「である」と「べき」の断絶 その2
「である」と「べき」の断絶 その1 のつづき
『講座 あにまるえしっくす』第5回では、人間の道徳的地位の特権性や種差別を、事実判断を根拠に正当化しようとする推論について、反論を行う予定である。我々が反論すべきこの推論は、事実判断のみを前提として、結論に倫理的価値判断を導こうとする構造をもっている。
①リンは長男なのだから、しっかりしなくてはならない
②マルは女の子なのだから、おしとやかにすべきである
③動物は人間とは種が異なるのだから、動物を差別扱いしてよい
④動物を使った儀式は昔からの伝統なのだから、続けるべきである
⑤動物も動物を食べるのだから、我々人間も動物を食べてよい
これらの推論は、総じて「~である」という事実に関する判断を前提として、「~すべき」「~よい」という価値に関する判断(より厳密に言えば倫理的な価値判断)を結論に導いている。
例えば①は
推論H
前提 リンは長男である(事実判断)
結論 リンはしっかりすべきである(価値判断)
例えば⑤は
推論I
前提 動物は人間とは種が異なる(事実判断)
結論 動物を差別扱いしてよい(価値判断)
という具合に前提と結論に組み立てることができるだろう。
倫理学の基本的な考え方の一つに、「~である」という事実判断から、「~べきである」という価値判断を導くことはできない、というものがある。「『である』から『べき』を導くことはできない」としてスローガン的に唱えられ、哲学者デヴィッド・ヒュームにちなんで「ヒュームの法則」と呼ばれる。ただしヒューム自身がそこまで明確な形でこのように唱えたわけでもないし、本当に事実判断から価値判断を導くことができないかどうかは議論の余地がある*1。
とは言え、前提が結論の主題について何も言及していなければ、その推論はどこかおかしいと疑うのは理に適っているだろう。結論は前提によって立証されなければならないはずだからである。したがって、事実のみについて言及している前提から、結論に突如「~べきである」「~してよい」という述語が登場したならば、これを「演繹的に妥当ではない推論」と見なすのは問題ない*2。このような「演繹的に妥当ではない推論」の特徴は、第一に、「結論における情報量が増えている」こと(演繹的に妥当な推論は「結論における情報量が増えない」はずであった)であり、第二に、前提は正しいが結論は正しくない、という事態を想像できることである。
第二の論点について考察しよう。
推論J
前提 今ならこの患者を治療できる(事実判断)
結論 この患者を治療するべきである(価値判断)
この推論Jでは、結論が正しくないという事態を想像できよう。ある患者を「治療できる」という事実だけから「治療すべきだ」と直ちに判断を下せるとは限らない。例えば患者は宗教信仰に基づき、輸血を拒否すべきだと判断するかもしれない。推論Jを妥当と考える者は、「治療できる」という事実判断に加えて、「治療可能な患者は治療しなければならない」という別個の価値判断を暗に前提にしているのである。「ある事実判断のみから一定の価値判断が導かれることはない」と唱えることはおそらく正しい。
推論Hを妥当と考える者は、「長男はしっかりすべきである」という別個の価値判断を暗に前提にしており、推論Iを妥当と考える者は「人間とは種が異なる対象を差別扱いしてよい」という別個の価値判断を暗黙のうちに前提にしているのである。
「である」と「べき」の断絶 その3 につづく