ピラビタール

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「種差別」という概念

 動物倫理は現代倫理学の分類に従えば応用倫理学の一分野である。私達は動物とどう接すればよいのか、私達と動物のあるべき関係はどのようなものかを考察する。義務論や功利主義といった規範理論を駆使し、動物実験、肉食、ペットショップの問題、動物園や水族館、そして野生動物問題等を倫理学的課題として取り上げる。その問題意識は多方面に渡り、私たちが解かねばならない課題は多い。しかしそのどの方面においても念頭に置くべき共通の重要な概念がある。それが種差別(スピシーシズム、speciesism)である。

 

 「種差別」という言葉は1973年に心理学者のリチャード・ライダーが初めて使用し、1975年のピーター・シンガーの『動物の解放』により有名になった。シンガーは同書においてこの語を「私たちの種(人類)の成員には有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」と定義している。

 

 わかりやすく言えば、「ヒト以外の動物の利害を、ヒトの利害よりも低く見積もる考え方や態度」ということになろうか。例えば、現代の我々の社会は、医学研究や新薬開発のために被験者の意に反した人体実験を行うことを禁じている。これは当然の倫理的要請であろう。この倫理的要請を言葉にするならば、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、被験者の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を私達は拒否している、ということである。

 

 それに対して、動物実験が禁じられていないのは、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、動物の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を我々が自然に(無意識に)受け入れているからに他ならない。動物実験に限られた話ではない。食用としての動物利用、衣類としての動物利用、その根底にあるのは我々の「種差別」的態度である。味覚の快楽や、ファッションによって得られる楽しさなど、動物の苦痛に比べると些細なもののはずだが、我々は我々の種の利害を無意識に重視している。

 

 「動物を殺したり監禁したりしていいのは当たり前だ」という偏見は、「黒人がこのレストランに入れないのは当たり前だ」とか「女性に選挙権がないのは当たり前だ」といった偏見と同様の無根拠なものである。ヒトをヒトであるからという理由で優遇し、動物を動物であるからという理由で搾取の対象とする態度は、白人を白人であるからという理由で優遇し、黒人を黒人であるからという理由で搾取の対象とする人種差別と何ら変わらず、そこに合理的な根拠はない。相手の属する動物種という形式的な属性によって取り扱いを変えることは、相手の国籍や肌の色、障害の有無を理由に取り扱いを変えることに等しく、差別なのだと言わねばならない。

 

 シンガーは、他の人種の成員の利害を軽視し、自らの人種の利害を重視する人々を人種差別主義者(レイシスト)と、自らの属する性別の利益を重視する人々を性差別主義者(セクシスト)と呼ぶのになぞらえ、我々ホモ・サピエンスという種の利益を重視し、他の種の成員の利害を踏みにじる者たちのことを、種差別主義者(スピシーシスト)と呼んだ。

 

 動物倫理の研究の第一歩は「種差別」という概念を理解することにある。そしてこれを正しく理解したならば、擁護することは大変困難である。人種差別や性差別は重大な社会問題だが、「種差別」などは差別と呼ぶに値しない、差別という語の濫用であると反発したくなる者もいよう。だがそれが差別であることを構成する論理は極めて緻密で反駁は難しい。ある哲学者は種差別の議論を「勝利をおさめた議論(won argument)」と称している。そして、一旦種差別を容認し難い不正と見なしたならば、動物利用を当然とする我々の生活は抜本的に改められねばならない。こうしてシンガーは、理路整然と、肉食を放棄してベジタリアンになるべきこと、毛皮や皮革製品、動物実験によって開発された化粧品などをボイコットすべきことを主張するのである。

 

※シンガーの理論は「利益に対する平等な配慮」をキーワードとした功利主義に基づくものであり、「種差別」という概念だけで説明できるわけではない。今回はあくまで「種差別」という語の解説として理解されたい。

 

動物の解放 改訂版

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