ピラビタール

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カントの間接義務論

私はカント倫理学に強い魅力を感じている。難解なカント倫理学のごく一部しか理解していないものの、倫理学の学説の中ではカント倫理学(カント主義)がしっくりくる。

 

カント主義を支持するからと言って、イマニュエル・カントという哲学者の思想や言説をそのまま受け入れることにはならない。カントも一人の有限な存在者として、当時の不合理な慣習や宗教の影響から自由ではなかった。同性愛に対する嫌悪を明確にしていたし、マスターベーションを非難する論調は噴飯ものである。特に、絶対に受け入れられないのは以下に説明するカントの動物観(間接義務論)だ。

 

しかし、慣習の影響を受け入れたカントの限界を笑うのは虚しい。思うに、カント倫理学に学ぶべきはそれが命じる実質的な内容というよりも、その形式である。カントの確立した倫理学の独創的な思考形式にこそ、燦然たる輝きを見出すことができる。

 

■カントの間接義務論

カントは動物虐待に反対した。それは動物に道徳的地位を認めていたからではなく、道徳的地位を有する存在であるところの「人間」に対する有害な影響を危惧してのことであった。動物を虐待する者は人間の扱いにおいても過酷になる。逆に、もの言わぬ動物に対するやさしい感情は人類への情け深い感情を育てる。そうしたわけで、人間は動物に対してもやさしく接するべきだという。

 

このことは、我々は人間に対して直接的な義務を負っているが、動物に対しては直接的な義務を負っていないということを意味する。我々に課せられるのは、「動物に対する義務」ではなく、「動物に関する義務」である。動物倫理の文脈では、カントのこのような思想的立場を「間接義務論」と呼ぶ。

 

ではなぜカントは動物に対する直接的な義務を頑なに認めなかったのか。これは、カントが強調した人間に対する直接的な義務と表裏一体の関係にある。カントが定式化した普遍的道徳法則の一つを見てみよう。

 

「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない。」*1

 

カントは、理性的で自律的な存在を、他のあらゆる存在から区別して、「人格」という道徳的カテゴリーに分類する。人間性とは、人格に共通する性質、有限な理性的存在者としてのあるべき姿を指す。カントによれば人間性の価値は無比のものである。そうであるから、これを尊敬し、尊厳を認め、常に目的として扱わねばならないのである。人間性は、「目的自体」(end in itself)として存在する*2

 

カントは、人間性「単なる手段として」使うことを禁じた。「単なる」に注意されたい。誰かを手段とすることは、必ずしも禁じられない。例えば、私がタクシーを停め、運転手に目的地を告げて移動してもらったならば、私はタクシーの運転手を手段として利用したことになる。だがこれはカントの禁じるところではない。タクシーの運転手は自分の意志でその職に就き、私を乗せるかどうかを自由に選択できる。私は確かに運転手を手段として利用したが、運転手は自身の目的を私の目的に合致させることを選択したのであるから、「単なる手段として」利用したのではない。

 

それに対して、私が友人に暴力を振るったり、脅したり、欺いたりして、車を運転させ、送迎させたのであれば、私は友人を「単なる手段として」利用したことになる。このとき私は友人の人間性に尊厳を認めておらず、「目的自体」としての彼女を踏みにじっている。

 

カントは言う。動物は理性と自律性に欠ける。そのような存在に尊厳は認められない。動物は目的に対する手段としてのみ存在し、その目的とは「人間」である、と。したがって、「虐待してはならない」という命令に従ってさえいれば、我々は動物をどのように扱ってもよい。そこにラディカルな主張はまったくなく、虐待さえ控えれば、我々の動物の扱い方は現状から大きく改革する必要はないのである。

 

■限界事例による反論

カントの立場に対する反論として代表的なものは、限界事例からの議論である。*3カントがなぜ人間性にそれほどの尊厳を認めたのかを思い起こしたい。それは、人間性が理性的で自律的な存在としての人格の体現だからである。人間は動物と異なり、理性的存在者として無二である。それゆえ、他の動物やあらゆる自然物には与えられない至上の道徳的価値が人間に認められる。こうして、人間は「目的自体」として存在する。

 

とはいえ、もちろんすべての人間が理性的で自律的なわけではない。精神遅滞精神障害をもつ者はそうした能力を欠く。そうであるならば、そうした人々は「目的自体」ではないのだろうか。もし彼らもまた「目的自体」であると言うのならば、道徳的価値の根拠は理性と自律性を有することではなくなる。他方で、そうした人々は「目的自体」ではないと言うならば、我々は彼らを他の動物に対してと同様、人間の単なる手段として利用してよいということになる。後者の結論は道徳的に大変グロテスクなものであり、おそらくはカントも避けようとしたであろう。

 

しかし、もしカントがこの結論を強引にでも避けようとするならば、理性も自律性も備えていない個人が、それにもかかわらず「目的自体」として存在するという見解を受け入れなければならないだろう。この見解を受け入れた時、「人間以外の動物は理性と自律性に欠けているため、人間という目的に対する単なる手段としてのみ存在する」というカントの立論は崩されることになる。

 

■動物権利論

動物に対する直接的義務をいち早く説いたのは、ベンサムからシンガーに至る功利主義の思想家たちであった。彼らは動物に人間と平等な道徳的地位を認め、人間の利益とは独立に、動物の利益を考慮すべきことを主張していた。この点で、動物権利論はカント主義と対立し、功利主義と見解を共有する。動物は人間と同等の道徳的地位を有し、それゆえに人間は動物に直接的な道徳的義務を負う、というのが動物権利論の基本的な見解である。

 

だが、動物権利論は本質的にカント主義的な流れを汲む。功利主義によれば、正しい行為は帰結によって決まる。功利主義者による義務とは、帰結の価値によって定められるのである。それに対してカントの倫理学では、正しい行為・道徳的に善い行為は、帰結とは独立に決まる。人間性に尊厳を認め、これを「目的自体」として尊敬し、適切に扱うことを要求する。そしてその正しさ・道徳的善さは帰結の価値に些かも依存しないのである。この点において動物の権利論は功利主義の見解に反対し、明確にカント主義を受け継ぐ。

 

すなわち、動物権利論は、カント倫理学における「目的自体」を人間以外の個々の動物に拡張することを要求する。個々の動物たちに尊厳を認め、人類のいかなる福祉のためであろうとも「単なる手段として」利用することを禁じ、「目的自体」として適切に扱うこと。これがシンガーの動物解放論とは鋭く対立する動物権利論の立場である。トム・レーガンに遡る動物権利論は、カント主義的な精神に基づいたものであり、言わば修正カント主義としてその立場を固めていくのである。

*1:カント、篠田英雄訳『道徳形而上学言論』岩波文庫

*2:「目的自体」なる語は、「内在的価値」と互換可能だろうと思われる。

*3:「限界事例」については、2018年8月23日の記事「人間と動物の道徳的地位」を参考にされたい。