ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

「である」と「べき」の断絶 その1

ゆび子さんの労力によって、先日『講座 あにまるえしっくす』第4回「人間はそんなに特別なのか?」とコラム2「#トランス女性は女性です」を公開することができました。そしてコラム2では、「事実判断から価値判断を導く」という議論の問題について第5回で扱うと予告しました。ヒュームの法則に言及し、「事実判断のみから価値判断を導くことはできない」、あるいは「それは演繹的に妥当な推論ではない」ということを論じるつもりです。アイデアを整理するために、ここにまとめておきます。

 

演繹的に妥当な推論とは、「前提が正しければ結論も常に正しくなければならないような推論」のことである。

 

推論A

前提1 この村の住人はすべて猫を飼っている

前提2 鈴木氏はこの村の住人である

結論 鈴木氏は猫を飼っている

 

推論B

前提1 猫はすべて哺乳類である

前提2 ミケは猫である

結論 ミケは哺乳類である

 

推論Aも推論Bも、それぞれ3つの命題の中で言葉の意味が同一である限り*1、これらはともに演繹的に妥当な推論である。演繹的に妥当な推論は、前提が正しければ結論も常に正しくなければならない。前提1と前提2が正しいのに結論が誤っている、という事態は、どんなに想像力を膨らましても想像できない。それに対して、演繹的に妥当でない推論は、前提がどれも正しくても、結論が誤っているという事態を容易に想像できる。以下の推論Cと推論Dは演繹的に妥当ではない推論である。

 

推論C

前提1 この村の住人はすべて猫を飼っている

前提2 鈴木氏は猫を飼っている

結論 鈴木氏はこの村の住人である

 

推論D

前提1 猫はすべて哺乳類である

前提2 ミケは哺乳類である

結論 ミケは猫である

 

推論Cの誤りは明らかであろう。鈴木氏がこの村の住人であるとは限らない。猫を飼っている隣村の住人かもしれない。推論Dもまた、ミケが猫であるとは限らない。ミケは犬かもしれない。なお、演繹的に妥当とは、推論の構造の正しさを保障するものであって、それぞれの前提の正しさには関与しない。前提がいかに突拍子のないものあっても、推論自体は演繹的に妥当だということがあり得る。

 

推論E

前提1 猫はすべて8本足である

前提2 8本足のものはすべて空を飛ぶ

結論 猫は空を飛ぶ

 

推論Eは前提1も前提2も現実の世界と照らし合わせれば明らかにおかしい内容だが、推論の構造のみについて注目すれば、演繹的に妥当である。また、推論の中には、構造ゆえにではなく、前提と結論に使われている言葉の意味ゆえに妥当であるものもある。

 

推論F

前提 太郎は次郎の兄である

結論 次郎は太郎の弟である

 

推論G

前提 鈴木は独身者である

結論 鈴木は結婚していない

  

推論Fは「兄」「弟」という言葉の意味によって(すなわち「兄がいる男性は、必然的に弟である」という事実によって)妥当であらざるを得ない。推論Gは、「独身者」という言葉の意味によって(すなわち「独身者とは結婚していない者のことである」という言葉の定義によって)、妥当であらざるを得ない。推論Fや推論Gもまた、演繹的に妥当な推論に含めてよいであろう(よいのかな?)。

 

演繹的に妥当な推論において、前提は正しいが結論は正しくない、という事態を想像できないのは、結論における情報が、既に前提の中に含まれているからである。結論で伝えられていることは、前提を述べた時点で既に暗黙のうちに伝えられている。つまり、演繹的に妥当な推論は、結論で何も新しいことを言っていないのである。「結論における情報量が増えない」ことが演繹的に妥当な推論の特徴であり、また結論における情報量が増えたならば、それは演繹的に妥当な推論ではない*2

 

「である」と「べき」の断絶 その2 に続く

*1:「言葉の意味が同一である限り」とはどういうことか。例えば推論Aにおいては前提1と結論で、「猫」や「飼っている」の意味が同一でなくてはならない(前提1では「猫」はFelis silvestris catusを指すが、結論では「猫」はCanis lupus familiarisを指す、ということがあってはならない)。「この村」の意味が前提1と前提2で同一でなくてはならない。前提2と結論で「鈴木氏」が同一人物を指すのでなくてはならない。

*2:伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』名古屋大学出版会では「論理的推論の最低限のルールとして、推論の前提にない名前や述語が結論に登場するのはNGである」とある。そうすると、結論で「弟」という単語が登場する推論Fや、結論で「結婚していない」という述語が登場する推論GはNGということになりそうだが、これは「兄」という単語や「独身者」の定義の中に既に含まれている意味が結論で繰り返されているだけ、と見てよいと思われる。