ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

人間と動物の道徳的地位

 4月11日の記事で「種差別」という概念について説明を試みた。今回と次回では、種差別を正当化する議論に対する反駁を試みる。

 

 「利益をもつ者に平等に配慮すべきこと」が道徳のひとつの要請である。これが「公正」である。他者の利益を不当に奪ったり、不利益を与えたりすることは、道徳的に許し難い行為だ。特に、相手の属性を理由にそうした不利益を与えることは、「差別」の一形態である。(差別の問題は根深く、これが差別のすべてだというわけではないが、差別のひとつの形である。)

 相手の人種を理由に不利益を与えた場合、それは人種差別と呼ばれる。相手の性別を理由に不利益を与えたなら、それは性差別である。そして相手の属する動物種を理由に不利益を与えたなら、「種差別」だというわけだ。

 しかしながら、理解はできるが納得はし難いという人が多いだろう。人種差別や性差別や人間同士の問題である。動物は我々とは「種」が違う。人間はやはり特別扱いされるのが当然なのではないか。相手が動物である以上、人間より軽視されてしまうのは仕方ないのではないか。

 

 「倫理的な配慮に値する地位」のことを「道徳的地位」と呼ぶ。上記のような疑問を抱く人々の考え方を言葉にすると、「人間は道徳的地位をもつ。動物は道徳的地位をもたないか、もっていたとしても人間より低い程度の道徳的地位しかもたない」ということになる。今回と次回で、この考え方が正当なものかどうか、検討してみたい。

 まず今回の記事では、人間の特権的な道徳的地位の根拠を、人間だけがもち、動物がもっていない「特徴」「能力」に求める議論を批判する。では、人間だけがもつ特徴や能力とは何だろうか。

 人間は、言葉によって他者とコミュニケーションがとれる。人間は、道具を使うことができる。人間は、他人と協力をする。人間は、楽しみのためにセックスをする。人間は、何かを達成するために努力したり、反省したりすることができる。……

 

 このように人間にオリジナルな能力を探して、人間の特別な道徳的地位を示そうとする議論には、問題点が3つある第一に、どのような能力を選んでも、多くの場合その能力を持っている動物がいるということ。第二に、どのような能力を選んでも、その能力をもたない人間がいるということ。そして第三に、ある種の能力をもって人間の特別性を説明するという議論それ自体がはらむ問題である。

 

 まず、第一の問題点について。

 人間だけがもつ能力とは何だろうか。例えば、言語を用いたコミュニケーションはどうだろうか。1940年代にチンパンジーに音声言語を教える試みがなされたが、うまくいかなかった。これはチンパンジーの喉の構造が人間と異なって、音声言語を物理的に発することができなかったからである*1

 しかし、手話を用いたコミュニケーションならば、ヒトとチンパンジーの間に双方向的なコミュニケーションが成立する。ゴリラやオランウータンでも、数百の手話サインを理解できることが報告されている*2

 アメリカの心理学者アイリーン・ペパーバーグが30年に渡って飼育・訓練した、ヨウムのアレックスも有名だ。アレックスは物の名前を覚えただけでなく、「同じ」や「違う」といった概念を収得し、比較したり、色や形や材質を判断することができた。アレックスは緑色のプラスティック製の鍵と金属製の鍵を見せられ、「何が違う?」と聞かれたら「色」と答え、「どちらの色が大きい?」と聞かれたら「緑色」と答えることができた。

 では道具を使うという能力はどうか。長い間、人間だけが道具を作って使用する唯一の生物だと考えられていた。それを最初に否定したのは霊長類学者ジェーン・グドールである。1960年代半ばにグドールはタンザニアのゴンベ国立公園、チンパンジーが小枝から葉を取り除いてシロアリの塚に差し込み、シロアリ釣りをしているのを発見した。小枝を無造作に折り、単にアリ塚に差し込むだけではうまくいかない。チンパンジーは、慎重に適切な材料を探して、枝や葉を取り去って、道具を加工までしていた。

 他にも、道具を使用する動物の例は多数報告されている。オーストラリアのバンドウイルカはカイメンを使って採餌行動をすることが知られている。カイメンをくわえて吻部を保護して、砂地の中を探索して小魚を追い出し、これを食べる。ニューカレドニアに生息するカラスは、木の枝や葉から道具を作って採餌する。小枝をかぎ針のように細工して、それを使って穴の奥に潜む昆虫を捕らえることが知られている。*3

 「秩序ある社会を形成するのが人間だ」と主張する者もいるかもしれない。しかし、秩序ある集団を形成する動物もまた存在する。オオカミはアルファと呼ばれるリーダーの下に順位制を伴った群れをつくる。ハダカデバネズミも有名だろう。ハダカデバネズミは、繁殖を行う1頭の雌の下に、分業化された実に見事な社会秩序を形成している。

 このように、人間の特別な道徳的地位を示すために人間に特有の能力や特徴を示そうとしても、多くの場合、それが動物にも共有されていることが明らかになっている。以上が、この議論の第一の問題点である。

 

 次に、第二の問題点について。

 何らかの能力をもつことを根拠に、人間が特別な存在であると示そうとすると、「ではその能力をもたない人間はどうなるのか」という問題が生じる。全人類に共通と思われるどのような能力を探しても、どうしてもその能力をもたない者がいる。例えば言語でコミュニケーションを行うことを人間の特徴だとしても、乳幼児や重度の知的障がい者失語症の患者などはその能力が欠けていよう。

 「文字を書くこと」というように、確かに今のところ人間以外の動物には見られない能力をあげることもできる。だがそのように能力の水準をあげてしまうと、なおさらその能力をもたない――「人間」の条件からこぼれ落ちてしまう――人々の数は多くなってしまうだろう。*4

 実際、知性にしても記憶力にしても我慢強さにしても、ある種の動物(例えばイヌ、イルカ、チンパンジーなど)と同程度か、それより低い能力しかもたない人々が常にいる。乳幼児や知的障がい者認知症患者など、こうした人々のケースを「限界事例」と呼ぶ。

 種差別主義者が「人間は××の能力をもつ、それゆえに特別に配慮されるべき存在なのだ」と言うと、動物倫理を学んだ人には必ず「ならば××の能力をもたない限界事例の人々は配慮されなくてよいのか?」と切り返される。もし限界事例の人々も同じように配慮されなければならないと考えるのであれば、「××の能力をもつから」という根拠は撤回しなければならない。

 この「限界事例論」という論法は大変強力で、それまで動物への配慮に否定的だった哲学者が、これに対抗できないことを悟り、動物への配慮の肯定派に立場を転向したくらいである。

 

 最後に、第三の問題点について。

 これがもっとも本質的な問題である。そもそも、ある種の能力や特徴をもって、人間の特別性を説明するというのは、正当な議論なのだろうか。なぜ、ある能力をもつことが、その所有者を、その能力をもっていない人よりも倫理的な配慮に値するものにするのだろうか。

 例えば、カズキは数学が苦手だが、友人のマリナは数学をとても得意とする。ところで、高い数学の能力を備えているということによって、マリナはカズキよりもより大きな倫理的配慮を受けるに値すると言えるのだろうか。そしてカズキは数学が苦手だという理由によって、マリナよりも少ない倫理的配慮しか受けるに値しないと言えるのだろうか。

 もちろん、マリナが数学の試験で高得点をとって褒められることもあるかもしれないし、数学の能力を活かせる会社に就職すれば、その能力のおかげでより大きな報酬をもらえるかもしれない。しかしそれは道徳的な地位とは無関係だろう。

 『あにまるえしっくす』原作者のおにぎり氏は絵がとても上手だが、苗野は絵が下手である。では、絵が下手だという理由で、監禁され、太らせられ、やがて食べられるという運命を苗野に背負わせることは理に適っているだろうか。

 どんな能力や特徴を挙げても同様である。走るのが早い、2か国語を話せる、背が高い……リストは続くが、これらは倫理的な観点から見て、まったく重要性をもたない。そして同様に、優れた言語能力をもつことも、道具を使えることも、道徳的地位とは無関係と言えるだろう。実際に我々人類は、何らかの能力に欠けていたり劣っていたりする人々を「無用」のものと見なし、その抹殺を試みた歴史を背負っている。

 

 蛇足ながら、もう一点だけ付け加えたい。これは動物の権利を論じる著名な法律学者ゲイリー・フランシオンの指摘である。なぜ我々は言語能力や道具を使うという能力を指摘して、人間の特権性を示そうとするのだろうか。それは最初から「人間が特権的な道徳的地位をもつ」ということを前提した議論だからだ。こうした議論で、空を飛ぶとか、水中で呼吸をするといった能力の重要性を指摘する人はいない。それもそのはずで、何の道具も使わずに、空を飛んだり、水中で呼吸をしたりすることのできる人間はいないからだ。つまり、これは初めから「人間には特権的な地位がある」という結論ありきの議論なのである。しかし、言語能力が空を飛ぶ能力より、所有者により高い道徳的地位を与えるという根拠などはない。

 たとえ言語能力に優れていても劣っていても、道具を使えても使えなくても、空を飛べても飛べなくても、それらは道徳的地位の優劣には無関係である。

 

 特徴や能力から人間の特権的な道徳的地位を説明する議論に対する批判はここまでとしたい。次回は論理学と倫理学の概念を用いて、この議論の構造を分析する。

 

 

比較認知科学 (放送大学教材)

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動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

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動物倫理入門

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*1:この件について、京大野生動物研究センターのサクラギヒロコさんから、チンパンジーに真剣に音声言語を教える試みは1909年のものが最初のようである、とご指摘いただきました。ありがとうございます。

*2:2018年6月、雌のローランドゴリラのココが46歳で亡くなったニュースが話題を呼んだ。彼女に手話を教えたパターソンはココに「あなたは動物、それとも人間?」と尋ねた。これに対するココの答えは「ステキナ ドウブツ ゴリラ」だった。島泰三 『ヒト――異端のサルの1億年』 中公新書より

*3:さらに驚嘆すべきは魚の道具使用例である。進化生物学者ベルナルディは、ミクロネシアの海でダイビング中に、クサビベラが道具を使用する姿を撮影した。一匹のベラが砂地に水を吹きかけて埋もれていた二枚貝を見つけ出し、それをくわえて離れた場所にある大きな岩まで運んで、首を素早く振って岩に貝を放った。これを何回か繰り返し、貝を割って食べていた。日経サイエンス編集部 『別冊226 動物のサイエンス(別冊日経サイエンス)』日本経済新聞出版社より

*4:アイヌ民族を想起せよ。

あにまるえしっくす

twitterで知り合ったおにぎりさん作画、私原作で、漫画の連載を始めました。

タイトルは『講座 あにまるえしっくす』、動物倫理を解説する漫画です(生命倫理環境倫理にも触れる予定)。

 

第1回は「種差別って何だ?

こちらの記事を原作としています。

「種差別」という概念 - ピラビタール

第2回は「植物の命はいいの?

ベジタリアンヴィーガンに寄せられる「植物は食べてもいいのか?」という問いに答えたものです。

第3回は番外編「生物学的生と伝記的生」

9月中旬に公開予定です。

 

こちらのブログで原作に使えそうな記事を発表していく予定です。

どうぞよろしくお願いします。

もうすぐそこに夏がきています

このブログのタイトル「ピラビタール」は、私が大好きな大好きな歌手の森田童子さんの曲名から拝借しています。森田童子さんに出会ったきっかけは、月並みですが、中学の頃に放送されていたドラマ『高校教師』でした(桜井幸子さんではなく、上戸彩さんの方です)。

 

そこから彼女の歌に魅了され、全アルバムを集め、全詩集なんてのも自作しました。歌を聴けば聴くほど、ドラマ『高校教師』のイメージとはまるでかけ離れた森田童子を知ることができました。

 

 

昨夜twitterに、森田童子さんが4月24日に亡くなられていたというツイートが流れてきました。今朝のニュースにもなっており、事実のようです。

 

特に悲しいということはありません。私が知っているのは詩を歌っている童子さんだけですし、そもそも私が童子さんを知るよりずっと前に、生まれるよりも前に、童子さんは引退していました。

 

活動をやめた童子さんのその後の生活など知る由もなく、同じ世界に生きていたことすらも実感が湧かないくらいですので、「亡くなった」というニュースを見ても実感がありません。

 

でも、twitterで「森田童子」の名前を見るのがちょっと嫌でミュートワードに設定しました。私の童子さんの像を大切にしたいので。童子さんに大切な思い出を持っていたり、語りたいことがある人はたくさんいて、色々流れてきました。文句などはまったくありません。

 

ただ私は、私の思い描いている森田童子だけに触れていたい。と思うので。

 

GOOD BYE グッドバイ

GOOD BYE グッドバイ

 

 

論理的思考のレッスン

春休み中に戸田山先生の『論理学をつくる』を読破する予定でした。が、他にも読みたい本がわんさとあり、挫折しました。現在、第4章の途中で止まっております。予定を変更して、ゆっくりゆっくり、数ヶ月かけて読破する計画です。

 

今回読んだ内井惣七『論理的思考のレッスン』は『つくる』の第1~2章で学ぶ記号論理の基礎的な部分と、明晰にものごとを考えるヒントのようなものが散りばめられた薄い文庫本です。薄いとは言え、練習問題を紙とペンを使ってしっかり解きたいタイプの人には電車内で読める手軽な本ではないでしょう。特にレッスン8と9、真理表の理論を応用して横断歩道で見られる押しボタン式信号機の論理回路を書いてみようという問題があるのですが、これは少々難解でした。

 

 
著者は、正しい推論で正しい結論を導くことを「知的な誠実さ」と言います。間違った推論の結果、たまたま正しい結論にたどり着いたのでは、その推論は論理的には一文の値打ちもないのだと言います。


例えば以下の式を見てみましょう。

¬∀xF(x)→∃x¬F(x) ……①*1

 この式の妥当性を証明するために、以下のような推論を展開したとします。

 

1.①の妥当性を示すためには、それを反証する分析表が存在しないことを示せばよい。
2.そこで、①を偽にする分析表が存在すると仮定する。すなわち、この分析表で¬∀xF(x)を真、∃x¬F(x)を偽と仮定する。
3.第1の条件より、∀xF(x)は偽。
4.したがって、xがどんな値をとってもF(x)は偽である。
5.つまり、xの値にかかわらず¬F(x)は真となる。
6.したがって、当然∃x¬F(x)も真となる。
7.ところが、2の第2の条件より、これは不可能。
8.そこで、2の仮定は否定され、①は妥当である。

 

この証明は失格です。問題はステップ4の下線部です。全称命題が偽になるためにはそれを反証する値がひとつあれば十分なのですから、3から4は出てきません。著者は、これをうっかり見過ごすことこそ、知的な怠慢であると戒めます。ちなみに、意図的にそのような論法を使うなら、それは詭弁また知的な詐術と呼ばれます。

 

①の式を具体例を示して自然言語で考えてみましょう。アジアには中国人がたくさんいます。でも、もちろん中国人が全アジア人を占めるわけではありません。インド人も多いです。日本人も韓国人もベトナム人もタイ人もいます。

 

すべてのアジア人が中国人であるわけではない。
ならば、
中国人ではないアジア人がいる。

 

という推論は妥当です。①が言っているのは具体的にはそういうことです*2。「すべてのアジア人が中国人であるわけではない」という前提から「いかなるアジア人も中国人ではない」という結論は導かれないでしょう。上の証明では、3から4にかけてそのような誤りを犯しているというわけです。

「すべての人間は男である」という命題が偽であるからといって、「いかなる人間も男ではない」と結論する人はめったにいないはずである。ところが、抽象的な記号を使って推論するときには、これと同じか、それ以上に大きな誤りを犯す人が何十倍にも増えてしまう。

 

野矢茂樹『論理学』では誤った推論の例として以下のようなものを挙げています。

クジラが魚ならばクジラは卵で生まれる。
クジラは魚ではない。
それゆえクジラは卵で生まれるのではない。

これは前提も結論も正しいですよね。確かにクジラは卵では生まれません。しかし、推論は妥当ではありません。私たちに馴染み深い「前件否定の誤り」を犯しています。

 

誤魔化しをせずに誠実に考えること、明晰に一段一段考えることの大切さを本書で著者は繰り返し説きます。とは言え、そうした思考訓練をするのに本書がそこまで適しているかというと微妙な感じもします。シャーロック・ホームズを引用して「分析的推理」「総合的推理」という語を紹介するのですが、これは一般的な「分析と総合」の用法とはやや異なる気がしますし、論理的思考を教えたい本なのか記号論理学の基礎を教えたい本なのか判然とせず、全体的にどうも冗長です*3

 

推論で犯しやすい誤りを知り、正しく考える訓練をするのに適した本としては福沢一吉『論理的思考 最高の教科書』がおすすめです*4。論理学の基礎を学ぶには(論理学に入門したばかりの私が推薦しても当てになりませんが)野矢茂樹『論理学』やさらにその入門の『入門!論理学』が適切でしょうか。

*1:記号は個人的な好みから、戸田山先生の『つくる』で使われているものに統一しました。本書では①の式は

~∀xF(x)⊃∃xF(x)

と表記されています。

*2:xをアジア人、Fを「中国人である」という述語としました。

*3:当然ながら、論理的思考を鍛えるのに必ずしも論理学の本を読まなければならないわけではありません。

*4:ただし本書には致命的な誤記があります。今度ブログで指摘します。

「種差別」という概念

 動物倫理は現代倫理学の分類に従えば応用倫理学の一分野である。私達は動物とどう接すればよいのか、私達と動物のあるべき関係はどのようなものかを考察する。義務論や功利主義といった規範理論を駆使し、動物実験、肉食、ペットショップの問題、動物園や水族館、そして野生動物問題等を倫理学的課題として取り上げる。その問題意識は多方面に渡り、私たちが解かねばならない課題は多い。しかしそのどの方面においても念頭に置くべき共通の重要な概念がある。それが種差別(スピシーシズム、speciesism)である。

 

 「種差別」という言葉は1973年に心理学者のリチャード・ライダーが初めて使用し、1975年のピーター・シンガーの『動物の解放』により有名になった。シンガーは同書においてこの語を「私たちの種(人類)の成員には有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」と定義している。

 

 わかりやすく言えば、「ヒト以外の動物の利害を、ヒトの利害よりも低く見積もる考え方や態度」ということになろうか。例えば、現代の我々の社会は、医学研究や新薬開発のために被験者の意に反した人体実験を行うことを禁じている。これは当然の倫理的要請であろう。この倫理的要請を言葉にするならば、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、被験者の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を私達は拒否している、ということである。

 

 それに対して、動物実験が禁じられていないのは、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、動物の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を我々が自然に(無意識に)受け入れているからに他ならない。動物実験に限られた話ではない。食用としての動物利用、衣類としての動物利用、その根底にあるのは我々の「種差別」的態度である。味覚の快楽や、ファッションによって得られる楽しさなど、動物の苦痛に比べると些細なもののはずだが、我々は我々の種の利害を無意識に重視している。

 

 「動物を殺したり監禁したりしていいのは当たり前だ」という偏見は、「黒人がこのレストランに入れないのは当たり前だ」とか「女性に選挙権がないのは当たり前だ」といった偏見と同様の無根拠なものである。ヒトをヒトであるからという理由で優遇し、動物を動物であるからという理由で搾取の対象とする態度は、白人を白人であるからという理由で優遇し、黒人を黒人であるからという理由で搾取の対象とする人種差別と何ら変わらず、そこに合理的な根拠はない。相手の属する動物種という形式的な属性によって取り扱いを変えることは、相手の国籍や肌の色、障害の有無を理由に取り扱いを変えることに等しく、差別なのだと言わねばならない。

 

 シンガーは、他の人種の成員の利害を軽視し、自らの人種の利害を重視する人々を人種差別主義者(レイシスト)と、自らの属する性別の利益を重視する人々を性差別主義者(セクシスト)と呼ぶのになぞらえ、我々ホモ・サピエンスという種の利益を重視し、他の種の成員の利害を踏みにじる者たちのことを、種差別主義者(スピシーシスト)と呼んだ。

 

 動物倫理の研究の第一歩は「種差別」という概念を理解することにある。そしてこれを正しく理解したならば、擁護することは大変困難である。人種差別や性差別は重大な社会問題だが、「種差別」などは差別と呼ぶに値しない、差別という語の濫用であると反発したくなる者もいよう。だがそれが差別であることを構成する論理は極めて緻密で反駁は難しい。ある哲学者は種差別の議論を「勝利をおさめた議論(won argument)」と称している。そして、一旦種差別を容認し難い不正と見なしたならば、動物利用を当然とする我々の生活は抜本的に改められねばならない。こうしてシンガーは、理路整然と、肉食を放棄してベジタリアンになるべきこと、毛皮や皮革製品、動物実験によって開発された化粧品などをボイコットすべきことを主張するのである。

 

※シンガーの理論は「利益に対する平等な配慮」をキーワードとした功利主義に基づくものであり、「種差別」という概念だけで説明できるわけではない。今回はあくまで「種差別」という語の解説として理解されたい。

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版