ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

道徳、一貫性、矛盾について

「正直になりなさい」「人に親切にしなさい」「約束を守りなさい」――こうした道徳的な命令をされると、私たちは「あなたがそれを言うのか?」「この人にそれを言う資格があるのか?」と反発することがある。自身も嘘つきなのに、他人に対して「正直になりなさい」と言う人。自身も約束を破っているにもかかわらず、「約束を守りなさい」と説く人。汚職に手を染めた過去がありながら、政敵の汚職を批判する政治家。

 

私たちは道徳に関する要請をする人の道徳的資格に敏感であり、その人が潔白でなければ要請する資格はないと感じてしまいがちである。あるいは、自分自身の道徳的資格に敏感な人もいるだろう。他人のいかがわしい行為を見て、それを批判しようとした矢先に、自分も過去に同様のことをしたことを思い出し、批判するのを思いとどまった人もいるのではないか。

 

しかしよく考えてみれば、ある発言の正しさは、発言者の振る舞いに関係がない。「1+1=2である」と言ったのが最低の人間だったとしても、1+1=2という真理は揺るがない。「罪のない人を殺すのは許されないことだ」という発言が脱獄した快楽殺人者のものだったとしても、その発言内容が正しくなくなるわけではない。

 

これから空き巣に行こうと思っている人でも、空き巣をしようとしている同業者を見て「やめなさい」と咎めるのは正しい。ひったくりの常習犯でも、ひったくりの現行犯を捕まえて「あなたはとても不正なことをした」と叱責するのは正しい。この人もひったくりなのだから他人を叱責する資格などない、と私たちは思いたくなるが、それは感情論でしかない。問題はただその叱責が相手の心に響くかどうかという実際的な話である。

 

けれども、一点だけ強調しておきたい。道徳に関わる発言は、その発言者に特定の義務を課す。ある場面で、Aさんが「あなたはXすべきである(すべきでない)」と述べたなら、Aさんは、その後のあらゆる同様の場面で同様にXする(しない)という義務を自身に課したのである。これが一貫性の要求である。

 

「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人を注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課した。「人の陰口を言ったらダメだよ」と言った彼女は、自身に「人の陰口を言ってはならない」という義務を課した。「高齢者に席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意しておきながら、自身は立っている高齢者を前に寝たふりをしていたら、一貫性の欠如、態度の矛盾の謗りを免れないだろう。

 

「自身が同様のことをしているくせに、他者を批判するのか」という批判は前後を逆にすべきで、「他者を批判しているくせに、自身も同様のことをするのか」と問わねばならない。路上喫煙者が路上で喫煙している者を注意したならばその矛盾を笑われるかもしれないが、ここで重要なことは、「自身も路上で喫煙しているのに路上喫煙者を注意する」という行為がいけないのではなくて、「路上喫煙者を注意しているのに自身も路上で喫煙する」という行為がいけないという点である。

 

したがって、この路上喫煙者に対して私たちが言うべきセリフは、「あなたに他人を注意する資格はない」ではなく、「他人を注意するからにはあなたもやめなさい」である。同じことをしているあなたに人を非難する資格などないと反発し、言葉を封じようとするならば、whataboutismの誤謬*1を犯すことになってしまう。

 

■一昨日の記事への追記その2

一昨日の猫のヴィーガン食の記事について。

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう。

一昨日の記事で私はこう書いたが、正確にはジレンマではなく、トリレンマであった。すなわち、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を理由に猫にヴィーガン食を与えることを非難する者は*2、第一に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理のすべてを批判し、それへの支持・加担を拒否するか。第二に、非難を撤回するか。そして第三に、自身の一貫性のなさ、態度の矛盾を認めて開き直るか。この三者択一を迫られている。

 

だが、第二の選択肢をとる必要はないと私は思う。「猫を植物由来のフードで飼養するべきではない」という主張には現時点ではそれなりに根拠があり、撤回すべき非難というわけではない*3。発言者が一貫性や誠実さを大切にするならば、非難を撤回するのではなく、第一の選択肢をとるべきであろう。つまり、猫にヴィーガン食を与えて飼養するヴィーガンを批判しつつ、自身もそうした飼養管理への加担をやめればよい。批判者が肉食者ではなくヴィーガンであるなら、一貫性の欠如、態度の矛盾を指摘されることもないだろう*4

 

最後に。このトリレンマの存在自体を否定する議論も可能ではある。それは、「そもそもそれとこれとは別の事例である」ということを示す議論である。「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課したわけだが、同様ではない場面では、席を譲らないという選択が正当化される可能性も十分にある。例えば、立ち上がれないほど体調が悪かったなら、譲らずに座り続けることも許容されるかもしれない。

 

「同様の事例においては同様の判断を下さなければ、矛盾を犯したことになる」という点に異議を唱える人は滅多にいないが、「それとこれとは同様ではない」と異議を唱える人は多い。猫の食性に憂慮していながら牛や豚の食性に無関心であることを非難された者は、「ペットである猫と食用の家畜である豚や牛は別なのだ」と反発したくなるだろう*5。と言うより、この問題は結局のところここに帰着するのだろう。ペットとされる動物と家畜とされる動物とでは、道徳的に重要な違いがあるのだろうか*6。それとも、彼らに道徳的に重要な違いはなく、同様に扱うべきなのだろうか。この点についてはまた日を改めて議論するが、気になる人はとりあえずtreat like cases alikeの原則を読んでみてもらいたい。

*1:そっちこそどうなんだ主義。wikipediaで調べて下さい。

*2:これに関して、猫へのヴィーガン食を非難する理由はそこではない、という反論が見られた。脚注5を参照。

*3:というより、もしここで「非難を撤回せよ」と迫るならば、それこそwhataboutismの誤謬を犯すことになるだろう。「家畜の悲惨な飼養管理に加担している以上、猫の飼養管理に口を出すな!あなたにそんなことを言う資格はない!」という暴論になってしまう。しかし、それは私の趣旨とはかけ離れている。

*4:実際に、猫に植物由来のフードを与えるヴィーガンを批判するヴィーガンはいる。私は、このような人は一貫していると思う。

*5:その他、一昨日の記事に対して向けられた批判は

・「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と言う人は、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」からそのように非難しているのではない。「自分の子供にまともな食事をさせないこと」や「人間の行動原理である道徳を動物にまで押し付けていること」を非難しているのだ。

・猫にヴィーガン食を与えることを問題視する人は、「動物虐待を批判するヴィーガンが、猫にヴィーガン食を与えるのはどうなのか」と言っているのだ。私たち自身の行為は今問題にしていない。

など…

*6:厳密には、ペットと家畜という区分は正確ではない。「人の飼育管理下に置かれる動物」が家畜の本来の定義なので、私たちがペットと呼ぶ犬や猫も本当は家畜に含まれる。