ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

価値判断の無限連鎖を避ける5つの戦略

学校が始まりました。憂鬱です。あと少しで獣医になれるみたいです。本当になれるんでしょうか。twitterのアカウントを一時削除しましたが、これは一時的なものです。ちょっと集中したいことがあって、時間を奪われてしまうので、一旦削除しただけで、2~3週間で復帰する予定です。驚かせた方、すみません。

 

先月に質問箱に来ていた質問に回答してみたいと思います。おそらく、前回までの3つの記事『「である」と「べき」の断絶その1~3』を読んで頂ければ、よりスムーズに読み進めて頂けるのではないかと思います。ただし、長いです。

「である」と「べき」の断絶 その1

「である」と「べき」の断絶 その2

「である」と「べき」の断絶 その3

 

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『講座 あにまるえしっくす』第4回で例に出した循環論法は、以下の3つのようなものでした。

 

循環論法その1(p.7)

1.聖書に書かれていることは真実です

2.なぜなら聖書にそう書いてあるからです

 

循環論法その2(p.7)

1.人間は特別である

2.なぜなら人間は他の動物とは異なるからだ

3.なぜ他の動物と異なるか、というと、それは人間が特別だからだ

 

循環論法その3(p.23)

1.人間は特別である

2.なぜなら人間には言語能力があるからだ

3.なぜ言語能力を持っていれば特別なのか?

4.それは言語能力が人間の能力だからだ

 

その1とその2の論証が失敗していることは言を俟たないでしょう。しかし、その3に関しては改良の余地があります。「言語能力が人間の能力だからだ」を「言語能力はかくかくしかじかの点で道徳的に重要だからだ」に変更し、道徳的生活における言語能力の重要性を説くように試みてはどうでしょうか。そうすると、とりあえずは循環論法を避けることはできます。ただし、言語能力から人間の道徳的例外性を説明しようとすると、やはり漫画で論じたような限界事例の問題に直面します。「人間の道徳的例外性」を証明しようとするのに、能力や特徴を持ち出すのは、得策とは言えないでしょう。

 

さて、質問の件です。

 

「倫理的であることが正しい(だからそうあるべき)」や「差別は悪」も立派な循環論法だと思うのですが、その辺りはいかがお考えでしょうか?

 

回答します。私たちの価値判断は、常に、その根拠に別の価値判断(と事実判断)を求めることができます。本当のことを言うと「常に」ではないのですが、それも含めて、説明します。例えば「自動車の使用や肉食を減らすべきだ」という価値判断の根拠は何でしょうか。それはおそらく、「地球温暖化を阻止すべきだ」という価値判断と、「自動車の使用や肉食は地球温暖化につながる」という事実判断でしょう。

 

前提1 自動車の使用や肉食は地球温暖化につながる(事実判断)

前提2 地球温暖化を阻止すべきだ(価値判断)

結論 自動車の使用や肉食を減らすべきだ(価値判断)

 

では、「地球温暖化を阻止すべきだ」という価値判断の根拠は何でしょうか。それは、「地球温暖化によって社会や生態系に大きなダメージを与える」という事実判断と、「社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ」という価値判断でしょう。

 

前提1 地球温暖化によって社会や生態系に大きなダメージを与える(事実判断)

前提2 社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ(価値判断)

結論 地球温暖化を阻止すべきだ(価値判断)

 

では、「社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ」という価値判断の根拠は何でしょうか。それはおそらく、「社会や生態系がダメージを被ると人や動物が苦しむ」という事実判断と、「人や動物を苦しめてはいけない」という価値判断でしょう。ここで重大な問題に気が付きます。価値判断の根拠に常に価値判断が含まれる以上、その価値判断を正当化しようとするとまた別の価値判断が必要になるということです。そうすると、無限連鎖に陥るのではないでしょうか。

 

ここで無限連鎖を避けるために取り得る戦略を、5つ紹介します。

 

第1の戦略:循環論法を敢えて用いる

 

1.人や動物が苦しむことをしてはならない。

2.なぜなら、そんなことをすれば人や動物が苦しむからだ。

 

おそらく質問者さまが想定していたのは、このような循環論法でしょう。「苦しめてはならない」といった究極的な価値判断は、最終的にはこのようにしか正当化できないのではないか(しかも、その正当化は、循環論法をインチキとする限り、インチキだ!)。しかし、まだ別の戦略がありますので、焦らないで下さい。

 

第2の戦略:それを第一原理とする

 

規範倫理学は、「我々はどのような行動を選択すべきか」を考え、究極的には「我々はいかに生きるべきか」を探る学問です。私たちはさまざまな倫理的判断を下しますが、この倫理的判断の根拠となるような「第一原理」を探ることが、規範倫理学の目的の一つと言えるでしょう*1。シンガーは功利主義的なアプローチから、「苦痛は悪」と「利益の平等主義」を第一原理とし、レーガンは義務論的なアプローチから、「生の主体には内在的価値がある」を第一原理とし、ここから議論を展開しています。

 

第一原理は、議論の出発点となる価値論ですので、これを別の何らかの価値判断によって正当化することはできません。また、ヒュームの法則が正しければ、事実判断によって正当化することもできません(メタ倫理学における自然主義の立場を採用すれば「できる」と言えそうですが、その話はまた今度にします)。第一原理は正当化され得ない――と言うよりむしろ、それ自体があらゆる価値判断の正当な根拠としか考えられなさそうな価値判断、ということになります。

 

それ自体明証的な公理(=第一原理)から出発して、倫理学の体系を演繹的に組み立てていく。この手法にも、異論は向けられるでしょう。それ自体で明証的な公理を一体どのように選択すればよいのか。私たちは往々にして不合理な判断を下してしまいますが、その不合理な判断が、公理を選択する際には免れるとどうして断言できるでしょうか(質問者さまの言葉を借りれば、「湧いてくる感情がその基本とな」らないとどうして断言できるでしょうか)。倫理学の整合的な体系の構築でもっとも成功に近付いたと思われる功利主義者でさえ、論者によって、「総体としての幸福」を目指すのか、「平均としての幸福」を目指すのか、そして幸福とは「快楽」なのか、「選好の充足」なのかで一致していません。

 

第3の戦略:よい推論として認める

 

ところで、演繹的に妥当でない推論は、倫理的な推論において総じて不適切なのだろうか、と問うことができます。一般に、演繹的に妥当でなくとも、十分に「よい」推論を組み立てることは可能です。

 

(1) 彼は必ず待ち合わせに遅れてくる。だから、今日も遅れるだろう。

(2) スピルバーグ監督の作品はすべて面白い。だから、次回作も面白いに違いない。

(3) 彼はしょっちゅう待ち合わせに遅れてくる。だから、今日も遅れるんじゃないかな。

(4) 今まで観たスピルバーグ監督の作品は面白かった。だから、次回作も面白いと思うよ。*2

 

(1)と(2)は演繹的に妥当な推論ですが、(3)と(4)は演繹的に妥当な推論ではありません。(1)の場合、彼は「必ず」遅れてくるのだから、今日も遅れるのは当たり前です。「必ず遅れる」という前提が正しければ、結論の「今日も遅れる」は真であらざるを得ません。(2)も同様に、スピルバーグ監督の作品は「すべて」面白いということが前提にある以上、次回作も面白いという結論は必然的に導かれます。前提が正しければ結論も常に正しくなるのが演繹的に妥当な推論の特徴です。

 

それに対して、(3)はどうでしょうか。彼がしょっちゅう遅れてくるからと言って、今日も遅れるとは限りません。 (4)もまた同様です。今まで観てきたスピルバーグ監督の作品が面白かったからと言って、次回作も面白いとは限りません。次回作ではコケるかもしれません。前提が正しくても結論が正しいとは限らないのが、演繹的に妥当ではない推論の特徴です。

 

しかし、(3)と(4)は、演繹的に妥当ではない推論とは言え、まずい推論ではありません。そのどちらも、彼が今日遅刻するかもしれない、スピルバーグ監督の次回作が面白いかもしれない、十分よい理由を提示しています。もちろん、結果としては彼は遅刻しないかもしれないし、スピルバーグ監督の次回作はつまらないかもしれません。しかしたとえ予測が外れたとしても、この推論を支持するよい理由が私たちにはあったと言えるでしょう。このように、推論には、演繹的に妥当ではないが、まずくはないものがあり得ます。では、倫理に関する推論で、演繹的に妥当ではないが、十分によい推論はあり得るのでしょうか?

 

「なぜ犬を蹴ってはいけないの?」と子供に聞かれたら、私たちは「痛いからだよ」と答えるでしょう。そしてこれは犬を蹴ってはいけない十分によい理由であると、私たちは(子供も)見なすでしょう。ある種の哲学オバケは、ヒュームの法則を持ち出し、「いや、『痛い』は事実判断である。それは『蹴ってはならない』という価値判断を導いたりはしない」と反論するかもしません。この反論は、実際、正しいかもしれません。しかしこのような反論は、倫理学的な議論ではあるいは歓迎されるべきかもしれませんが、倫理的な議論では歓迎されるべきではありません*3。というのは、私たちはこのような哲学オバケとはともに倫理的な推論を営むことができるはずがないからです*4。「ある事実を、道徳的結論を支持する適切な理由と見なすのは、理性的な人であることのしるしであって、理性的でない人のしるしではない*5

 

第4の戦略:道徳を「諸信念のネットワーク」と捉える

 

第3の戦略は、「質問に答えていないではないか」と怒られるかもしれません。「理性的な人ならわかるでしょ」と誤魔化されているように感じられるかもしれません。そこで、より有望な第4の戦略です。これは、倫理体系を第一原理から演繹的に展開されるシステムと考えるのをやめ、W・V・クワインの言う「信念のネットワーク」を形作っているものだと考える方法です。説明しようと思ったのですが、今回の記事で書くと長くなりすぎるので、ジェームズ・レイチェルズ『倫理学に答えはあるか』世界思想社の終章「転覆活動としての道徳哲学」をお読み下さい。気が向けば、今度扱ってみます。

 

第5の戦略:文脈主義を採用する

 

今あなたはこの記事をスマホまたはパソコンで読んでいるものと思います。しかし、そのことは絶対確実に真でしょうか。デカルトは『省察』で方法的懐疑を実践し、絶対確実に真と言えるものがほとんどないことを明らかにしました。目の前のスマホは目にも見え手で触ることもできますが、それは幻覚か錯覚かもしれません。極端なことを言えば、目の前のスマホを神のような強力な能力をもつデーモンに見せられているのかもしれなません(デーモン仮説)。あなたは培養液に満たされた水槽の中の脳であり、コンピュータに神経系が繋がれ、非常に精妙なバーチャルリアリティを見せられているのかもしれません(水槽脳仮説)。

 

このような方法的懐疑を徹底すると、私たちは絶対確実に真と言える知識にはたどり着けないように思えます。しかし、そこで失望することはありません。ここで有用となるのが「文脈主義」の考え方です。文脈主義にもいくつかの種類がありますので、ここでは、伊勢田『哲学思考トレーニング』で紹介されている「関連する対抗仮説」型の文脈主義を紹介しましょう*6

 

私たちはある問題について議論していて、いくつかの対立する主張(対抗仮説)があるとき、これを、真面目にとりあげる仮説と真面目にとりあげる必要のない仮説とに分けることができます。真面目にとりあげる仮説(これを関連する対抗仮説と言います)の中で、自分の主張が他の主張と比べてもっとも優れていることを示せば、その主張が妥当であると見なしてよい、と考えるのが対抗仮説型の文脈主義です。

 

例えば、「今朝、東京で雪が降った」という主張の正しさを検討する際、「雪が降った」というこの世界が本当に存在するか、それともデーモンに「雪が降った」という幻を見せられているのではないか、という懐疑にたいした意味はありません。なぜなら、たとえデーモンに見せられている幻の世界であろうと、水槽の中の脳であろうと、雪が降ったのなら早めに家を出なければならない、防寒対策をしなければならない、という対策が必要になるのは変わらないからです。したがって、デーモン仮説も水槽脳仮説も、ここでは関連する対抗仮説ではありません。これに対して、「降ったのは今朝ではなくて深夜だったのではないか」「降ったのは東京ではなく関東の別の場所ではないか」という対抗仮説は、この文脈では、「今朝、東京で雪が降った」という主張の正しさを示すために排除しなければならない可能性であり、これらは関連する対抗仮説です。このようにして、関連する対抗仮説をすべて排除すれば、主張は妥当なものとして認められる、とするのが関連する対抗仮説型の文脈主義です。

 

そもそも善悪など存在するのか、価値など本当に存在するのか、といった倫理的懐疑主義は解決不可能です。しかし、この文脈主義の考え方を用いると、私たちは十分に理性的で生産的な議論が可能になる道が開けます。例えば「自動車の使用や肉食を減らすべきだ」といった議論の文脈と、「果たして善悪など存在するのか」といった議論の文脈は明らかに異なります。前者の文脈では、私たちは「地球温暖化を阻止すべきだ」、あるいはもう一つ遡れば「社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ」といった価値判断については合意を得ており、より高次の具体的な行動規範について議論しているでしょう。後者は、私たちの日常の行動の決定とはかけ離れた、倫理学研究室の学生や勉強会におけるメタ倫理学の議論での文脈でしょう*7

 

対抗仮説の考え方は、倫理的な議論の場では「立証責任」として応用できます。立証責任とは、複数の対立する主張がある時に、自分の主張の正しさを示す責任のことですが、この責任は誰にでも帰属するものではありません。例えば「今日は雨が降る」という主張と「今日は雨が降らない」という主張が対立している時、通常、雨が降る理由がまったくないのに「雨が降る」と主張している側に、立証責任が求められます。逆に、雨が降るよい証拠があるにもかかわらず、「雨が降らない」と主張している人がいるなら、その場合は「雨が降らない」と主張している側に立証責任があります。そして、対立している主張がない時は――ある見解について誰もが同意している時は――立証を求める人がいないので、当然ながら立証責任は発生しません。

 

立証責任を倫理的な議論の場にどのように活かせるでしょうか。私たちがある倫理的判断について一致を見ている時は、誰にも立証責任は発生しません。それに対して、これに異議を唱える人が出てきた時、一般論としては、異議を唱える側が立証責任を負わなければならない、と言えそうです(そうでない場合ももちろんありますが)。既存の倫理規範を間違えていると訴える人は、その大幅な改定を訴えているわけですから、どこが間違えているのか、通常はこれを説明すべきです。例えば、「無差別殺人は悪い」は私たちの大部分が一致を見ている倫理的判断ですが、これを「いや悪くないのだ」と主張する側に立証責任は帰せられ、「悪い」と一致している私たちが立証責任を負わねばならない謂れは、おそらくないでしょう。

 

そうしたわけで、私たちが一致を見ている価値判断は、そこを出発点とすることが妥当であるということです。質問者さまは、「差別は悪」という価値判断が正当化されずに自明視されていることに疑問を感じたと思うのですが、おそらく「差別は悪」は私たちの一致点でしょう。誰もこれに異議を唱えなければ、立証責任は誰にも発生しないので、不毛な懐疑主義を避けることができます。一方で誰かがこれに異議を唱えたならば(「差別は悪くない」と誰かが唱えたならば)、その人に立証責任が生じます。また、もし「俺は異議を唱えたいわけではないのだ、『差別は悪』の根拠があにまるえしっくすで示されていないのが不満なのだ」ということであれば、文脈主義の立場から、それは動物倫理の文脈では問題にならない、という回答になるでしょう。

 

長くなりましたが、以上が質問に対する回答になります。

*1:「価値判断」と「倫理的判断」という単語が出てきますが、倫理に関わる価値判断が倫理的判断です。

*2:この例はすべて福沢一吉『論理的思考』サイエンス・アイ新書から拝借しました。

*3:「倫理的な」には2つの意味があります。第一に、倫理に関連のある、というニュートラルな意味。第二に、倫理に適っている、倫理的に善い、という意味。「倫理学的な議論」とは前者の意味での「倫理の議論」であり、「倫理的な議論」とは後者の意味での「倫理の議論」に該当します。

*4:たぶん、この種の哲学オバケは私たちと倫理的な議論をしたがっているのではなく、むしろそれを邪魔しようとしているのでしょう。

*5:アン・トムソン〔著〕、斎藤浩文、小口裕史〔訳〕『倫理のブラッシュアップ――実践クリティカル・リーズニング応用編』 春秋社

*6:伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』ちくま新書

*7:畜産の是非について議論している時に、「いや果たして善悪など存在するのか?」という疑問を提起するのは、今朝東京に雪が降ったかどうかを調べている時に、「いや我々は水槽の中の脳なのではないか?」と問うようなものです。どちらの提起も、明らかに文脈がズレています。