徳的な命令をされると、私たちは「あなたがそれを言うのか?」「この人にそれを言う資格があるのか?」と反発することがある。自身も嘘つきなのに、他人に対して「正直になりなさい」と言う人。自身も約束を破っているにもかかわらず、「約束を守りなさい」と説く人。汚職に手を染めた過去がありながら、政敵の汚職を批判する政治家。

 

私たちは道徳に関する要請をする人の道徳的資格に敏感であり、その人が潔白でなければ要請する資格はないと感じてしまいがちである。あるいは、自分自身の道徳的資格に敏感な人もいるだろう。他人のいかがわしい行為を見て、それを批判しようとした矢先に、自分も過去に同様のことをしたことを思い出し、批判するのを思いとどまった人もいるのではないか。

 

しかしよく考えてみれば、ある発言の正しさは、発言者の振る舞いに関係がない。「1+1=2である」と言ったのが最低の人間だったとしても、1+1=2という真理は揺るがない。「罪のない人を殺すのは許されないことだ」という発言が脱獄した快楽殺人者のものだったとしても、その発言内容が正しくなくなるわけではない。

 

これから空き巣に行こうと思っている人でも、空き巣をしようとしている同業者を見て「やめなさい」と咎めるのは正しい。ひったくりの常習犯でも、ひったくりの現行犯を捕まえて「あなたはとても不正なことをした」と叱責するのは正しい。この人もひったくりなのだから他人を叱責する資格などない、と私たちは思いたくなるが、それは感情論でしかない。問題はただその叱責が相手の心に響くかどうかという実際的な話である。

 

けれども、一点だけ強調しておきたい。道徳に関わる発言は、その発言者に特定の義務を課す。ある場面で、Aさんが「あなたはXすべきである(すべきでない)」と述べたなら、Aさんは、その後のあらゆる同様の場面で同様にXする(しない)という義務を自身に課したのである。これが一貫性の要求である。

 

「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人を注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課した。「人の陰口を言ったらダメだよ」と言った彼女は、自身に「人の陰口を言ってはならない」という義務を課した。「高齢者に席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意しておきながら、自身は立っている高齢者を前に寝たふりをしていたら、一貫性の欠如、態度の矛盾の謗りを免れないだろう。

 

「自身が同様のことをしているくせに、他者を批判するのか」という批判は前後を逆にすべきで、「他者を批判しているくせに、自身も同様のことをするのか」と問わねばならない。路上喫煙者が路上で喫煙している者を注意したならばその矛盾を笑われるかもしれないが、ここで重要なことは、「自身も路上で喫煙しているのに路上喫煙者を注意する」という行為がいけないのではなくて、「路上喫煙者を注意しているのに自身も路上で喫煙する」という行為がいけないという点である。

 

したがって、この路上喫煙者に対して私たちが言うべきセリフは、「あなたに他人を注意する資格はない」ではなく、「他人を注意するからにはあなたもやめなさい」である。同じことをしているあなたに人を非難する資格などないと反発し、言葉を封じようとするならば、whataboutismの誤謬*1を犯すことになってしまう。

 

■一昨日の記事への追記その2

一昨日の猫のヴィーガン食の記事について。

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう。

一昨日の記事で私はこう書いたが、正確にはジレンマではなく、トリレンマであった。すなわち、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を理由に猫にヴィーガン食を与えることを非難する者は*2、第一に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理のすべてを批判し、それへの支持・加担を拒否するか。第二に、非難を撤回するか。そして第三に、自身の一貫性のなさ、態度の矛盾を認めて開き直るか。この三者択一を迫られている。

 

だが、第二の選択肢をとる必要はないと私は思う。「猫を植物由来のフードで飼養するべきではない」という主張には現時点ではそれなりに根拠があり、撤回すべき非難というわけではない*3。発言者が一貫性や誠実さを大切にするならば、非難を撤回するのではなく、第一の選択肢をとるべきであろう。つまり、猫にヴィーガン食を与えて飼養するヴィーガンを批判しつつ、自身もそうした飼養管理への加担をやめればよい。批判者が肉食者ではなくヴィーガンであるなら、一貫性の欠如、態度の矛盾を指摘されることもないだろう*4

 

最後に。このトリレンマの存在自体を否定する議論も可能ではある。それは、「そもそもそれとこれとは別の事例である」ということを示す議論である。「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課したわけだが、同様ではない場面では、席を譲らないという選択が正当化される可能性も十分にある。例えば、立ち上がれないほど体調が悪かったなら、譲らずに座り続けることも許容されるかもしれない。

 

「同様の事例においては同様の判断を下さなければ、矛盾を犯したことになる」という点に異議を唱える人は滅多にいないが、「それとこれとは同様ではない」と異議を唱える人は多い。猫の食性に憂慮していながら牛や豚の食性に無関心であることを非難された者は、「ペットである猫と食用の家畜である豚や牛は別なのだ」と反発したくなるだろう*5。と言うより、この問題は結局のところここに帰着するのだろう。ペットとされる動物と家畜とされる動物とでは、道徳的に重要な違いがあるのだろうか*6。それとも、彼らに道徳的に重要な違いはなく、同様に扱うべきなのだろうか。この点についてはまた日を改めて議論するが、気になる人はとりあえずtreat like cases alikeの原則を読んでみてもらいたい。

*1:そっちこそどうなんだ主義。wikipediaで調べて下さい。

*2:これに関して、猫へのヴィーガン食を非難する理由はそこではない、という反論が見られた。脚注5を参照。

*3:というより、もしここで「非難を撤回せよ」と迫るならば、それこそwhataboutismの誤謬を犯すことになるだろう。「家畜の悲惨な飼養管理に加担している以上、猫の飼養管理に口を出すな!あなたにそんなことを言う資格はない!」という暴論になってしまう。しかし、それは私の趣旨とはかけ離れている。

*4:実際に、猫に植物由来のフードを与えるヴィーガンを批判するヴィーガンはいる。私は、このような人は一貫していると思う。

*5:その他、一昨日の記事に対して向けられた批判は

・「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と言う人は、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」からそのように非難しているのではない。「自分の子供にまともな食事をさせないこと」や「人間の行動原理である道徳を動物にまで押し付けていること」を非難しているのだ。

・猫にヴィーガン食を与えることを問題視する人は、「動物虐待を批判するヴィーガンが、猫にヴィーガン食を与えるのはどうなのか」と言っているのだ。私たち自身の行為は今問題にしていない。

など…

*6:厳密には、ペットと家畜という区分は正確ではない。「人の飼育管理下に置かれる動物」が家畜の本来の定義なので、私たちがペットと呼ぶ犬や猫も本当は家畜に含まれる。

昨日の記事への追記

昨日の記事 「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断について が賛同・批判を含め思いのほか反響がありました。いくつかの誤解が生じていたようなので、その説明を含めて、補足的に追記します。

 

まず私は、猫をヴィーガン食で飼養することの是非について、記事内では極力言及を避けています。それは、私が最新の調査・研究をフォローできていないためです*1

 

昨夜の記事のテーマはそこではなく、「猫をヴィーガン食で飼養するなんてとんでもない」と憤る人たちが、他の動物に対してはどのような態度でいるのかを明らかにすることが狙いでした。「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という主張には確かに栄養学的な根拠があります。しかし、猫についてはその「本来の食性」をことさら重視していながら、牛や豚や鶏の「本来の食性」に彼らがどれだけ無関心なことでしょう。猫へのヴィーガン食の給餌を「虐待だ」とまで非難するアンチヴィーガンの人たちが、食用にされる動物に対する虐待に等しい飼養に無関心であること、そのダブルスタンダードの指摘が、昨日の記事の趣旨でございます*2

 

私は、以下のぶめすさんの発言に強く賛同します。

 

 

質問箱に寄せられていた質問に回答致します。今後、回答が長くなりそうな質問に対しては、ブログ記事にて回答したく思います。(未回答の質問が貯まっています。待たせている人、ごめんなさい)

 

f:id:naeno:20181004233243j:plain

 

まず、私が「家畜の不適切な飼養管理を糾弾」しているというのは、半分正しく、半分間違っています。確かにウシやブタの悲惨な飼養を私は許容できませんが、その飼養方法が著しく改善したとしても、つまりアニマルウェルフェアに十分に配慮された飼養管理へと移行したとしても、やはり許容できるとは思われません。

 

ですので昨日の記事で最後の方に書いた「そうした飼養管理を経て生産された肉や鶏卵や牛乳は、購入を控えるべき」という記述は、誤解を招くものだったかもしれません。これだと、「自然放牧で健康的に過ごしている乳牛から絞った牛乳を買いなさい」「放し飼いにされた鶏の卵を購入しなさい」と訴えているように読めてしまうからです。しかし、それは私の本意ではありません。

 

とはいえ、「人道的に飼養された家畜でもダメ」という主張はかなり反発を呼ぶもので、ここに書くとまた長くなってしまうと思いますので、日を改めて論じたく思います。今日はこのへんで勘弁して下さい。

 

(少なくとも現在)猫の栄養要求を満たすことが可能か不明なヴィーガン食を猫に与えることは不適切であると思うのが自然な流れではないですか?」についてですが、下の脚注にも書いてある通り、「現時点では積極的に支持はできない」というのが私の立場です。ただ同時にヴィーガンのキャットフードが開発されている旨の記事も最近よく見かけ、期待しつ注視しているというのが現状での回答になります。

*1:改めて明記しておくと、私は「現状の知識では積極的に支持はできない」という立場です。しかしながら、昨夜の記事でも触れた通り、植物由来のフードでも問題ないという証拠が蓄積しつつあるようです。たとえば、Vegetarian versus Meat-Based Diets for Companion Animals

*2:もちろん、肉食者の誰もが家畜の福祉に無関心であるとは思っていません。家畜の福祉に関心をもち、改善を図る人々が肉食者の中にも一定数いることを理解しています。

「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断について

■倫理的判断の普遍化可能性

誠実な倫理的判断は、普遍化可能性を備えていなければならない。普遍化可能性とは倫理的判断がもつとされる性質であり、「ある状況である道徳判断をしたなら、それと類似したあらゆる場面で同じ道徳判断を下したことになる」という性質を指す(以下、倫理的判断と道徳判断とを特に区別しない)。

 

具体例で説明しよう。

 

電車内でAさんが、高齢者が目の前に立っているのに席を譲らずに座っていた。これを目撃したBさんは、Aさんに「どうして座っているんだ、高齢者には席を譲らなくちゃダメじゃないか」と注意した。この時Bさんは、「高齢者には席を譲るべきである」という普遍化可能性のある道徳判断を下したことになる。もしこのしばらく後、Bさんの前にも高齢者がやってきたのに、「私は今ちょっと疲れているので……」と呟いて寝たふりをしたら、先のBさんの発言は普遍化可能性を欠いており、誠実な道徳判断ではなかったということになる。

 

CさんがDさんにお金を貸しているとする。Cさんは「君はボクにお金を返すべきだ」と要求した。この時Cさんが誠実な道徳判断に基づいて発言したなら、「借りたお金は返すべきである」という普遍化可能性のある判断を下したことになる。つまりCさんは「借りたお金を返す」という義務を自身に課したのである。もしCさんも別の人にお金を借りているのに、「自分は返さなくてもいい」と考えるなら、Cさんの発言もやはり普遍化可能性を欠いていて、道徳判断としては失格だと言わねばならない。

 

分かりやすく言えば、道徳判断はダブルスタンダードになってはならない、ということだ。他人の行為には厳しく、自身の行為には甘く評価するような者は、道徳的な議論に参加する能力を欠く。

 

 ■猫にヴィーガン食を与えること

さて、本題である。ヴィーガンが飼育している猫にヴィーガン食を与えることについて、とんでもないことだと憤る人たちがいる。ペットにまで菜食を強いるなどとんでもない。そもそも猫は肉食動物じゃないか。自分がヴィーガンであるのは勝手だが、猫にまでそれを押し付けるなんて、と。今回は、このように憤る人たちの発言を分析する。この発言が誠実な道徳判断に基づくものならば、発言者にいかなる義務を課すのかを明らかにしたい。

 

まず、犬は肉食性に近い雑食動物であるのに対して、猫は肉食動物である。例えば、猫は植物成分であるカロテンをビタミンA(レチノール)に変換できない。また、必須脂肪酸への依存度が高く、リノール酸とアラキドン酸を摂取させる必要がある。私も講義で、「ベジタリアン用の食事を猫に与えている飼い主さんがいたら、やめるように指導すること」と習っている。「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断には、確かに根拠がある。

 

こうした事情から、猫の飼育はヴィーガンに難題を突きつける。飼育者(「保護者」という語の方が適切かもしれない)は、家族の一員に適切な栄養を与える責任を負う。一方で、倫理的なヴィーガンは、動物を犠牲にすることを避けなければならない。こうして、猫と暮らすヴィーガンは、家族の健康維持のために他者を殺す営みに加担すべきか、家族の健康を損なってでも他者への危害を避けるべきか、というジレンマを突き付けられるのである。

 

とはいえ、このジレンマは早晩解消されるかもしれない。まだエビデンスが少ないことと私自身が詳しく調べていないため断言はできないが、植物由来のフードで十分に彼らの栄養要求を満たすことができるという証拠が蓄積しつつあるようだ。だが、猫にヴィーガン食を与えることの是非は今回は議論しない。今回指摘したいのは別のジレンマについて、すなわち「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と非難する人々が突き付けられているジレンマについてである。

 

「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」。これは、動物由来のアミノ酸脂肪酸に対する栄養要求が高い猫に対して、植物由来のフードを与えることを非難するものである。その核心的な主張だけを抽出すると、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」ということになろう。さて、もしこれが普遍化可能性を備えた誠実な倫理的判断であったとしたら、発言者は常に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理を非難しなければならない。少なくとも、自身が、そのような飼養管理を支持・加担することは避けなければならない。もしこれを支持・加担するならば、「猫にヴィーガン食を与えるなんて」という先の発言は誠実性を備えていなかった、倫理的判断としては失格であった、ということになる。

 

■本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理

日本のブロイラーは、生後50日ほどで、約3kgへと育つ。ある研究によれば、1957年の時点で56日齢の鶏の体重は約900gであった。半世紀ほどでのこの体重増加は、タンパク質含有量が多く、短時間で成長を可能にする「濃厚飼料」のためである。これが鶏本来の特性をどれだけ無視した飼養管理かについては、「約40日齢のブロイラーで27.6%に歩行に問題があり、3.3%はほとんど歩くことができない」ことを指摘すれば容易に理解できるだろう*1

 

NPO法人アニマルライツセンターが、市場で売られている「もみじ(出汁などを取るために売られている鶏足のこと)」178本を調べたところ、うち105本の足裏に皮膚炎が見られた。重たい体重を支えるのに無理がかかっている上に、地面の衛生状態がよくないことから、足がひどい炎症を起こしてしまうのだ。

 

――枝廣淳子『アニマルウェルフェアとは何か 倫理的消費と食の安全』岩波ブックレット

 

本来、乳牛が自分の産んだ子牛のために出す泌乳量は年間数百から1000kgと言われる。それに対し、日本の乳牛の年間平均乳量は約8000kgである。一日に30~40kgの乳を出す牛も珍しくない*2。酪農家は少しでも生産性を向上するため、収益のため、穀物を主体とした過剰な飼料を給餌し、これが脂肪肝などの代謝障害、第四胃変位、低カルシウム血症などを引き起こす。高泌乳量の牛は産前後に起立困難に陥りやすいが、その原因は必要なカルシウムを大量の乳とともに喪失するためである。

 

2016年に公開された「平成27年度家畜共済統計表」によると、約218万頭の肉用牛のうち、死廃・病傷事故頭数は約111万頭(51%)に及び、約5万8000頭の死廃事故のうち、病気で死亡した肉牛は5万6000頭である。死因は約22%が消化器病、18%が呼吸器病、循環器病が17%を占める。これはそれぞれ、濃厚飼料の多給、過密で閉鎖的な屋内飼育、高カロリー飼料の多給に起因すると考えられる*3

 

黒毛和種霜降り牛肉にするためには10か月齢くらいまで乾草を食べさせ、それ以降は筋肉繊維の間に脂肪を入れ込むために極端に高カロリーの濃厚飼料を与え、粗飼料は反芻を促すために必要最低量の乾燥稲ワラしか与えないようにしている。生草はカロチン類を豊富に含み、カロチンは体内でビタミンAに変わるが、カロチンを摂取すると脂肪交雑が起こりにくく、脂肪が黄ばみ等級が下がることから生草を与えず人為的にビタミンA欠乏症にしている。

……

牛は狭い牛舎内で運動不足のうえに高カロリーの飼料を与えられるためにますます肥満し、内臓に脂肪がたまり、脂肪肝動脈硬化が進み、糖尿病状態になって、と畜直前には目が見えず、自分の脚で歩けないような状態になっていることも少なくない。

 

――松本洋一 編著『21世紀の畜産革命 アニマルウェルフェア・フードシステムの開発』養賢堂

 

茨城県畜産協会の発行する機関誌「畜産茨城」平成21年11月号の記事「家畜の病気「生産病」とは」によれば、と畜場に出荷される豚の90%以上に胃潰瘍の症状がみられるとのことである。「この胃潰瘍は飼養環境や供給飼料の形状や油脂、蛋白質の大量増加及び各種の添加剤等、飼料の調整法の変化がストレスの原因とされている。」これもまた、動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理によって引き起こされた疾病に他ならない。

 

■再び、猫にヴィーガン食を……

さて、「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断が普遍化可能性をもつ倫理的判断であり、これが「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」という判断を含意するならば、その発言者は当然ながら上記の悲惨な飼養に対しても強く非難すべきであろう。あるいは、少なくともその飼養管理を支持したり加担したりすることは避けなければならないだろう。つまり、そうした飼養管理を経て生産された肉や鶏卵や牛乳は、購入を控えるべきであろう。

 

しかしながら、「猫にヴィーガン食を与えるなんて」とヴィーガンを非難する者たちの中には、どうしたわけか、肉食者が目立つのである。自身がこれらの悲惨な畜産場から届けられた肉を摂取しながら、すなわち、動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理を支持し、これに加担しながら、ヴィーガンに対しては、そのような飼養管理をすべきではないと非難しているようである。

 

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう*4。私のこの指摘に対して、「家畜とペットは違う」と反発したくなる者もいよう。そのように反発する者は、家畜とされる動物とペットとされる動物に道徳的に重要な違いがあることを示さなければならない*5

 

 

*1:Toby Knowles.(2008),Leg Disorders in Broiler Chickens: Prevalence, Risk Factors and Prevention,Public Library of Science ONE

*2:年間2万kg以上の牛乳を産出する牛をスーパーカウと呼ぶ。

*3:家畜が本来もつ生理的特徴を無視した飼養管理によって起こる人為的な疾病を「生産病」という。ヒトで言う生活習慣病に近い。

*4:上記の通り、発言者が撤回しなくても、今後の信頼性の高い調査・研究により、最早これが無意味な非難であることが明らかになる可能性は十分にある。

*5:道徳的に重要な違い……9月9日の記事「'Treat like cases alike.'という原則」を参照。