ピラビタール

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「動物の権利」の混乱と整理

昨日の記事で「道徳的地位」なるものが意味するところを整理した。

動物の道徳的地位についての整理 - ピラビタール

続いて、「動物の権利」という語の意味するところについて、整理する。ある者は動物の権利を動物福祉と同様の意味で捉え、またある者は基本的人権と同様の不可侵の権利と考える。このように同じ言葉を論者によって異なる意味で使っていては混乱を呼ぶばかりである。というわけで今回の記事でその意味を整理しておきたい。動物に権利があると言うとき、その人は何を主張しているのか。昨日の記事と同様、デヴィッド・ドゥグラツィアの『動物の権利』を参考にする。ドゥグラツィアは動物の権利の意味を3種類に分けて解説する。

 

①道徳的地位の意味
②平等な配慮の意味
③功利性を乗り越える意味

 

「動物の権利」という語で意味するものを、弱いものから強いものへ順に並べると、上のようになる。「道徳的地位の意味」における権利はもっとも弱い権利概念であり、「功利性を乗り越える意味」における権利は強い権利概念である。今回はこれに第四の権利の意味「④市民権の意味」を加え、解説を試みる。

 

 ①道徳的地位の意味

第一の「道徳的地位の意味」としての権利とは何か。これは権利という用語のもっともルーズな使用法と言ってよい。ある者は、動物が単に道徳的地位をもっているという意味で「動物の権利」という語を使用する。昨日の記事で述べたように、畜産農家動物実験従事者も、動物に道徳的地位があることを(少なくとも表面上は)認めている。産業動物や実験動物は、たとえ人間に対するよりも少ない倫理的配慮にしか値しないとは言え、それでも一応は倫理的配慮に値する存在として、5つの自由や3Rといった福祉を適用される。したがって、このルーズな使用法では、「動物の権利」を提唱することはまったくラディカルでないし、動物福祉論者でさえ、「動物の権利」を支持しているということになってしまう。

 

通常、本来のアニマルライツ論者はこのような意味で「動物の権利」という語を使用することはない。しかし古い本を開くと、このような意味で「動物の権利」という語が使用されていることがある。

食肉用に育てられる鶏・豚・牛は、自然環境から切り離され、工場のような狭い空間に詰め込まれ、自由を奪われ、薬品が混ざった合成飼料を食べさせられている。これは、動物にとっては、快適な生活とはいえない。仮に、人間がこれらの動物よりも高次の価値の高い生活をしており、そのために動物の命が犠牲になってもやむをえないにしても、もっと自然に近い状態で育てられるべきではないか、その程度の権利は動物に認めるべきである、と「動物の権利」を主張する学者はいう。

 

泉谷周三郎、大久保正健『地球環境と倫理学〔改訂版〕』木鐸社

明らかに、「もっと自然に近い状態で育てられるべきではないか」と訴えるのは、通常の意味で「動物の権利」を主張する学者ではない。当時は(特に日本では)まだ概念の混乱があったのかもしれない(本書刊行は1993年、改訂版は1998年)。また認定NPO法人アニマルライツセンターにも、以下のような質問が届いており、興味深い。

 

なぜ動物解放(アニマルライツ)をかかげながら、動物福祉運動をするのですか?

 

②平等の配慮の意味

第二の「平等の配慮の意味」における権利概念はより厳格である。ある対象がこの意味の権利をもっていると主張することは、対象が平等な配慮に値するということを訴えている。イヌが人間と平等な配慮に値するとは、苦痛を与えられないというイヌの利益が、苦痛を与えられないという人間の利益と同じくらい道徳的に重要だということだ。動物を医学実験に利用してはならないという倫理的要請は、人間を医学実験に利用してはならないという倫理的要請とまったく同等の重みをもつ。であるから、動物福祉に配慮された動物実験を肯定する者は、「動物は道徳的地位をもつものの、平等な配慮には値しない」と考えている。つまり、「道徳的地位の意味」では権利をもっているが、より厳格な「平等な配慮の意味」においては権利をもっていないと考えている、ということになろう。

 

③功利性を乗り越える意味

第三の「功利性を乗り越える意味」としての権利は、もっとも厳格な意味での権利であり、いわば「不可侵の権利」を意味する。この権利は、個体の核心的な利益の絶対的な保護を要求する。特別な状況では、ある者の権利を侵害することによって、社会の功利性(公益、善の総和)が最大化されるということが、あり得るだろう。不可侵の権利の考え方に基づけば、たとえある者の権利を侵害することが社会の善の総和に貢献するとしても、侵害してはならない。ある者をより大きな善のために利用することができるような状況でも、無関係に保護されなければならない権利が、「功利性を乗り越える権利」なのである。

 

たとえばピーター・シンガーは人間と動物に対して平等に配慮すべきことを訴えるが、功利性を乗り越えるような権利の不可侵性までは支持していない。

人間を拷問にかけることはほとんどつねにまちがっている。しかし、絶対的にまちがっているわけではない。もし、ニューヨーク市の地下に隠された一時間以内に爆発する時限核爆弾のありかを知るために、拷問が唯一の手だてであるという極限状況を想定してみるならば、拷問は正当化されるであろう。同様に、ひとつの実験によって白血病のような重要な病気を根絶するための手がかりが得られる場合には、その実験は正当化しうるだろう。
……
もし本当にひとりだけの人命を犠牲にすることによって多くの人命を救うことができて、他のやり方では多くの人命を救うことができないような場合があるならば、実験を行うことは正しいであろう。しかしこれは極端にまれなケースであろう。このカテゴリーに入るのは、現在動物に対して行われている実験の1%の10分の1以下であろう。……


ピーター・シンガー『動物の解放』

したがって、シンガーが権利を支持しているとしたら、それは「平等の配慮の意味」における権利である。注意すべき点は、シンガーはここで人と動物との間に扱いの差を設けていないという点だ。利益は人であろうと動物であろうと平等に配慮される。そして(しかし)、「功利性を乗り越える意味」での不可侵の権利については、動物であろうとも人間であろうともこれを否定するのである(つまり、功利性のためとあらば、権利は平等に無視される)。

 

確かに、人間でさえ、この第三の意味における権利を持っているかどうかは議論の余地がある。例えばある者が高い致死率と強い感染力をもつ感染症に罹患したとき、国家が当該感染症の患者を医療機関に強制的に入院させ、その自由を制限することは、正当化され得るかもしれない。

 

④市民権

最後に、動物の権利の第四の意味、「市民権」についてごく簡単に紹介する。これは政治哲学者ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンが『人と動物の政治共同体』(原題は Zoopolis)で論じた、政治学領域から輸入された権利概念である。

 

第二、第三の意味での権利が主張するのは、もっぱら動物の「消極的権利」である。消極的権利は、「~されない権利」として定式化される、他者に不作為を要請する権利である。これは自己の生存と安全に対する保護の要求であり、具体的には虐待されない権利、監禁されない権利、食用にされない権利を含む。他には、医学研究や教育に使われない権利、妊娠と出産を強制されない権利なども含むだろう。一般的な意味での動物の権利論は、動物にこれらの消極的権利を承認することを求め、我々が動物の搾取から手を引くことを要請するものである。

 

キムリッカとドナルドソンは、これらの権利を不可侵のものとして動物に承認すべきことを支持した上で、それでもなお、これだけでは正義に基づいた人間と動物の相互関係のモデルとしては不十分であると異議を唱えた。キムリッカは「~してもらえる権利」として定式化される「積極的権利」を動物に認めるべきことを主張し、特に家畜動物のそれをシティズンシップ(市民権)と呼んだ*1

 

動物の積極的権利たる市民権は、自由な移動への権利、政治的意思決定に動物に固有の善や関心事を反映させる権利、医療ケアや福祉のための資源を平等に利用する権利などを含む。であるから、我々にはそれに対応した積極的な義務が課せられることになるであろう*2それは、人間に依存することになった動物たちの世話をする義務、動物のニーズを考慮にいれて建物や道路や近隣環境を設計する義務、傷つけられた動物を救護する義務などを含むだろう。

 

キムリッカの提起する「動物の市民権」は動物倫理の最新の理論であり、応用倫理学政治学領域とを架橋するものである。動物の市民権という考え方は荒唐無稽に思われるかもしれない。それどころか、日本では動物の(消極的)権利も荒唐無稽な妄言だとして退ける人が多い状況であり、動物福祉の考え方すらも十分に浸透していない。だから、これが動物の権利にふさわしい見解として受容されるには気の遠くなる年月を要するだろう。だがこれを「功利性を乗り越える意味」としての動物の権利よりさらに強い、動物権利論のさらなる展望として紹介しておくことは、意義のあることだと信じる。

 

地球環境と倫理学

地球環境と倫理学

 

  

動物の解放 改訂版

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人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

*1:キムリッカは動物を家畜動物と野生動物、その中間的存在である境界動物とに分類し、それぞれに応じた積極的権利を論じている。正確に言えば「市民権」は家畜動物に付与されるべき積極的権利であり、野生動物と境界動物にはまた別の積極的権利が付与されるべきだとする。キムリッカの議論の全体像の解説はまたいつか別の日に。

*2:消極的権利が他者に不作為を要請する権利であるのに対し、積極的権利は他者に何らかの作為を要請する権利である。虐待されない権利は消極的権利であり、食糧や居住の援助を受ける権利は積極的権利である。