ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

あにまるえしっくす

twitterで知り合ったおにぎりさん作画、私原作で、漫画の連載を始めました。

タイトルは『講座 あにまるえしっくす』、動物倫理を解説する漫画です(生命倫理環境倫理にも触れる予定)。

 

第1回は「種差別って何だ?

こちらの記事を原作としています。

「種差別」という概念 - ピラビタール

第2回は「植物の命はいいの?

ベジタリアンヴィーガンに寄せられる「植物は食べてもいいのか?」という問いに答えたものです。

第3回は番外編「生物学的生と伝記的生」

9月中旬に公開予定です。

 

こちらのブログで原作に使えそうな記事を発表していく予定です。

どうぞよろしくお願いします。

もうすぐそこに夏がきています

このブログのタイトル「ピラビタール」は、私が大好きな大好きな歌手の森田童子さんの曲名から拝借しています。森田童子さんに出会ったきっかけは、月並みですが、中学の頃に放送されていたドラマ『高校教師』でした(桜井幸子さんではなく、上戸彩さんの方です)。

 

そこから彼女の歌に魅了され、全アルバムを集め、全詩集なんてのも自作しました。歌を聴けば聴くほど、ドラマ『高校教師』のイメージとはまるでかけ離れた森田童子を知ることができました。

 

 

昨夜twitterに、森田童子さんが4月24日に亡くなられていたというツイートが流れてきました。今朝のニュースにもなっており、事実のようです。

 

特に悲しいということはありません。私が知っているのは詩を歌っている童子さんだけですし、そもそも私が童子さんを知るよりずっと前に、生まれるよりも前に、童子さんは引退していました。

 

活動をやめた童子さんのその後の生活など知る由もなく、同じ世界に生きていたことすらも実感が湧かないくらいですので、「亡くなった」というニュースを見ても実感がありません。

 

でも、twitterで「森田童子」の名前を見るのがちょっと嫌でミュートワードに設定しました。私の童子さんの像を大切にしたいので。童子さんに大切な思い出を持っていたり、語りたいことがある人はたくさんいて、色々流れてきました。文句などはまったくありません。

 

ただ私は、私の思い描いている森田童子だけに触れていたい。と思うので。

 

GOOD BYE グッドバイ

GOOD BYE グッドバイ

 

 

論理的思考のレッスン

春休み中に戸田山先生の『論理学をつくる』を読破する予定でした。が、他にも読みたい本がわんさとあり、挫折しました。現在、第4章の途中で止まっております。予定を変更して、ゆっくりゆっくり、数ヶ月かけて読破する計画です。

 

今回読んだ内井惣七『論理的思考のレッスン』は『つくる』の第1~2章で学ぶ記号論理の基礎的な部分と、明晰にものごとを考えるヒントのようなものが散りばめられた薄い文庫本です。薄いとは言え、練習問題を紙とペンを使ってしっかり解きたいタイプの人には電車内で読める手軽な本ではないでしょう。特にレッスン8と9、真理表の理論を応用して横断歩道で見られる押しボタン式信号機の論理回路を書いてみようという問題があるのですが、これは少々難解でした。

 

 
著者は、正しい推論で正しい結論を導くことを「知的な誠実さ」と言います。間違った推論の結果、たまたま正しい結論にたどり着いたのでは、その推論は論理的には一文の値打ちもないのだと言います。


例えば以下の式を見てみましょう。

¬∀xF(x)→∃x¬F(x) ……①*1

 この式の妥当性を証明するために、以下のような推論を展開したとします。

 

1.①の妥当性を示すためには、それを反証する分析表が存在しないことを示せばよい。
2.そこで、①を偽にする分析表が存在すると仮定する。すなわち、この分析表で¬∀xF(x)を真、∃x¬F(x)を偽と仮定する。
3.第1の条件より、∀xF(x)は偽。
4.したがって、xがどんな値をとってもF(x)は偽である。
5.つまり、xの値にかかわらず¬F(x)は真となる。
6.したがって、当然∃x¬F(x)も真となる。
7.ところが、2の第2の条件より、これは不可能。
8.そこで、2の仮定は否定され、①は妥当である。

 

この証明は失格です。問題はステップ4の下線部です。全称命題が偽になるためにはそれを反証する値がひとつあれば十分なのですから、3から4は出てきません。著者は、これをうっかり見過ごすことこそ、知的な怠慢であると戒めます。ちなみに、意図的にそのような論法を使うなら、それは詭弁また知的な詐術と呼ばれます。

 

①の式を具体例を示して自然言語で考えてみましょう。アジアには中国人がたくさんいます。でも、もちろん中国人が全アジア人を占めるわけではありません。インド人も多いです。日本人も韓国人もベトナム人もタイ人もいます。

 

すべてのアジア人が中国人であるわけではない。
ならば、
中国人ではないアジア人がいる。

 

という推論は妥当です。①が言っているのは具体的にはそういうことです*2。「すべてのアジア人が中国人であるわけではない」という前提から「いかなるアジア人も中国人ではない」という結論は導かれないでしょう。上の証明では、3から4にかけてそのような誤りを犯しているというわけです。

「すべての人間は男である」という命題が偽であるからといって、「いかなる人間も男ではない」と結論する人はめったにいないはずである。ところが、抽象的な記号を使って推論するときには、これと同じか、それ以上に大きな誤りを犯す人が何十倍にも増えてしまう。

 

野矢茂樹『論理学』では誤った推論の例として以下のようなものを挙げています。

クジラが魚ならばクジラは卵で生まれる。
クジラは魚ではない。
それゆえクジラは卵で生まれるのではない。

これは前提も結論も正しいですよね。確かにクジラは卵では生まれません。しかし、推論は妥当ではありません。私たちに馴染み深い「前件否定の誤り」を犯しています。

 

誤魔化しをせずに誠実に考えること、明晰に一段一段考えることの大切さを本書で著者は繰り返し説きます。とは言え、そうした思考訓練をするのに本書がそこまで適しているかというと微妙な感じもします。シャーロック・ホームズを引用して「分析的推理」「総合的推理」という語を紹介するのですが、これは一般的な「分析と総合」の用法とはやや異なる気がしますし、論理的思考を教えたい本なのか記号論理学の基礎を教えたい本なのか判然とせず、全体的にどうも冗長です*3

 

推論で犯しやすい誤りを知り、正しく考える訓練をするのに適した本としては福沢一吉『論理的思考 最高の教科書』がおすすめです*4。論理学の基礎を学ぶには(論理学に入門したばかりの私が推薦しても当てになりませんが)野矢茂樹『論理学』やさらにその入門の『入門!論理学』が適切でしょうか。

*1:記号は個人的な好みから、戸田山先生の『つくる』で使われているものに統一しました。本書では①の式は

~∀xF(x)⊃∃xF(x)

と表記されています。

*2:xをアジア人、Fを「中国人である」という述語としました。

*3:当然ながら、論理的思考を鍛えるのに必ずしも論理学の本を読まなければならないわけではありません。

*4:ただし本書には致命的な誤記があります。今度ブログで指摘します。

「種差別」という概念

 動物倫理は現代倫理学の分類に従えば応用倫理学の一分野である。私達は動物とどう接すればよいのか、私達と動物のあるべき関係はどのようなものかを考察する。義務論や功利主義といった規範理論を駆使し、動物実験、肉食、ペットショップの問題、動物園や水族館、そして野生動物問題等を倫理学的課題として取り上げる。その問題意識は多方面に渡り、私たちが解かねばならない課題は多い。しかしそのどの方面においても念頭に置くべき共通の重要な概念がある。それが種差別(スピシーシズム、speciesism)である。

 

 「種差別」という言葉は1973年に心理学者のリチャード・ライダーが初めて使用し、1975年のピーター・シンガーの『動物の解放』により有名になった。シンガーは同書においてこの語を「私たちの種(人類)の成員には有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」と定義している。

 

 わかりやすく言えば、「ヒト以外の動物の利害を、ヒトの利害よりも低く見積もる考え方や態度」ということになろうか。例えば、現代の我々の社会は、医学研究や新薬開発のために被験者の意に反した人体実験を行うことを禁じている。これは当然の倫理的要請であろう。この倫理的要請を言葉にするならば、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、被験者の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を私達は拒否している、ということである。

 

 それに対して、動物実験が禁じられていないのは、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、動物の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を我々が自然に(無意識に)受け入れているからに他ならない。動物実験に限られた話ではない。食用としての動物利用、衣類としての動物利用、その根底にあるのは我々の「種差別」的態度である。味覚の快楽や、ファッションによって得られる楽しさなど、動物の苦痛に比べると些細なもののはずだが、我々は我々の種の利害を無意識に重視している。

 

 「動物を殺したり監禁したりしていいのは当たり前だ」という偏見は、「黒人がこのレストランに入れないのは当たり前だ」とか「女性に選挙権がないのは当たり前だ」といった偏見と同様の無根拠なものである。ヒトをヒトであるからという理由で優遇し、動物を動物であるからという理由で搾取の対象とする態度は、白人を白人であるからという理由で優遇し、黒人を黒人であるからという理由で搾取の対象とする人種差別と何ら変わらず、そこに合理的な根拠はない。相手の属する動物種という形式的な属性によって取り扱いを変えることは、相手の国籍や肌の色、障害の有無を理由に取り扱いを変えることに等しく、差別なのだと言わねばならない。

 

 シンガーは、他の人種の成員の利害を軽視し、自らの人種の利害を重視する人々を人種差別主義者(レイシスト)と、自らの属する性別の利益を重視する人々を性差別主義者(セクシスト)と呼ぶのになぞらえ、我々ホモ・サピエンスという種の利益を重視し、他の種の成員の利害を踏みにじる者たちのことを、種差別主義者(スピシーシスト)と呼んだ。

 

 動物倫理の研究の第一歩は「種差別」という概念を理解することにある。そしてこれを正しく理解したならば、擁護することは大変困難である。人種差別や性差別は重大な社会問題だが、「種差別」などは差別と呼ぶに値しない、差別という語の濫用であると反発したくなる者もいよう。だがそれが差別であることを構成する論理は極めて緻密で反駁は難しい。ある哲学者は種差別の議論を「勝利をおさめた議論(won argument)」と称している。そして、一旦種差別を容認し難い不正と見なしたならば、動物利用を当然とする我々の生活は抜本的に改められねばならない。こうしてシンガーは、理路整然と、肉食を放棄してベジタリアンになるべきこと、毛皮や皮革製品、動物実験によって開発された化粧品などをボイコットすべきことを主張するのである。

 

※シンガーの理論は「利益に対する平等な配慮」をキーワードとした功利主義に基づくものであり、「種差別」という概念だけで説明できるわけではない。今回はあくまで「種差別」という語の解説として理解されたい。

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

ムーアの未決問題論法

「ひいおばあちゃん」とは「親の親の母」のことである。(性の多様性のことを考えればそう言い切るのは問題だが、ここではその点には目をつむってほしい。)「ひいおばあちゃん」という概念は「親の親の母」という概念へと分析される。ある対象Xについて、Xがひいおばあちゃんならば、Xは親の親の母であるし、逆もまた真である。ひいおばあちゃんであるが親の親の母ではないもの、親の親の母ではあるがひいおばあちゃんではないものは不可能である。

 

二つの概念がこのような関係にあるとき、両者を必然的に同値であるという。必然的同値性は概念と概念の関係について語るメタ概念である。必然的に同値であるものAとBについて、「Xについて、XはAだが、XはBだろうか?」という問いは馬鹿げた問いになる。「然り」としか答えようがないからである。Aを独身男性とし、Bを配偶者のいない男性としよう。「鈴木さんは独身男性だが、鈴木さんは配偶者のいない男性なのだろうか?」という問いは馬鹿げている。そりゃそうだとしか答えようがない。独身男性と配偶者のいない男性は必然的に同値なのである。「トメさんはあなたのひいおばあちゃんだが、トメさんはあなたの親の親の母だろうか?」という問いも同様に馬鹿らしい。

 

このような問いの馬鹿らしさは、AとBが同値であるという概念分析の正しさによって支えられている。「XはAだが、XはBか?」は、AとBが同値ならば、「XはAだが、XはAか?」という問いと同義だからである。では、このような問いが馬鹿げていないときは、AとBが同値であるという概念分析が誤っていると言えるのだろうか。仮にそうだとしてみよう。そのような論理を倫理概念に応用し、「善」という概念の分析不可能性を主張したのがムーアの未決問題論法*1である。

 

「善」とは何か。これを仮に「人々に望まれていること」と定義してみよう。「Xが善であるとは、Xが望まれているということだ」と考えるのである。このとき、「Xは望まれているが、Xは善だろうか」という問いは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていない。我々は思案するだろう、利益、名誉、安全、……これらは望まれているが、善とすることが適切なのだろうかと。つまり、先の問いはだたちに「然り」と答えられる類の問いではない。これを未決問題(open question)という。

 

ムーアは論じる。もし善が「望まれていること」ならば、上の問いが未決問題であるはずがない。よって、善は「望まれていること」ではない。

 

善を「人の役に立つこと」と定義してみよう。「Xは人の役に立つが、Xは善だろうか」という問いは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていない。我々はあるもの・ことが善かどうかを考えるとき、それが人の役に立つかどうかを考えているのではないはずだ。そしてもしも善と「人の役に立つこと」が必然的に同値ならば、これは「Xは人の役に立つが、Xは人の役に立つか」と問うているに過ぎなくなる。よって、善は「人の役に立つこと」でもない。

 

ムーアは善という性質は経験科学によっては明らかにされ得ないと考えた。「XはFだが、善だろうか」という問いの述語Fにいかなる性質を当てはめても、それは未決問題となると論じたのである。ゆえに、善というものの性質と経験科学の方法によって調べ検証できる性質とを、同一視することはできない(同一視するような立場を「自然主義的誤謬」と批判したのは有名であるが、自然主義的誤謬はムーアの元来の使い方とは違った意味で使われることが非常に多い)。こうしてムーアは、善という性質は分析不可能な単純概念だと考えた。

 

ムーアの未決問題論法はその正否を含めて活発な議論を呼んだ。メタ倫理学史と分析哲学史の重要な1ページである(らしい)。

 

意味・真理・存在  分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)

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メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

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*1:佐藤岳詩『メタ倫理学入門』勁草書房では、「開かれた問い論法」と紹介されている