ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

死は危害か?

まともな理由もないのに他者に危害を加えてはならない――この倫理観は広く共有され、懐疑主義の立場に固執して敢えてこれを否定しようと試みるのは非生産的であり、不毛であると考える。だが、「まともな理由」に何が含まれるかは議論の分かれるところであるし、「危害」の内容もまた自明ではない。

 

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

今回は、この「危害」の中に「死」が含まれるかどうかを検討する。死は、死ぬ者に対する危害なのだろうか。死は、死ぬ者にとって悪い出来事なのだろうか。デヴィッド・ドグラツィア『動物の権利』を参考に、これを論じる代表的な4つの説について紹介する。4つの説とは、

 ①死の無害説

 ②生存欲求阻害説

 ③未来志向欲求阻害説

 ④機会剥奪説

である。

 

なお、この議論では、死と死ぬ過程を区別しなければならない。4つの説のいずれに依拠するにしても、ヒトや動物が死にゆく過程は、それが当事者の苦痛や恐怖を伴うならば、悪いことである。それは経験の質を低下せしめる出来事だからである。

 

また、常識的な観点から、死が個体に危害を加えるとは言えないであろうケースがいくつかある。死は、100年間の生涯を非常に幸福に生き、老衰により死んでいく高齢者に危害を加えるとは、おそらく言えない。ある動物が「生き続けたい」という欲求を全然持っておらず、非常に苦痛に満ちた生を営んでおり、それが今後改善される見込みもない場合もまた、死がその動物にとって悪であるとは、おそらく言えない。

 

 ①死の無害説

エピクロスによる有名な説*1エピクロスによれば、死は死ぬ者に何ら危害を与えない。

なぜなら、私たちが生きているかぎり、そこに死はなく、逆に死が出現したときには、私たちはもはや生きてはおらず、したがって死を経験することはありえず、こうして死は私たちにとって何者でもないからである。

 

——廣松渉、他『岩波 哲学・思想事典』岩波書店から、渡邊二郎「死」より 

我々が生きて存在している間は、死を体験できない。我々が死んだ時、我々はもはや存在せず、死を経験できない。したがって死は経験不可能なものだというのである。繰り返すが、死と死ぬ過程との区別が重要である。死ぬ過程が苦痛を伴うのであれば、それは確実に害悪である。しかしそれは死そのものとは区別されねばならない。死ぬ過程とはあくまで生きている間に体験する出来事なのである。

 

死の無害説によれば、例えば苦痛を伴う病や拷問により死にゆくことは悪いことだが、交通事故や落雷や核ミサイルの着弾などにより本人の自覚を伴わず死んだならば、それは悪いことではない(後者の場合は、死にゆく過程をほとんどすっとばしているので)。

 

だが、死は何ら悪いことではないという主張はやはり直観に反する。あなたが交通事故に遭い、何の苦痛も恐怖も感ずる間もなく死亡したならば、それは悲劇ではないのだろうか。やはりあなたは死により何物かを損失しており、死は害悪なのだと判断したくはならないだろうか。

 

②生存欲求阻害説

これは、欲求充足説を軸とする主張である。欲求充足説とは、「自分の欲求が実現されることが当人にとっての善(幸福)であり、欲求が実現されないことや、避けたかったことが実現してしまうことが当人にとっての悪(不幸)である」とする学説だ。京都を観光したいという長年の欲求が実現すればそれは当人にとって善(幸福)であり、来ないでほしいと願っていた客人に来られてしまうことは悪(不幸)である。

 

生存欲求阻害説は、この欲求充足説から導かれる結論である。つまり、「生き続けたい」という欲求の実現を阻害するから、死は悪なのである。生き続けたいと願う者にとって、訪れる死は、その実現を奪う出来事であり、したがって、危害である。

 

シンガーによれば、ほとんどの動物にとって、「死」それ自体は危害ではない。なぜなら、動物は死や生という概念を理解していないため、「死にたくない」という欲求を持っていないからである。死にたくないという欲求を持っていなければ(これは「生き続けたい」という欲求を持っていないことと同義である)、死の実現は悪いことではない。そうであれば、ヒトの死は重大な出来事だが、ウシの死は重大ではないことになる。ここから、動物に不自由のない快適な生活を送らせ、無痛で死なせて食べることは不正ではないという結論が導かれる*2。ただし、大型類人猿については「死」を理解するだけの知的能力をもつので、死なせるのは不正であるという*3

 

③未来志向欲求阻害説

生存欲求阻害説によれば、生や死の概念をもたない者にとって死は悪い出来事ではない。生き続けたいと願うヒトや一部の大型類人猿にとって死は危害だが、ウシやネコにとっては死は危害ではない(便宜上「ウシやネコ」と書いたものの、ウシやネコが本当に生や死の概念をもたないかどうかは今後慎重に検証されなければならない問題であり、確定事項ではないのだが、以下、一旦そのように仮定する)。

 

未来志向欲求阻害説は、死は、ある者がもっている未来志向の欲求の実現を妨げるがゆえに危害である、と考える*4。この場合、ある者はたとえ「生き続けたい」という欲求をもっていなかったとしても、未来における何らかの事態を望んでさえいれば、死から危害を被るのである。

 

ドゥグラツィアの例を引用する。あるオオカミは群れのリーダーになりたいと望んでいたとしよう。彼は同盟の形成や幾度かの闘争を経て、群れのトップの地位に近づきつつあった。もし彼が目標を達成する前に死んだとしたら、たとえ死の概念を理解していなかったのだとしても、「群れのリーダーになりたい」という欲求の実現が妨げられたのだから、死から危害を受けたのだと論じることができる。

 

ウシが未来志向の欲求を持つかどうかは不明である。だがもし「明日はあの辺の草をめっちゃ食おう」という欲求をもしウシが持つことができたとしたら――そして現に持っているウシを屠殺するなら――死はウシに危害を与えるのである。

 

④機会剥奪説

②にせよ、③にせよ、これらは個体の欲求に基礎をおくアプローチである。②の場合は生と死の概念の理解に加えて「生き続けたい」という欲求、③の場合は未来志向の欲求を持つことが、死から危害を被る条件とされる。

 

しかしながら、もし②または③が正しければ、人間の乳幼児にとっても死は危害ではないということになる。生後1週間の乳幼児はおそらく未来に対して何の計画も持っておらず、また生に関する概念も形成していないだろう。この乳幼児が苦痛なく死を迎えることは、当人にとって悪いことではない。死によって何の欲求も阻害されておらず、したがって危害を被っていないからである。だが、このような結論は、どうも直観に反するのではないだろうか?私達の多くは、乳幼児が不慮の事故で死んでしまった場合、乳幼児は死によって害悪を被ったと自然に判断するのではないだろうか。

 

それに対して、機会剥奪説によれば、死は乳幼児にとっても危害である。機会剥奪説は、「死は生の継続が可能にする貴重な機会を閉ざしてしまう限りにおいて、手段的な危害である」と論じる。感覚をもつ動物は、生き続ける限り、喜びや満足など、経験の質を高める貴重な機会をもつことができる。死は、死ななければ享受し得たであろう様々な貴重な体験(大空を気持ちよく飛ぶ、楽しく泳ぎ回る)を奪うがゆえに、危害になる。このことは、個体が未来志向の欲求をもっているかどうかにも、将来にそうした機会をもつ可能性について自覚しているかどうかにも、関係がない。

 

したがって、感覚をもつ動物にとって、死は危害となる。乳幼児にとっても、ウシにとっても、マウスにとっても、魚にとっても、そうであろう。だが、感覚をもつ可能性がある存在にとって死が危害を意味するかどうかは議論を呼ぶところである(言うまでもなく、人工妊娠中絶の話である)。

 

さいごに

哲学は数学ではないので、どの説が正しいのか、正解を導くことはできない。だが、私自身は④の機会剥奪説を支持したい。種差別を避けること(すなわち人の死が動物の死よりも重大だとするなら合理的な理由を要すること)、常識的見解や直観と矛盾しないこと*5(奇妙な結論が出てきたら学説を疑うこと)、この二点を重視すると機会剥奪説が妥当と思われるのである。

 

むろん、常識的見解や直観が常に正しいわけではない。だが森村先生が言うように、「少なくとも倫理学のような実践的な領域では、常識の判断にはそれなりの重みがある」のであり、「もし他の点では同じ程度の論理的一貫性や説明力を持つ複数の理論があったら、その中では常識に一番合致するものをとりあえず採用するのが合理的」と言えよう*6

 

ただし、機会剥奪説とて欠陥がないわけではない。散歩家さん*7の指摘した機会剥奪説の欠陥について、今度少し考えてみて、記事にしたく思う。

 

 

 

*1:エピクロスについては、散歩家さんのブログに詳しい。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか

エピクロスの倫理観について   

*2:講座 あにまるえしっくす』第2回にも書いたが、シンガーはこれによって畜産を認めているわけではない。工場畜産で動物に苦痛を与えないのは事実上不可能であるという点から、工場畜産に反対している。

*3:例えばローランドゴリラのココが「死」の概念を理解していたというのは有名な話である。

*4:未来志向の欲求をよく「計画」と表現する。

*5:①はもちろん、②~④のいずれの説を採用しても、最初に取り上げた二つのケース(100歳まで幸福に生きた高齢者の死、苦痛に満ちた生を営む動物の死)について、死は危害ではないという常識的見解と合致する。

*6:森村進『幸福とは何か』ちくまプリマ―新書より

*7:苗野がtwitterで知り合った人。エピクロス主義者。ブログ「思考の断片」。

'Treat like cases alike.'という原則

倫理は趣味と同じで個人の好みの問題だから議論しても仕方ないという意見がある。しかし、良い倫理的判断は、少なくとも三つの要素(事実と価値の区別、判断の一貫性、公平な視点)を考慮に入れている必要がある。

――児玉聡、『入門・倫理学』の第一章「倫理学の基礎」より

 

 良い倫理的判断は、①事実と価値とが峻別され、②判断には一貫性が伴い、そして③公平な視点が保持されていなければならない。①と③についてはまた別の機会に論じるとして、ここでは②の判断の一貫性について軽く紹介したいと思う。尚、「①事実と価値の区別」は8月26日に記事にしたヒュームの法則と関わるものである(ヒュームの法則、普遍化可能性 - ピラビタール)。

 

 倫理的判断の一貫性とは、「似たような事例は、似たように扱わねばならない」という原則であり、いわば正義の要求である。二つの事例について我々の判断が異なっているならば、その評価の違いを正当化するような適切な相違が二つの事例にあることを示さなければならない。二つの事例にそうした違いがないにもかかわらず、その評価が異なっているならば、恣意的であるとの誹りを免れないであろう。尚、そうした適切な相違のことを道徳的に重要な違いという。

 

一郎と次郎という双子がいて、先に帰宅した一郎が学校で良い成績を取ったと言うので親が一郎に特別に小遣いをやったとする。すると後から次郎も帰ってきて、同一の良い成績を取ってきたと言ったとしたら、親はどうすべきか。この場合、何か特別な理由を見出せない限りは、同じだけの小遣いをやるべきだと言えるだろう。これが倫理的判断に要求される一貫性である。

―赤林朗、児玉聡『入門・倫理学勁草書房

 

 確かに、一郎と次郎には様々な相違がある。名前は異なり、双子とは言え二人の顔つきは微妙に異なるだろう。趣味や食べ物の好みも異なるかもしれない。だが、それらは道徳的に重要な違いではない。

 もし親が、次郎が一郎と顔つきが異なるからという理由で次郎に小遣いを与えなかったとしたら、恣意的であることは明らかであり、倫理的判断としては失格である。だが、もし次郎は普段から成績がよく、次郎にとってこのような成績は珍しいものではなく、「その程度で小遣いは要らないよ」という了解が親との間でなされているのであれば、二人を異なった仕方で取り扱う適切な理由、つまり道徳的に重要な違いになるだろう。

 

 「似たような事例は、似たように扱え」'Treat like cases alike.'という原則を、ゲイリー・フランシオンは平等な配慮の原則と呼ぶ。呼び方が異なるだけで、論じている内容は同じである。

平等な配慮の原則は、二人の人物サイモンとジェーンがほぼ同じような利益を持つ際に、妥当な理由がないかぎり両者を別扱いしないことを求める。例えばジェーンにとって大学へ行くことが利益であり、サイモンにとってもそれが利益だったとする。その時、もしサイモンが大学入学を認められるのなら、平等な配慮の原則により、ジェーンも入学を認められるべきで、そうしないのは妥当な理由がある場合に限られる。

―ゲイリー・フランシオン『動物の権利入門』緑風出版

 もしもサイモンがジェーンよりも優秀であるとか、合格基準点を満たしたのがサイモンだけであるとか、そういった理由があるのならば、二人の別扱いは正当化されよう。しかし、サイモンが男性でありジェーンが女性であるとか、ジェーンの出自がほにゃららであるからといった理由で二人に別扱いを設けるのであれば、それは不当であり、道徳的に許容されない。性の違いや出自は、大学で勉強するという共通の利益に何ら関係がなく、道徳的に重要な違いたり得ないからである。

 

 フランシオンは、「平等な配慮の原則はあらゆる道徳理論の必須要素であり、この原則を含まない理論は道徳理論たりえない」と言う。例えばある者は極刑を道徳的に正当だと信じているとしよう。彼は、計画殺人を犯した者は肌の色や性別に関係なく、みな処刑されるべきだと信じていたとする。別の者は、極刑はいかなる場合も不当だと信じていたとする。両者は、極刑の倫理的正当性においては対立しているものの、平等な配慮の原則は共有している

 前者は極刑が人種や性別に関係なく執行されるべきであると考えている点で、後者は極刑はいかなる場合にも許されないと考えている点で、両者の判断は少なくともともに一貫性を備えているのである(ここで、前者が「黒人の犯罪は極刑に処するべきだが、白人の犯罪には極刑を執行するべきではない」と意見したとしたら、一貫性を喪失し、倫理的判断としては失格である)。

 

 さて、動物倫理の話である。我々が、「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」と考えている行為がいくつかある。例えば監禁し、肥らせ、食用にすることがそれである。医学研究や教育のために実験に利用することがそれである。娯楽のために展示することがそれである。「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」という取り扱いの相違を正当化するような道徳的に重要な違いが、人間と動物の間に存在するのだろうか。

 人間は二足歩行だが、動物は四本足であることが、人間を実験に使ってはならないが、動物ならば実験に利用しても許される適切な理由だろうか。言語を用いたコミュニケーションが可能であるか可能でないかという相違が、人間を食用に供してはならないが動物ならばそうしてもよい適切な理由だろうか。これらが取り扱いの違いを正当化できる道徳的に重要な違いであろうか。

 人間が虐待されたり監禁されたりすることを避けたいのは、虐待されないこと、監禁されないことに利益をもつからである。そして、虐待や監禁に苦痛を覚えるのは人間だけではない。少なくともある程度の複雑な神経系(侵害受容器や痛みの経験を処理できる脳構造)を備えた動物は、苦痛を感じることができる。「虐待してはならない」という倫理的判断に我々が共感を覚える最大の(おそらく唯一の、ではないが)要因は、「我々は苦痛を感じる」という点である。そしてその点において人間と動物に違いがなく、他の様々な相違が道徳的に重要な違いでない以上*1、「他者を虐待してはならない」という倫理的判断は人間以外の動物(少なくとも脊椎動物の大部分は含まれるだろう)にも適用されなければならない。

 一方で、人間と動物の取り扱いに違いを設ける適切な理由となるものがある。犬の散歩では、車両が行き来する一般道を歩くことがあるだろう。犬は動いているものに興味を示し突然走り出すかもしれない。車がどれほど危険であるかということを、犬に教え諭すことは困難である。そして走り出した犬を人間が捕まえるのは一層困難である。こうした理由は、人間の幼児には通常リードをつけないが、犬にリードをつけるという取り扱いの違いを正当化する道徳的に重要な違いとなり得るだろう。

 

入門・倫理学

入門・倫理学

 

 

動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか

動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか

 

 

*1:他の様々な違いが道徳的に重要な違いでない以上……人間と動物の様々な相違が人間と動物の道徳的地位に差をもたらす理由とはなり得ないということを、8月23日の記事「人間と動物の道徳的地位」で論じています。

相対主義について

 6日未明に起きた北海道胆振東部地震に際して心配して下さった方々、どうもありがとうございました。中には食糧や衣類を送ろうかと申し出て下さった方もおり、お気持ち大変感謝しております。私は全然大丈夫ですので、被災者支援のための募金に回して頂けたらと思います。

 

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

 

 

 道徳は人それぞれ。また異なる国々・地域や時代により、何を「善い」「正しい」とするかは異なる。……誰もが一度はこのような発言を聞いたことがあるのではないでしょうか。これは「相対主義」と総称される考え方で、道徳的な論争では必ずと言っていいほど頻繁に登場します。しかし相対主義的な発言の意味するところは、その発言者により異なります。大雑把に、これを3つに分類することができます。

 

A: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、道徳に関する統一的な見解など存在しない

B: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、道徳に関する普遍的な真理など存在しない

C: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、異なる道徳観をもつ人々を批判したり、自身の道徳観を押し付けたりすべきではない

 

 A、B、Cは「相対主義」と総称される立場ではありますが、それぞれ異なる主張をしています。そこで、Aを記述レベルの相対主義、Bをメタレベルの相対主義、Cを規範レベルの相対主義と呼ぶことにします*1

 

■Aの主張――記述レベルの相対主義

 

 Aの発言者は、「異なる国々や社会集団では、人々は異なる道徳律に従って生きている」という事実に関する主張をしています。これは何ら規範的主張(私達に対する「どうすべきだ」「こうしよう」という提言)を含んでおらず、単なる事実の問題です。したがって、これが正しいかどうかは社会学文化人類学によって実証的に明らかにされなければなりません*2

 しかし、本当に「道徳に関する統一的な見解など存在しない」とまで言えるかどうかは、疑問が残ります。確かに、人が従う道徳律は国や地域によって多様性が見られます。これを示す印象的な逸話がヘロドトスの『歴史』で紹介される、ギリシア人とインドのカラチア族の「父親の埋葬の仕方の違い」です。ギリシア人は父親の遺体は焼くことが正しいと信じていたのに対して、カラチア族はそれを聞いて恐ろしいとおののきました。カラチア族は父親の遺体は食べることが正しいと信じていたのです。

 ではこの逸話をもって、ギリシア人とインドのカラチア族とでは、異なる道徳律に従っていると言えるでしょうか。必ずしもそうとは言えません。ギリシア人とカラチア族は、父親の埋葬の仕方という外形上の相違こそあれ、そこには「遺体に敬意を払う」という共通の道徳律がある、と言える余地があるからです。両者は、魂なるものに対する宗教的見解や、遺体の取り扱いにまつわる病気の発生状況等々の違いにより、単に外形上の異なる習慣として現れているだけではないか、とも考えられます。

 また、殺人の禁止や嘘の禁止はおよそどのような社会集団でも共有されている道徳律と言えそうです。もちろんある国家は死刑を採用しているなど、殺人の禁止に「例外規定」を設けていますが、殺人が全面的に許容されている社会集団は存在し得ない(というより存続し得ない)でしょう。したがって、「人が従う道徳律は国や地域によって多様性が見られる」ものの、依然としてそこに普遍性も見られると指摘できるのではないでしょうか。

 

■Bの主張――メタレベルの相対主義

 

 Bの発言者は、道徳に関する普遍的真理の存在を否定しようとするものです。道徳に関する普遍的な真理とは何か。倫理学において実在論・認知主義と呼ばれる立場を採用する人々は、数学や物理学における真理のように、道徳の領域においても普遍的真理が存在していると考えます。「幼児を虐待することは悪い」という言説は、「100以下の素数は25個ある」「直角三角形において、斜辺の長さの平方は、他の2辺の平方の和に等しい」という言説が数学的真理であるのと同様に、道徳的真理である、と。

 道徳や倫理に関してこのような普遍的な真理が存在するかどうかはわかりませんし、ここでは問いません。しかし、これを存在しないとするBの発言者の論証が誤っていることは確かです。Bの論証を注意深く見てみましょう。

 

前提 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ

だから

結論 道徳に関する普遍的な真理など存在しない

 

 この論証は明らかに誤りです。前提では単に「人々の見解には不一致が存在する」という観察事実を述べているだけです。それは「人々の見解を越えた真理の実在性」に関して、いかなる証拠も提供しません。以下のような論証に置き換えてみるとその誤りがより明確になります。

 

前提 ある社会は天動説が正しいと考え、別の社会は地動説が正しいと考えている

だから

結論 地球の運動に関して天文学上の真理は存在しない

 

 この論証が誤っていることは容易に判断できるでしょう。単に複数の対立した見解があるというだけでは、一方の社会が正しく、他方の社会が誤っている可能性、あるいは両者がともに誤っている可能性が依然として残されています。「1+1=3」と信じている人と「1+1=5」と信じている人が対立しているからと言って、「1+1 という問題に関して真理は存在しない」などという結論は導けないでしょう。同様に、「ある社会は犬を食べることを正しいと考え、別の社会は犬を食べることを間違っていると考えている」という前提から、「犬を食べるということに関して、普遍的な善悪は存在しない」という結論を導くことはできません。

 もちろん、この批判は論証が誤りであることを指摘しているだけであり、結論が誤りであることまでは指摘していません。道徳に関して、普遍的な真理は本当に存在しないのかもしれません。「犬を食べるということに関して、普遍的な善悪は存在しない」という主張は、もしかしたら正しいのかもしれません。しかしそれは、人々の見解に不一致が存在することとは独立の問題であり、人々の見解の不一致をいくら提示してもその正しさを証明できないのです。

 

■Cの主張――規範レベルの相対主義

 

 AとBの相対主義的な発言が規範的な主張を含んでいなかったのに対して、Cのタイプの相対主義は規範的な主張を含んでいます。つまり、私達に対して、「どうすべきだ」、「こうしよう」という提言を含んでいます。

 

C: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、異なる道徳観をもつ人々を批判したり、自身の道徳観を押し付けたりすべきではない

 

 このタイプの相対主義にはある種の「魅力」があります。それは私達に寛容や相互不干渉の精神を教え、異文化に対する尊重・理解や多文化共生の可能性を示唆しているように見えるからです。文化ごと(あるいは社会ごと)に価値観は異なる。我々は異なる価値観や習慣を持っている人々に対して、彼らの価値観が間違っていると批判すべきではない。……この考え方は文化間の摩擦・衝突を回避し、平和を促進するように見えます。

 しかし、この主張には重大な欠陥があります。第一に、「異文化を大いに批判すべきである」という価値観を、相対主義は批判できなくなるというパラドックスが生じます。ある地域に住む人々は、「我々の宗教は地球上で唯一無二の真理であり、異教徒を積極的に批判し、我々の宗教に改宗させるべきである」という道徳律を信じていたとしましょう。ではこの道徳律に相対主義者はどう対処したら良いのでしょうか。彼らに「自分たちの信仰を他者に押し付けるな」と、その態度を改めさせるべきでしょうか。しかし、彼らの態度を改めさせることは、相対主義者がまさに批判していた当の行為ではないのでしょうか。

 第二に、この種の相対主義を支持すると、いかなる残虐な行為も、非人道的な文化も、もはや批判できなくなるという事態が生じます。このタイプの相対主義者は、「殺人は許容される」「窃盗は悪いことではない」と信じる人に対して、「いや殺人は許されないのだ」「窃盗は悪いことなのだ」と説得する資格を持ちません。家の中では靴を脱ぐか靴を履くか、食事は右手で食べるか左手で食べるかといった文化的な相違は無害なものですが、世界には有害な文化や習慣があります。未だにアフリカや中東、アジアの一部の国々で行われているFGMに対する批判を、相対主義者は放棄しなければなりません*3。そしてこれらを毅然とした態度で批判しないのは、開明的ではないでしょう。

 

道徳や価値観は人によって異なります。ですが、少なくとも、他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反でしょう。菜食主義者でない人が、菜食主義者に対して肉を食べろと言っている話は聞いたことがありませんが、逆はよくあります。自分の道徳を貫くのは双方に勝手にすべきことです

— 福永 活也 (@fukunagakatsuya) 2018年9月6日

 

 上のツイートは福永法律事務所代表、福永活也さんのものです(既に削除された模様)。福永さんは「道徳や価値観は人によって異なります。ですが、少なくとも、他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反」と主張します。では、「他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反」という道徳律は、絶対的な道徳律なのでしょうか、相対的な道徳律なのでしょうか。もしこれが絶対的な道徳律なのだとしたら、人によってそれぞれ異なるはずであるところの他種多様な道徳的世界に、自身の絶対的な道徳律を「押し付け」ていることになります。もしこれが相対的な道徳律なのだとしたら、「他人に自分の道徳、価値観を伝え共有させるべきだ」という道徳律と等価ということになり、一顧だに値しません。

 私達は殺人や窃盗を禁止する道徳律を受け入れており、これに違反した人に対して義憤(道徳的な怒り)を覚えます。自分の部屋が空き巣に入られたり、自分の大切な人が暴漢に乱暴されたりしたならば、犯人に対する倫理的な非難をせずにはいられないでしょう。そして、できれば犯人が罪を自覚し、反省することを望むでしょう。ここで、「犯人に罪への自覚と反省を要求することは道徳違反であり、法律というルール違反の点で制裁を要求することしか我々はすべきではない」とするのはあまりに現実味がありません。

 「押し付け」とはそもそも曖昧な言葉であり、話者の意味するところは必ずしも定かではありませんが、少なくとも、道徳とは私達の行動を律する指針の束なのであり、「押しつけがましい」ものであることは事実です。「自分の道徳を押し付けることは道徳違反」と言う人は、そもそも道徳が私達の行動を律する規則なのであるという事実を忘れています。

*1:佐藤岳詩『メタ倫理学入門』に依拠していますが、本書では記述レベルを「事実レベル」と表記しています。

*2:フランケナの『倫理学』、これに依拠している赤林朗・児玉聡『入門・倫理学』ではこの立場の相対主義を「記述倫理学相対主義」としていますが、これは倫理学の研究対象というより人類学の研究対象ではないでしょうか。ですので「記述倫理学相対主義」という呼称にはあまりしっくりきません。

*3:女性性器切除(FGM) | 子どもの保護 | ユニセフの主な活動分野 | 日本ユニセフ協会

ヒュームの法則、普遍化可能性

前回は、「特徴」や「能力」といった観点から、人間の特権的な道徳的地位を主張する議論を批判した。今回は論理学と倫理学の概念を用いて、この議論の構造を分析する。そして、やはり「種差別」は擁護し難い、という結論を導くつもりだ。尚、今回の議論は伊勢田哲治先生の『動物からの倫理学入門』の第2章に多くを負っているので、興味のある人は手に取ってみてほしい。

 

動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

 

 

まず、「種差別」を擁護して、動物に対する差別的な扱いを許容する人たちが頻繁に提示する根拠を5つほどピックアップしてみよう。

 

(1)動物は自ら権利を主張しない。

(2)動物は人間のように知性をもたない。

(3)動物は責任能力や契約能力をもたない。

(4)人間が動物を利用するのは自然だ。

(5)人間は伝統的に動物を利用してきた。

 

多くの種差別主義者は、このような根拠を提示し、「だから動物を差別扱いしてよい」(=「だから人間は特別な道徳的地位をもつ」)という主張を展開する。しかし、こうした主張とそれに対する反論は動物倫理ではもはやお馴染みのやり取りになっている。(1)~(3)の根拠については、既に前回の記事で反駁した通りである。そこで強力な論法となるのが「限界事例論」であった。

 

とは言え、「動物は自ら権利を主張しない、だから動物を差別扱いしてもよい」と主張する人は、それによって「権利を主張しない者を差別扱いしてもよい」ということまで主張したことになってしまうのだろうか。この人はあくまで動物の話をしていたはずなのに、なぜその主張が、人間にまで拡張された一般論としての意味を帯びてしまうのだろうか。

 

その秘密は、この主張の論理構造に隠されている。

 

推論A

前提 動物には責任能力や契約能力がない

結論 動物は差別扱いしてもよい

 

この「前提、だから結論」の流れを推論という。「今日は月曜日だ。だから明日は火曜日だ」はひとつの推論だ*1。では、推論Aは正しいのだろうか。推論Aは

 

前提 XはYである

結論 XにZしてよい

 

という構造をしている。この推論に対しては、有名な「ヒュームの法則」に違反している、と指摘することができる。

 

ヒュームの法則とは、事実判断から価値判断を導くことはできない、という法則だ。わかりやすくいうと、「~である」という事実に基づく前提から、「~すべきである(でない)」とか「~はよい(悪い)」といった価値評価を含む結論を導くことはできない、論理が飛躍している、ということだ。18世紀イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームにちなんで「ヒュームの法則」と呼ばれる(ただしこの“法則”が実際にヒュームの意図に沿ったものであるかどうかは議論の余地がある)。

 

例えば、

 

推論B

前提 まりなは女性だ。

結論 まりなはお淑やかにすべきだ。

 

この推論は、「まりなは女性である」という事実に基づく前提から、「まりなはお淑やかにすべきだ」という価値判断を結論として導いている。

 

推論C

前提 この絵は対称性を備えている。

結論 この絵は美しい。

 

この推論は、「この絵は対称性を備えている」という事実に基づく前提から、「この絵は美しい」という価値評価を結論として導き出している。(「美しい」とか「ダサい」といった評価も価値判断である。「善い」「悪い」のような道徳的な価値判断に対して、これは美的な価値判断である。)

 

さて、「まりなは女性である」とか「この絵は対称性を備えている」というのは単なる事実である。この単なる事実から、「だからどうすべきだ」とか「だからよい」といった価値判断を論理的に導くことはできるのだろうか。ヒュームの法則が正しければ、できない。端的に言えば、「論理が飛躍」している。

 

「論理が飛躍している、だからこの推論は却下!」というだけでは面白くない。ヒュームの法則はさらに、この推論に暗黙の前提が隠れていることを示唆している。例えば推論Bは、「まりなは女性だ」という前提に加えて「女性はお淑やかであるべきだ」という価値判断に基づく第二の前提が隠れている、ということを見抜くことができる。推論Cについては、前提「この絵は対称性を備えている」に加えて「対称性を備えている絵は美しい」という第二の前提(あるいは仮定)が実は隠れているのだ、ということを見抜くことができる。

 

つまり推論Bは本当は

 

前提① まりなは女性だ。

前提② 女性はお淑やかであるべきだ。

結論 まりなはお淑やかにすべきだ。

 

という形の推論だったというわけだ。一般化して書くと、

 

前提① XはYである

前提② YであるならZすべきだ

結論 XはZすべきだ

 

ということになる。そして、推論Cは本当は

 

前提① この絵は対称性を備えている。

前提② 対称性を備えている絵は美しい。

結論 この絵は美しい。

 

という形の推論だったというわけだ。

 

このような三段論法に基づく推論なら、とりあえず形式的には正しい。形式的には正しいとは、これら2つの前提から、確かに結論が導かれるということ。この前提の内容が正しいかどうかはまた別の話である*2

 

さて、ヒュームの法則という武器によって隠された暗黙の前提を見抜くことができることがわかった。では、種差別を擁護する先ほどの推論Aを検証してみよう。

 

推論A

前提 動物には責任能力や契約能力がない

結論 動物は差別扱いしてもよい

 

推論Aにもやはり、隠された暗黙の前提を指摘することができる。隠れている前提は「責任能力や契約能力がない者ならば差別扱いしてもよい」だろう。つまり推論Aは以下のように再構成することができる。

 

推論A

前提① 動物には責任能力や契約能力がない

前提② 責任能力や契約能力がない者ならば差別扱いしてもよい

結論 動物は差別扱いしてもよい

 

もし推論Aがこのような三段論法なら、推論の形式自体は正しい。しかし前提②を私達は受け入れることができるだろうか。これはかなり厳しい。もちろん、「相手が人間だろうと、責任能力や契約能力がない者は差別してもよいのだ」とか「相手が人間だろうと、権利を主張しない者を保護する必要はない」などと開き直って、限界事例の人々への配慮も否定することはできる。しかしそうすると、私達の培ってきた社会道徳は後退を余儀なくされ、歴史の歯車を大幅に巻き戻さなければならなくなるだろう。

 

次に、道徳判断につきまとう「普遍化可能性」という概念を導入する。普遍化可能性とは「ある場面で道徳判断をしたなら、それと類似したあらゆる場面で同じ道徳判断を下したことになる」という道徳判断のもつ性質である。

 

具体例で説明しよう。電車内で村山くんが、高齢者が目の前に座っているのに席を譲らずに座っていた。これを目撃したまりなさんは、村山くんに「高齢者には席を譲らないとダメじゃない」と注意した。この時まりなさんは、「高齢者には席を譲るべきである」という道徳的判断を下したことになる。もしこのしばらく後、まりなさんの前にも高齢者がやってきたのに、「私は席を譲らなくてもいいの」と呟いて寝たふりをしたら、先のまりなさんの発言は普遍化可能性を欠いており、まりなさんの道徳判断は失格だということになる。

 

高木くんが林くんにお金を貸しているとしよう。高木くんは「君はボクにお金を返すべきだ」と要求した。このとき高木くんが誠実な道徳判断に基づいて発言したなら、これは「借りたお金は返すべきである」という普遍化可能性のある判断を下したことになる。もし高木くんも別の人にお金を借りているのに、「自分は返さなくてもいい」と考えているなら、高木くんの発言もやはり普遍化可能性を欠いていて、道徳判断としては失格だと言わねばならない。

 

この道徳判断につきまとう「普遍化可能性」を手がかりに、最後の(4)と(5)を見てみよう。

 

(4)人間が動物を利用するのは自然だ。

(5)人間は伝統的に動物を利用してきた。

 

この(4)と(5)から「だから動物を差別的に扱ってよい」という結論を導くには、先ほど見たように、暗黙の前提を付け加えて再構成しなければならない。つまりこうだ。

 

推論D

前提① 人間が動物を利用するのは自然だ。

前提② 自然なことをすべきである(または自然なことをしてもよい)

結論 動物を差別的に扱ってよい

 

推論E

前提① 人間は伝統的に動物を利用してきた

前提② 伝統は維持すべきである

結論 動物を差別的に扱ってよい

 

推論Dの「自然なことをすべきである」や「自然なことをしてもよい」、推論Eの「伝統は維持すべきである」が普遍化可能性を備えた誠実な道徳判断ならば、動物に関与する場面に限らず「自然なこと」や「伝統」に関わる場面では一律にこのように判断を下さなければならない。

 

そもそも「自然なこと」という語の意味が非常に曖昧でつかみ難く、論者が恣意的に定めることのできる不適切な表現であろう。私たちが服を着ることや車や飛行機に乗ること、スマホやパソコンを使うことは自然なことだろうか。あるいは、路上での排泄や性行為も、性欲の赴くままに誰かを襲うことも、すべきこと、よいことになるのだろうか。私達が病気に倒れ、高度な医療によってこれを治療することはおよそ自然界では見られない現象だが、これは良からぬことなのだろうか*3。「野生動物も他の動物を殺して食べる」ことを自然なことの一例として挙げる者もあるが、野生動物の中には恐ろしい子殺しをする動物もいれば、レイプをする動物もいる。私達もそれに倣っていいのだろうか(ちなみに、大部分の野生動物は草食なのだが)。

 

「伝統は維持すべきである」なら、民主主義や人権などというものは放棄して、男尊女卑の社会に立ち返るべきだ、という判断も導かれかねない。

 

以上のように、動物への差別的扱いを肯定する根拠を厳密に分析すると、限界事例の人々に対する差別的扱いも肯定されたり、残酷な伝統も擁護しなければならなくなったり、非常にまずい結論が導かれてしまう。結論を言う。種差別を擁護するのは、非常に難しそうである。道徳判断が備えている普遍化可能性という性質はかなり強い縛りで、私達の倫理的思考をかなりの程度方向付けてくれるだろう。

 

*1:ただし厳密に正しい推論ではない。厳密には、もう一つの前提「月曜日の翌日は火曜日である」を必要とする。すなわち「今日は月曜日だ。月曜日の翌日は火曜日だ。だから明日は火曜日だ」が正しい推論である。

*2:当然ながら私は、「女性はお淑やかであるべきだ」という規範を唾棄すべきものと考える。

*3:これまた厳密に言えば、「自然なことをすべきである」は「不自然なことをすべきではない」を含意しない。だが、ヴィーガンに批判的な人は往々にしてヴィーガンの生活が「不自然」であることを指摘するので敢えて同義とした。

人間と動物の道徳的地位

 4月11日の記事で「種差別」という概念について説明を試みた。今回と次回では、種差別を正当化する議論に対する反駁を試みる。

 

 「利益をもつ者に平等に配慮すべきこと」が道徳のひとつの要請である。これが「公正」である。他者の利益を不当に奪ったり、不利益を与えたりすることは、道徳的に許し難い行為だ。特に、相手の属性を理由にそうした不利益を与えることは、「差別」の一形態である。(差別の問題は根深く、これが差別のすべてだというわけではないが、差別のひとつの形である。)

 相手の人種を理由に不利益を与えた場合、それは人種差別と呼ばれる。相手の性別を理由に不利益を与えたなら、それは性差別である。そして相手の属する動物種を理由に不利益を与えたなら、「種差別」だというわけだ。

 しかしながら、理解はできるが納得はし難いという人が多いだろう。人種差別や性差別や人間同士の問題である。動物は我々とは「種」が違う。人間はやはり特別扱いされるのが当然なのではないか。相手が動物である以上、人間より軽視されてしまうのは仕方ないのではないか。

 

 「倫理的な配慮に値する地位」のことを「道徳的地位」と呼ぶ。上記のような疑問を抱く人々の考え方を言葉にすると、「人間は道徳的地位をもつ。動物は道徳的地位をもたないか、もっていたとしても人間より低い程度の道徳的地位しかもたない」ということになる。今回と次回で、この考え方が正当なものかどうか、検討してみたい。

 まず今回の記事では、人間の特権的な道徳的地位の根拠を、人間だけがもち、動物がもっていない「特徴」「能力」に求める議論を批判する。では、人間だけがもつ特徴や能力とは何だろうか。

 人間は、言葉によって他者とコミュニケーションがとれる。人間は、道具を使うことができる。人間は、他人と協力をする。人間は、楽しみのためにセックスをする。人間は、何かを達成するために努力したり、反省したりすることができる。……

 

 このように人間にオリジナルな能力を探して、人間の特別な道徳的地位を示そうとする議論には、問題点が3つある第一に、どのような能力を選んでも、多くの場合その能力を持っている動物がいるということ。第二に、どのような能力を選んでも、その能力をもたない人間がいるということ。そして第三に、ある種の能力をもって人間の特別性を説明するという議論それ自体がはらむ問題である。

 

 まず、第一の問題点について。

 人間だけがもつ能力とは何だろうか。例えば、言語を用いたコミュニケーションはどうだろうか。1940年代にチンパンジーに音声言語を教える試みがなされたが、うまくいかなかった。これはチンパンジーの喉の構造が人間と異なって、音声言語を物理的に発することができなかったからである*1

 しかし、手話を用いたコミュニケーションならば、ヒトとチンパンジーの間に双方向的なコミュニケーションが成立する。ゴリラやオランウータンでも、数百の手話サインを理解できることが報告されている*2

 アメリカの心理学者アイリーン・ペパーバーグが30年に渡って飼育・訓練した、ヨウムのアレックスも有名だ。アレックスは物の名前を覚えただけでなく、「同じ」や「違う」といった概念を収得し、比較したり、色や形や材質を判断することができた。アレックスは緑色のプラスティック製の鍵と金属製の鍵を見せられ、「何が違う?」と聞かれたら「色」と答え、「どちらの色が大きい?」と聞かれたら「緑色」と答えることができた。

 では道具を使うという能力はどうか。長い間、人間だけが道具を作って使用する唯一の生物だと考えられていた。それを最初に否定したのは霊長類学者ジェーン・グドールである。1960年代半ばにグドールはタンザニアのゴンベ国立公園、チンパンジーが小枝から葉を取り除いてシロアリの塚に差し込み、シロアリ釣りをしているのを発見した。小枝を無造作に折り、単にアリ塚に差し込むだけではうまくいかない。チンパンジーは、慎重に適切な材料を探して、枝や葉を取り去って、道具を加工までしていた。

 他にも、道具を使用する動物の例は多数報告されている。オーストラリアのバンドウイルカはカイメンを使って採餌行動をすることが知られている。カイメンをくわえて吻部を保護して、砂地の中を探索して小魚を追い出し、これを食べる。ニューカレドニアに生息するカラスは、木の枝や葉から道具を作って採餌する。小枝をかぎ針のように細工して、それを使って穴の奥に潜む昆虫を捕らえることが知られている。*3

 「秩序ある社会を形成するのが人間だ」と主張する者もいるかもしれない。しかし、秩序ある集団を形成する動物もまた存在する。オオカミはアルファと呼ばれるリーダーの下に順位制を伴った群れをつくる。ハダカデバネズミも有名だろう。ハダカデバネズミは、繁殖を行う1頭の雌の下に、分業化された実に見事な社会秩序を形成している。

 このように、人間の特別な道徳的地位を示すために人間に特有の能力や特徴を示そうとしても、多くの場合、それが動物にも共有されていることが明らかになっている。以上が、この議論の第一の問題点である。

 

 次に、第二の問題点について。

 何らかの能力をもつことを根拠に、人間が特別な存在であると示そうとすると、「ではその能力をもたない人間はどうなるのか」という問題が生じる。全人類に共通と思われるどのような能力を探しても、どうしてもその能力をもたない者がいる。例えば言語でコミュニケーションを行うことを人間の特徴だとしても、乳幼児や重度の知的障がい者失語症の患者などはその能力が欠けていよう。

 「文字を書くこと」というように、確かに今のところ人間以外の動物には見られない能力をあげることもできる。だがそのように能力の水準をあげてしまうと、なおさらその能力をもたない――「人間」の条件からこぼれ落ちてしまう――人々の数は多くなってしまうだろう。*4

 実際、知性にしても記憶力にしても我慢強さにしても、ある種の動物(例えばイヌ、イルカ、チンパンジーなど)と同程度か、それより低い能力しかもたない人々が常にいる。乳幼児や知的障がい者認知症患者など、こうした人々のケースを「限界事例」と呼ぶ。

 種差別主義者が「人間は××の能力をもつ、それゆえに特別に配慮されるべき存在なのだ」と言うと、動物倫理を学んだ人には必ず「ならば××の能力をもたない限界事例の人々は配慮されなくてよいのか?」と切り返される。もし限界事例の人々も同じように配慮されなければならないと考えるのであれば、「××の能力をもつから」という根拠は撤回しなければならない。

 この「限界事例論」という論法は大変強力で、それまで動物への配慮に否定的だった哲学者が、これに対抗できないことを悟り、動物への配慮の肯定派に立場を転向したくらいである。

 

 最後に、第三の問題点について。

 これがもっとも本質的な問題である。そもそも、ある種の能力や特徴をもって、人間の特別性を説明するというのは、正当な議論なのだろうか。なぜ、ある能力をもつことが、その所有者を、その能力をもっていない人よりも倫理的な配慮に値するものにするのだろうか。

 例えば、カズキは数学が苦手だが、友人のマリナは数学をとても得意とする。ところで、高い数学の能力を備えているということによって、マリナはカズキよりもより大きな倫理的配慮を受けるに値すると言えるのだろうか。そしてカズキは数学が苦手だという理由によって、マリナよりも少ない倫理的配慮しか受けるに値しないと言えるのだろうか。

 もちろん、マリナが数学の試験で高得点をとって褒められることもあるかもしれないし、数学の能力を活かせる会社に就職すれば、その能力のおかげでより大きな報酬をもらえるかもしれない。しかしそれは道徳的な地位とは無関係だろう。

 『あにまるえしっくす』原作者のおにぎり氏は絵がとても上手だが、苗野は絵が下手である。では、絵が下手だという理由で、監禁され、太らせられ、やがて食べられるという運命を苗野に背負わせることは理に適っているだろうか。

 どんな能力や特徴を挙げても同様である。走るのが早い、2か国語を話せる、背が高い……リストは続くが、これらは倫理的な観点から見て、まったく重要性をもたない。そして同様に、優れた言語能力をもつことも、道具を使えることも、道徳的地位とは無関係と言えるだろう。実際に我々人類は、何らかの能力に欠けていたり劣っていたりする人々を「無用」のものと見なし、その抹殺を試みた歴史を背負っている。

 

 蛇足ながら、もう一点だけ付け加えたい。これは動物の権利を論じる著名な法律学者ゲイリー・フランシオンの指摘である。なぜ我々は言語能力や道具を使うという能力を指摘して、人間の特権性を示そうとするのだろうか。それは最初から「人間が特権的な道徳的地位をもつ」ということを前提した議論だからだ。こうした議論で、空を飛ぶとか、水中で呼吸をするといった能力の重要性を指摘する人はいない。それもそのはずで、何の道具も使わずに、空を飛んだり、水中で呼吸をしたりすることのできる人間はいないからだ。つまり、これは初めから「人間には特権的な地位がある」という結論ありきの議論なのである。しかし、言語能力が空を飛ぶ能力より、所有者により高い道徳的地位を与えるという根拠などはない。

 たとえ言語能力に優れていても劣っていても、道具を使えても使えなくても、空を飛べても飛べなくても、それらは道徳的地位の優劣には無関係である。

 

 特徴や能力から人間の特権的な道徳的地位を説明する議論に対する批判はここまでとしたい。次回は論理学と倫理学の概念を用いて、この議論の構造を分析する。

 

 

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動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

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動物倫理入門

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*1:この件について、京大野生動物研究センターのサクラギヒロコさんから、チンパンジーに真剣に音声言語を教える試みは1909年のものが最初のようである、とご指摘いただきました。ありがとうございます。

*2:2018年6月、雌のローランドゴリラのココが46歳で亡くなったニュースが話題を呼んだ。彼女に手話を教えたパターソンはココに「あなたは動物、それとも人間?」と尋ねた。これに対するココの答えは「ステキナ ドウブツ ゴリラ」だった。島泰三 『ヒト――異端のサルの1億年』 中公新書より

*3:さらに驚嘆すべきは魚の道具使用例である。進化生物学者ベルナルディは、ミクロネシアの海でダイビング中に、クサビベラが道具を使用する姿を撮影した。一匹のベラが砂地に水を吹きかけて埋もれていた二枚貝を見つけ出し、それをくわえて離れた場所にある大きな岩まで運んで、首を素早く振って岩に貝を放った。これを何回か繰り返し、貝を割って食べていた。日経サイエンス編集部 『別冊226 動物のサイエンス(別冊日経サイエンス)』日本経済新聞出版社より

*4:アイヌ民族を想起せよ。