ピラビタール

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動物を虐待してはならない理由

 動物に道徳的地位を認めるということは、動物が動物自身の資格において配慮に値するということを意味する。それは、他の何者かの利益のための派生的な考慮からではなく、動物自身の利益に独立した倫理的意義を認めるということである。簡単なアンケートを紹介したい*1

 

人間は動物を虐待してよいのでしょうか?

 

(A) 人間は動物を虐待してよい

(B) 人間は動物を虐待してはならない

 なぜなら

 (B1) 動物虐待は人間に不利益を与えるから

 (B2) 動物の利益も人間の利益ほどではないが配慮されるべきだから

 (B3) 動物の利益は人間の利益と同様に配慮されるべきだから

 

 

 このアンケートに対して、「虐待」と言われてもそれが何を指すかが明確でない以上答え難いと考える人もいるだろう。例えば畜産や動物実験が動物虐待に当たるかどうかについては、一致を見るのが難しい。そこで、ここでは虐待を「ただ楽しみのために犬を蹴ること」としよう。

 

 この問いにAを選びそうな人間は少なからずいる。2017年8月27日、埼玉県の税理士が逮捕された。この人物は猫に何度も熱湯を浴びせたりバーナーで焼いたりして、13匹を虐待して殺した。他者を傷つけることを至上の喜びとするような人は残念ながら一定数おり、私たちはそのような人間に出会わずに生活できることを祈る他ない。*2

 加虐趣味がなくても、この質問にAを選ぶ者はいるかもしれない。例えば哲学者ルネ・デカルトである。デカルトは、動物は意識をもたない機械のようなものに過ぎず、動物が苦痛を感じているように見えても、それは機械的な反応であって本当に苦しんでいるわけではないと考えた。したがって、デカルトにとって動物虐待などは問題にはならないのである*3*4

 

 さて、良識あるたいていの人間はBを選ぶだろうことを前提として、次に進みたい。私たちが動物を虐待してはならないのはなぜなのか?11月6日の「動物の道徳的地位についての整理」で、犬の虐待に反対する3人を登場させた。一郎は、犬を虐待してはならないのは、その犬の所有者の財産を傷つけるからだと考える。二郎は、犬を虐待してはならない理由は、犬を虐待することによって残酷な人間が育つからだと考える(残酷さを自身のうちに涵養することでやがて彼は人間に対しても牙をむくかもしれない)。そして三郎は犬を虐待してはならないのは、犬自身にいわれのない危害を加えるからだ、と考えている。

 一郎は、犬を物件としか見ていない。犬が無主物ではなく何者かの所有物である場合、犬を傷つけることは所有者の財産を傷つけることとなり、不正である。それが一郎が動物虐待に反対する理由であるならば、一郎はB1の立場に他ならない。二郎の意見も馴染みのあるものだろう。猟奇殺人者が動物を虐待していた過去があるというのはよく聞く話だ。動物を虐待する人間はエスカレートしてやがて人間を標的にするかもしれない。したがって二郎もB1の立場から虐待に反対している。

  カントはまさに二郎と似たような理由から、動物を虐待してはならないと考えた。カントの倫理学では、理性という概念が重視される。理性的存在は敬意の対象となり、そうした存在を単なる手段として扱ってはならない。ところでカントによれば、人間以外の動物に理性はない。したがって動物は単なる手段として扱って構わない。それならばカントはAと答えそうなものだが、カントによれば動物を虐待すると冷酷で残酷な人間になってしまいかねない。そして動物虐待を楽しむ人間は、やがて人間に対しても残酷に接するようになるかもしれない。であるから、人間に対する敬意の念を育てるためにも、ものいわぬ動物に対してもやさしく接しましょうと説く。この意味で、カントもB1の立場から動物虐待に反対していると言えるだろう。カント倫理学の独特の用語を使うと、動物に「関して」義務はあるが、動物に「対して」義務を負っているのではない、ということになる。

 3人の中で犬に道徳的地位が備わっていると考えているのは、三郎だけである。一郎と二郎は人間の利益しか考慮しておらず、間接的な理由から犬の虐待に反対しているに過ぎない。対して三郎は、一郎や二郎のような間接的な理由からではなく、犬を虐待してはならないのは犬自身のためだと考えている。それは端的に犬が苦しむからダメなのである。犬の苦しみが直接的に配慮に値する――すなわち犬の利益に独立した倫理的意義を与えなければならないと三郎は判断している。このアンケートに対する三郎の回答はB2かB3のいずれかである。しかしそのどちらを選ぶかは三郎に聞かないとわからない。以下、B2の立場とB3の立場について概観する。

 

 B2の立場はいわゆる「動物愛護」の考え方に近い。ピーター・シンガーの「動物解放論」やトム・レーガンらの「動物権利論」はB3の立場である。

 私たちの社会は概ねB2の規範を受け入れている。言わば、B2こそが私たちの社会の常識的道徳である。動物が道徳的地位をもつこと、動物自身の利益が人間の利益とは独立して配慮されなければならないということを多くの人は支持する。畜産農家でも動物実験従事者でもこの規範を支持しているし、少なくとも支持していることをアピールをしている。

 例えば動物愛護法40条では、動物を殺すときはできる限りその動物に苦痛を与えない方法によって殺さなければならないと規定されている。41条の動物実験についての条文ではできる限り動物に苦痛を与えない実験方法を採用することが定められている。このように苦痛を与えないという配慮は、動物に一応の道徳的地位を認めていることの証左である。

 しかしながら、B2の考え方では、動物の利益を重要なものとして配慮すべきとしつつも、人間の利益の重要性をつねに下回る。正当な理由があれば人間の利益のために動物の利益を犠牲にすることはやむを得ないという了解があり、ここで正当な理由とは、新しい化粧品の毒性試験をするための企業の経済的利益のようなものも含むほど大雑把に広く解釈される。

 

 B3の立場は動物愛護の立場とは一線を画する。B1のように動物の利益をまるで顧慮しない立場も、B2のように動物の利益を人間の利益より軽視する立場も、そのどちらをも種差別であると批判し、人間と動物の利益を平等に扱うことを要請するのがB3の立場である。B3の立場を厳密に理論化し、20世紀後半の動物解放運動の火付け役となったのが言うまでもなくピーター・シンガー*5。動物解放論の勃興以前にB3の立場を主張した有名な哲学者としては、ジェレミーベンサムがいる。「問題は、馬や犬が理性的に考えられるかでも、話すことができるかでもなく、苦痛を感じることができるかなのである」というのはベンサムの非常に有名な言葉である。

 B3の立場、つまり動物と人間が平等な道徳的地位を有するという立場によれば、動物の利益は人間の利益と同程度に重要で、配慮されなければならない。人間の利益が動物の利益に優先されてよいということ、つまり動物の道徳的地位が人間の道徳的地位より低いという規範に合理性を与える証拠は私には見当たらない。したがって、首尾一貫した立場であろうとすれば、B3の立場を支持せざるを得ないのである。

 

 アンケートに対する回答、それぞれの支持者及び支持理論等を表にまとめた。

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環境と倫理―自然と人間の共生を求めて (有斐閣アルマ)

環境と倫理―自然と人間の共生を求めて (有斐閣アルマ)

 

 

*1:伊勢田哲司「動物解放論」、加藤尚武〔編〕(2005) 『環境と倫理:自然と人間の共生を求めて』有斐閣アルマ、pp111-134のアンケートを改変した。

*2:この箇所、何らかの生得的な気質や精神障害を負った方を非難する文脈形成に寄与しかねないとの指摘を受けて修正致しました。

修正前:他者を傷つけることを至上の喜びとするような、生まれついてのサディストは残念ながら一定数おり、私たちはそのような怪物に出会わずに生活できることを祈る他ない。サディストでなくとも、……

修正後:他者を傷つけることを至上の喜びとするような人は残念ながら一定数おり、私たちはそのような人間に出会わずに生活できることを祈る他ない。加虐趣味がなくても、……

*3:もしかするとデカルトは「動物はそもそも苦しまないのだから、虐待など原理的に不可能である」と考え、このアンケートを前提から誤った問いであると指摘したかもしれない。

*4:ただしこの点に関して、必ずしもデカルトはそのように主張してはないのではないかと異議を唱える者もいるようだ。

*5:ピーター・シンガーは人間のための動物実験を許容しているのだからB3ではなくてB2の立場なのではないか、というご指摘を頂きました。これは興味深い論点なので後日整理します。