ピラビタール

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ピーター・シンガーと動物実験

 ピーター・シンガーの動物解放論やトム・レーガンに始まる動物権利論は、動物の利益に人間の利益と同様の重みを与えるという点で、従来の動物愛護運動と一線を画する。動物愛護運動はあくまでも人間の利益を優先した上で、動物の利益にも「そこそこの」配慮をしましょうという立場であった。動物解放論や動物権利論はそのような態度を種差別と批判し、両者の利益を平等に配慮すべきと主張する。

 

 であるから、昨日の記事「動物を虐待してはならない理由」のアンケートで、ピーター・シンガーはB3の立場に該当するとした。これについて、懇意にしている友人から、「シンガーは人間のための動物実験に賛成しているので、B2の立場ではないか?」という指摘を受けた。

 

 

 これは非常に重要な指摘であり、シンガーが誤解を招きがちな論点でもある。整理しておきたい。シンガーは種差別に反対する功利主義者である。彼は、快苦の感覚をもつあらゆるものの苦しみと快を平等にカウントすべきとする。そして、行為の正不正を常に帰結から判断する。具体的には、関係者の利益を最大限に促進し、不利益を最小限にするような行為がシンガー流の功利主義の要請するところである。したがって、「もしたった一匹の動物に実験をすれば恐ろしい病気の治療法を発見し、何万人もの命を救うことができるような状況で、動物実験を行ってよいか?」という質問にシンガーは「よい」と答える*1

 

 ただし、シンガーは種差別に反対しているのだから、動物実験のみを許容するわけではない。人間であろうと動物であろうと、何かある存在の極めて小さな犠牲の上で、より大きな善を達成できるのならば、そのような実験をシンガーは支持する。以下の引用はシンガーの1975年の著作『動物の解放』からである。

人間を拷問にかけることはほとんどつねにまちがっている。しかし、絶対的にまちがっているわけではない。もし、ニューヨーク市の地下に隠された一時間以内に爆発する時限核爆弾のありかを知るために、拷問が唯一の手だてであるという極限状況を想定してみるならば、拷問は正当化されるであろう。同様に、ひとつの実験によって白血病のような重要な病気を根絶するための手がかりが得られる場合には、その実験は正当化しうるだろう。

……

もし本当にひとりだけの人命を犠牲にすることによって多くの人命を救うことができて、他のやり方では多くの人命を救うことができないような場合があるならば、実験を行うことは正しいであろう。しかしこれは極端にまれなケースであろう。このカテゴリーに入るのは、現在動物に対して行われている実験の1%の10分の1以下であろう。……

 

ピーター・シンガー『動物の解放』

 念のために強調しておきたい。シンガーは動物実験を擁護するためにこのような文章を書いたのではない。むしろその逆である。世の中で行われている実験の大部分は、引用中にあるような、莫大な命を救うために少数の命をやむなく犠牲にするようなものではない。化粧品やシャンプーや食品の着色料といった取るに足らぬ利益のために動物に莫大な苦痛を課しているのが、(少なくとも1975年当時の)動物実験の状況であった。だから、シンガーは目下行われている実験のほとんどは許容できるものではないと反対したのである。

 

 2006年に放映されたBBCのドキュメンタリー番組「サル、ネズミと私」におけるシンガーの発言に大きな反響が起こった。シンガーは番組内でパーキンソン病の治療を研究している神経外科医ティプ・アジズ氏と対談し、アジズ氏に対して「(サルを実験に利用したことについて)自身を責めるべきではない」と述べ、アジズ氏の研究は「正当化される」と評価した。これについて、動物権利運動の運動家たちはシンガーは道徳的に後退(転換)したのだろうかと訝しんだ*2

 

 しかしシンガーは後退してもいないし、方向転換をしたわけでもなく、『動物の解放』執筆時からほぼ一貫している。数千人の人間をパーキンソン病から救うという主張が仮に事実であるなら、シンガーはそのような実験は正当化されると考えるのである。もちろんここでも、人間であろうと動物であろうと、一個体一個体の利益は等しくカウントされなければならないという厳格な要求がある*3

 

 利益は人間のそれであろうと動物のそれであろうと平等に配慮しなければならない。しかし(そして)、より大きな利益のためであれば、小さな犠牲は正当化される。シンガーはこのような倫理観から、動物実験に限らず、人体実験も例外的な状況であればという条件付きで許容する。おそらくだが、「ある一人の人間を実験に犠牲にすれば、莫大な数の動物を苦しみから救うことができる場合、その人間を実験に利用してよいか?」という問いに対しても、シンガーは「よい」と答えるだろう*4。ただしその場合は、健常な人間ではなく、重大で回復不可能な脳損傷を受けた人間の使用を勧めるかもしれない(ただし被験者が脳に損傷を受けていることが実験結果に影響を及ぼさないならば)*5

 

 シンガーはしばしば「動物権利運動の父」と呼ばれる。これは運動上の呼称としてはともかく、学問上はやはり誤りである。シンガー自身も「権利」という語の使用を慎重に避け、自身の動物解放論を動物権利論と区別している。動物権利論の大家フランシオンによれば、権利とは「切り札」である。権利はそれをもつ者に対する無条件的な擁護を要請する。たとえ大多数の利益のためであろうと、自己の利益と比較の天秤に乗せることを拒否するのが本来の権利の機能である。

 

 動物の解放という目標こそ共有するものの、理念的には解放論と鋭く対立する権利基底的な理論を発展させたのが、トム・レーガンに始まる動物権利論である。権利論は動物の利用について絶対的な廃止主義に立ち、人間の福祉にとって真に有望な研究でさえ正当化できないという。一匹の実験用ラットでさえ、その利用は正当化できないと、トム・レーガンは断言する。以下はピーター・シンガーが編集した論文集『動物の権利』に収録されているレーガンの「動物の権利」からの引用。

求められているのは、たんなる動物実験の洗練や削減ではない。また、より大きな、より清潔なケージでもなく、麻酔薬をもっと物惜しみせずに使うことや、同時に多数の外科手術を行うのをやめることでもなく、システムをきちんとすることでもない。求められているのは、動物の利用を他の方法に完全におきかえることである。科学における動物の使用に関してわれわれにできる最善のことは、彼らを使用しないことである。権利論によれば、それがわれわれの義務である。

トム・レーガン「動物の権利」、ピーター・シンガー[編] 『動物の権利』

 

ピーター・シンガーの公式FAQ

petersinger.info

 

*1:もちろん、たったの一個体から得られた実験結果が何か極めて画期的な効果をもたらすということは現実には考えられないので、これは純粋に仮想的な問いである。

*2:Peter Singer defends animal experimentation

Is Peter Singer backing animal testing?

を参考にしました。

*3:ピーター・シンガーの公式FAQに'Is it true that you have said that an experiment on 100 monkeys could be justified if it helped thousands of people recover from Parkinson's disease?'という質問とそれに対する回答があります。

*4:もちろん、そのような実験が必要になる状況は到底思い浮かばず、これもまた純粋に仮想上の問いである。

*5:これは障碍者に対する差別のように思われるかもしれないが、シンガーの言う「差別」にはおそらくは当たらない。行為によって問題となる核心的な利益(不利益)とまったく無関係な要素を考慮に入れることが、差別である。例えば、大学入試の合否(大学で勉強するという利益)に関して、性別を考慮に入れることは差別である。しかし入学試験の点数を考慮に入れるのは差別ではない。生体実験の被験者に関して、肌の色を考慮に入れるのは差別である。しかし、生体実験によって受ける苦しみがより小さい方を被験者に選ぶことは、苦しみが何より問題となっている核心的な不利益である以上、差別とは言い難い。