ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

論理的思考のレッスン

春休み中に戸田山先生の『論理学をつくる』を読破する予定でした。が、他にも読みたい本がわんさとあり、挫折しました。現在、第4章の途中で止まっております。予定を変更して、ゆっくりゆっくり、数ヶ月かけて読破する計画です。

 

今回読んだ内井惣七『論理的思考のレッスン』は『つくる』の第1~2章で学ぶ記号論理の基礎的な部分と、明晰にものごとを考えるヒントのようなものが散りばめられた薄い文庫本です。薄いとは言え、練習問題を紙とペンを使ってしっかり解きたいタイプの人には電車内で読める手軽な本ではないでしょう。特にレッスン8と9、真理表の理論を応用して横断歩道で見られる押しボタン式信号機の論理回路を書いてみようという問題があるのですが、これは少々難解でした。

 

 
著者は、正しい推論で正しい結論を導くことを「知的な誠実さ」と言います。間違った推論の結果、たまたま正しい結論にたどり着いたのでは、その推論は論理的には一文の値打ちもないのだと言います。


例えば以下の式を見てみましょう。

¬∀xF(x)→∃x¬F(x) ……①*1

 この式の妥当性を証明するために、以下のような推論を展開したとします。

 

1.①の妥当性を示すためには、それを反証する分析表が存在しないことを示せばよい。
2.そこで、①を偽にする分析表が存在すると仮定する。すなわち、この分析表で¬∀xF(x)を真、∃x¬F(x)を偽と仮定する。
3.第1の条件より、∀xF(x)は偽。
4.したがって、xがどんな値をとってもF(x)は偽である。
5.つまり、xの値にかかわらず¬F(x)は真となる。
6.したがって、当然∃x¬F(x)も真となる。
7.ところが、2の第2の条件より、これは不可能。
8.そこで、2の仮定は否定され、①は妥当である。

 

この証明は失格です。問題はステップ4の下線部です。全称命題が偽になるためにはそれを反証する値がひとつあれば十分なのですから、3から4は出てきません。著者は、これをうっかり見過ごすことこそ、知的な怠慢であると戒めます。ちなみに、意図的にそのような論法を使うなら、それは詭弁また知的な詐術と呼ばれます。

 

①の式を具体例を示して自然言語で考えてみましょう。アジアには中国人がたくさんいます。でも、もちろん中国人が全アジア人を占めるわけではありません。インド人も多いです。日本人も韓国人もベトナム人もタイ人もいます。

 

すべてのアジア人が中国人であるわけではない。
ならば、
中国人ではないアジア人がいる。

 

という推論は妥当です。①が言っているのは具体的にはそういうことです*2。「すべてのアジア人が中国人であるわけではない」という前提から「いかなるアジア人も中国人ではない」という結論は導かれないでしょう。上の証明では、3から4にかけてそのような誤りを犯しているというわけです。

「すべての人間は男である」という命題が偽であるからといって、「いかなる人間も男ではない」と結論する人はめったにいないはずである。ところが、抽象的な記号を使って推論するときには、これと同じか、それ以上に大きな誤りを犯す人が何十倍にも増えてしまう。

 

野矢茂樹『論理学』では誤った推論の例として以下のようなものを挙げています。

クジラが魚ならばクジラは卵で生まれる。
クジラは魚ではない。
それゆえクジラは卵で生まれるのではない。

これは前提も結論も正しいですよね。確かにクジラは卵では生まれません。しかし、推論は妥当ではありません。私たちに馴染み深い「前件否定の誤り」を犯しています。

 

誤魔化しをせずに誠実に考えること、明晰に一段一段考えることの大切さを本書で著者は繰り返し説きます。とは言え、そうした思考訓練をするのに本書がそこまで適しているかというと微妙な感じもします。シャーロック・ホームズを引用して「分析的推理」「総合的推理」という語を紹介するのですが、これは一般的な「分析と総合」の用法とはやや異なる気がしますし、論理的思考を教えたい本なのか記号論理学の基礎を教えたい本なのか判然とせず、全体的にどうも冗長です*3

 

推論で犯しやすい誤りを知り、正しく考える訓練をするのに適した本としては福沢一吉『論理的思考 最高の教科書』がおすすめです*4。論理学の基礎を学ぶには(論理学に入門したばかりの私が推薦しても当てになりませんが)野矢茂樹『論理学』やさらにその入門の『入門!論理学』が適切でしょうか。

*1:記号は個人的な好みから、戸田山先生の『つくる』で使われているものに統一しました。本書では①の式は

~∀xF(x)⊃∃xF(x)

と表記されています。

*2:xをアジア人、Fを「中国人である」という述語としました。

*3:当然ながら、論理的思考を鍛えるのに必ずしも論理学の本を読まなければならないわけではありません。

*4:ただし本書には致命的な誤記があります。今度ブログで指摘します。

「種差別」という概念

 動物倫理は現代倫理学の分類に従えば応用倫理学の一分野である。私達は動物とどう接すればよいのか、私達と動物のあるべき関係はどのようなものかを考察する。義務論や功利主義といった規範理論を駆使し、動物実験、肉食、ペットショップの問題、動物園や水族館、そして野生動物問題等を倫理学的課題として取り上げる。その問題意識は多方面に渡り、私たちが解かねばならない課題は多い。しかしそのどの方面においても念頭に置くべき共通の重要な概念がある。それが種差別(スピシーシズム、speciesism)である。

 

 「種差別」という言葉は1973年に心理学者のリチャード・ライダーが初めて使用し、1975年のピーター・シンガーの『動物の解放』により有名になった。シンガーは同書においてこの語を「私たちの種(人類)の成員には有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」と定義している。

 

 わかりやすく言えば、「ヒト以外の動物の利害を、ヒトの利害よりも低く見積もる考え方や態度」ということになろうか。例えば、現代の我々の社会は、医学研究や新薬開発のために被験者の意に反した人体実験を行うことを禁じている。これは当然の倫理的要請であろう。この倫理的要請を言葉にするならば、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、被験者の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を私達は拒否している、ということである。

 

 それに対して、動物実験が禁じられていないのは、「新しい治療法や新薬の発見によって得られる利益に比べて、動物の苦痛や死は取るに足らない」という考え方を我々が自然に(無意識に)受け入れているからに他ならない。動物実験に限られた話ではない。食用としての動物利用、衣類としての動物利用、その根底にあるのは我々の「種差別」的態度である。味覚の快楽や、ファッションによって得られる楽しさなど、動物の苦痛に比べると些細なもののはずだが、我々は我々の種の利害を無意識に重視している。

 

 「動物を殺したり監禁したりしていいのは当たり前だ」という偏見は、「黒人がこのレストランに入れないのは当たり前だ」とか「女性に選挙権がないのは当たり前だ」といった偏見と同様の無根拠なものである。ヒトをヒトであるからという理由で優遇し、動物を動物であるからという理由で搾取の対象とする態度は、白人を白人であるからという理由で優遇し、黒人を黒人であるからという理由で搾取の対象とする人種差別と何ら変わらず、そこに合理的な根拠はない。相手の属する動物種という形式的な属性によって取り扱いを変えることは、相手の国籍や肌の色、障害の有無を理由に取り扱いを変えることに等しく、差別なのだと言わねばならない。

 

 シンガーは、他の人種の成員の利害を軽視し、自らの人種の利害を重視する人々を人種差別主義者(レイシスト)と、自らの属する性別の利益を重視する人々を性差別主義者(セクシスト)と呼ぶのになぞらえ、我々ホモ・サピエンスという種の利益を重視し、他の種の成員の利害を踏みにじる者たちのことを、種差別主義者(スピシーシスト)と呼んだ。

 

 動物倫理の研究の第一歩は「種差別」という概念を理解することにある。そしてこれを正しく理解したならば、擁護することは大変困難である。人種差別や性差別は重大な社会問題だが、「種差別」などは差別と呼ぶに値しない、差別という語の濫用であると反発したくなる者もいよう。だがそれが差別であることを構成する論理は極めて緻密で反駁は難しい。ある哲学者は種差別の議論を「勝利をおさめた議論(won argument)」と称している。そして、一旦種差別を容認し難い不正と見なしたならば、動物利用を当然とする我々の生活は抜本的に改められねばならない。こうしてシンガーは、理路整然と、肉食を放棄してベジタリアンになるべきこと、毛皮や皮革製品、動物実験によって開発された化粧品などをボイコットすべきことを主張するのである。

 

※シンガーの理論は「利益に対する平等な配慮」をキーワードとした功利主義に基づくものであり、「種差別」という概念だけで説明できるわけではない。今回はあくまで「種差別」という語の解説として理解されたい。

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

ムーアの未決問題論法

「ひいおばあちゃん」とは「親の親の母」のことである。(性の多様性のことを考えればそう言い切るのは問題だが、ここではその点には目をつむってほしい。)「ひいおばあちゃん」という概念は「親の親の母」という概念へと分析される。ある対象Xについて、Xがひいおばあちゃんならば、Xは親の親の母であるし、逆もまた真である。ひいおばあちゃんであるが親の親の母ではないもの、親の親の母ではあるがひいおばあちゃんではないものは不可能である。

 

二つの概念がこのような関係にあるとき、両者を必然的に同値であるという。必然的同値性は概念と概念の関係について語るメタ概念である。必然的に同値であるものAとBについて、「Xについて、XはAだが、XはBだろうか?」という問いは馬鹿げた問いになる。「然り」としか答えようがないからである。Aを独身男性とし、Bを配偶者のいない男性としよう。「鈴木さんは独身男性だが、鈴木さんは配偶者のいない男性なのだろうか?」という問いは馬鹿げている。そりゃそうだとしか答えようがない。独身男性と配偶者のいない男性は必然的に同値なのである。「トメさんはあなたのひいおばあちゃんだが、トメさんはあなたの親の親の母だろうか?」という問いも同様に馬鹿らしい。

 

このような問いの馬鹿らしさは、AとBが同値であるという概念分析の正しさによって支えられている。「XはAだが、XはBか?」は、AとBが同値ならば、「XはAだが、XはAか?」という問いと同義だからである。では、このような問いが馬鹿げていないときは、AとBが同値であるという概念分析が誤っていると言えるのだろうか。仮にそうだとしてみよう。そのような論理を倫理概念に応用し、「善」という概念の分析不可能性を主張したのがムーアの未決問題論法*1である。

 

「善」とは何か。これを仮に「人々に望まれていること」と定義してみよう。「Xが善であるとは、Xが望まれているということだ」と考えるのである。このとき、「Xは望まれているが、Xは善だろうか」という問いは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていない。我々は思案するだろう、利益、名誉、安全、……これらは望まれているが、善とすることが適切なのだろうかと。つまり、先の問いはだたちに「然り」と答えられる類の問いではない。これを未決問題(open question)という。

 

ムーアは論じる。もし善が「望まれていること」ならば、上の問いが未決問題であるはずがない。よって、善は「望まれていること」ではない。

 

善を「人の役に立つこと」と定義してみよう。「Xは人の役に立つが、Xは善だろうか」という問いは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていない。我々はあるもの・ことが善かどうかを考えるとき、それが人の役に立つかどうかを考えているのではないはずだ。そしてもしも善と「人の役に立つこと」が必然的に同値ならば、これは「Xは人の役に立つが、Xは人の役に立つか」と問うているに過ぎなくなる。よって、善は「人の役に立つこと」でもない。

 

ムーアは善という性質は経験科学によっては明らかにされ得ないと考えた。「XはFだが、善だろうか」という問いの述語Fにいかなる性質を当てはめても、それは未決問題となると論じたのである。ゆえに、善というものの性質と経験科学の方法によって調べ検証できる性質とを、同一視することはできない(同一視するような立場を「自然主義的誤謬」と批判したのは有名であるが、自然主義的誤謬はムーアの元来の使い方とは違った意味で使われることが非常に多い)。こうしてムーアは、善という性質は分析不可能な単純概念だと考えた。

 

ムーアの未決問題論法はその正否を含めて活発な議論を呼んだ。メタ倫理学史と分析哲学史の重要な1ページである(らしい)。

 

意味・真理・存在  分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)

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メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

 

*1:佐藤岳詩『メタ倫理学入門』勁草書房では、「開かれた問い論法」と紹介されている

社民党にメールを送ってから1ヶ月が過ぎました

先月、社民党吉川元議員社民党宛てにメールを送りました。送ってから1ヶ月とちょっと過ぎたのですが、返事は来ません。まぁ来ませんよね。残念ですが、こんな一学生に返事を送るほど国会議員の方は暇ではないのでしょう。

 

メールの内容は、先月11月15日に開かれた衆議院文部科学委員会において、吉川元議員が発言した獣医学部の実習についてです。

 

www.youtube.com

17分40秒ごろから

「第二次の審査の際に、獣医解剖学実習について、牛の解剖がないと、これは一体どういうことなんですか」

20分50秒頃から

「シミュレーションで済むんですか」

「お医者さんは人体解剖せずに手術してもいいってことですかそれは」

という発言があります。

 

吉川議員によれば、獣医学部で実際の動物を使った解剖実習が行われないのは論外だということらしいです。吉川議員のこの指摘に対して、獣医学部で実際に動物を使わないなんてとんでもないことだと同調する人をtwitterで多数目にしました。

 

しかしながら、獣医学教育に本当に動物の犠牲が必要でしょうか。本当にシミュレーションではダメなのでしょうか。獣医師になるのに、本当に動物の命を奪う必要があるのでしょうか。吉川議員は、医学部の人体解剖と対比させましたが、医学部の解剖実習で人の命を奪うことはありません。

 

実際に、イギリスをはじめとし、アメリカ、カナダ、オーストラリアでは、動物を用いない代替法による教育が行われ、動物を1匹も殺さずに獣医になることができる獣医大学ができています。加計学園問題は別にして、動物を犠牲にすることは獣医学教育で必須ではないのです。そのことを伝えなければと思って、メールを送りました。(ちなみにtwitterでは心ない人から「そのコメントはいらんわ 馬鹿なの?」と罵られました。「加計学園問題が渦中の時に代替云々の話をするな」ということらしいです。)

 

 

以下、メールの全文を載せます。

苗野の個人情報につながる部分だけ修正・削除しました。

 

社民党・吉川元議員さま

 

はじめまして。私は××大学で獣医学を学ぶ大学2年生の苗野と申します。

 

唐突にメールを送付するご無礼をお許し下さい。

 

11月15日の国会中継衆議院文部科学委員会)を拝見致しました。その中で吉川議員が答弁で発言されましたいくつかの点が気になりました。

 

「第二次の審査の際に、獣医解剖学実習について、牛の解剖がないと、これは一体どういうことなんですか」

「シミュレーションで済むんですか」

「お医者さんは人体解剖せずに手術してもいいってことですかそれは」

 

私は加計学園認可の不正疑惑は徹底的に追及すべきだと思います。社民党並びに吉川議員のことは応援しております。しかし、上の発言は動物福祉の観点から言って、極めて不適切であったと思うのです。

 

これはあくまでも加計学園の件とは別件の問題として聞いて下さい。動物を犠牲にしない獣医学教育は可能であり、また目指すべきであると私たちは思っています。米国、英国、オーストラリアなどの多くの獣医学校では動物を傷つけない代替法が実施されています。

 

「動物を傷つけない代替法」とは

1.コンピュータ・シミュレーション

2.モデル・マネキン

3.視聴覚教材

等々を使用するものです。

 

これらはしっかりとした実習です。こうした代替法で、卒業まで1頭も動物を傷つけずに学び、立派な臨床獣医師を輩出している大学が海外にはたくさんあります。

 

 

もちろん日本ではまだ実現は難しく、ずっと先の話になるのだと思います。まずは、多くの市民に、獣医学教育に動物の犠牲は必要なく、動物を傷つけることなく獣医師になることができるのだということを知ってもらうことが実現への第一歩です。

 

しかし、先日の吉川議員の上記の発言は、残念ながら、「生体解剖がなければ高い水準の獣医師を養成できない」といった誤解を多くの人に与えてしまいました。「解剖実習をシミュレーションで行うなんてやっぱり加計学園はとんでもない」といった論調のコメントを、twitter上でたくさん目にしました。しかし、とんでもないのは加計学園のカリキュラムであって、シミュレーション自体は決して悪くないのです。

 

他ならぬ私たち自身が、獣医学教育からの動物犠牲の全廃を願っております。どうかシミュレーションでは獣医学教育が十分にできないかのような誤解を解いて頂きたく思います。Twitterなどで、その旨、不適切な発言だったことを発信し、訂正して頂けませんでしょうか?

 

そして、できることならば、動物福祉の向上のためにも、お力添えを頂ければ大変うれしく思います。

 

最後までお読み頂き、どうもありがとうございました。

 

××大学 獣医学部2年

苗野

 

以下、海外のシミュレーション実習の動画を少し載せます。

見た目はとても縫いぐるみには見えないほど精巧なもの。血まで出るもの。

何度も繰り返し練習できることもシミュレーションの利点です。

多くの方にこのような動画を見てもらえれば、有効であることがわかって頂けるように思います。

Canine Dental Surgery Simulator - YouTube

Lab allows veterinary students practice before work with live animals - Virginia Tech - YouTube

SynDaver Vessel Pad - YouTube

The SynDaver Synthetic Canine - YouTube

World's First High-fidelity Patient Simulator - YouTube

 

 

 

獣医学と動物倫理と

 獣医学部に入学してから1年と半年くらいが過ぎました。倫理学分析哲学の勉強をしながら、ときどき獣医学もがんばっています。倫理学の中でも、特に興味深く学んでいるのは動物倫理です。

 

 倫理学には以前から興味がありましたが、獣医学部に入るまで、動物倫理を本格的に学ぼうと思ったことはありませんでした。というか医療倫理や生命倫理と並んで、動物倫理という確固たる研究領域が確立されていることも知らなかったし、動物をめぐる倫理学的な議論がとても活発に行われていることも知りませんでした。例えばピーター・シンガー*1の名前も、聞いたことはありますという程度で、その道にどれほどの影響力を与えたのかも知りませんでした。

 

 獣医師を目指す者はどの大学でも動物福祉や獣医倫理の講義を一通り受講するはずですが、おそらくは動物をどのように扱えばよいかというマニュアルや、訴訟沙汰にならないような細々とした法律を教わる程度だと思います。動物福祉論と動物権利論との考え方の違いや、動物権利論の思想的背景や理論的根拠をしっかり学べるような大学はたぶんないのではないでしょうか(全国の獣医学系の大学について調べたわけではないので、もし学べる大学があったらすみません)。卒業した学生の大部分は、「3つのR*2」や「5つの自由*3」といった項目が頭に残っている程度だろうなぁと推測します。

 

 そういうわけで、ほとんどの獣医学生は動物倫理など学ばぬまま獣医師になるものと思います。6年間という限られた時間と他に学ばなければならない膨大な量とを考えると、それが悪いとは必ずしも言えないのかもしれません。私としては、倫理学の勉強が面白いということと、動物に関わる仕事に就くことになるのだから知らなきゃという何となくな理由で学び始めたのですが、しかし、学べば学ぶほど獣医学と動物倫理の相性の悪さを実感せずにいられません。

 

 動物倫理のロジックでは、いくつかの立場はあるにせよ、動物に必要のない苦痛を与えたり、動物をもっぱら人間の利益のために利用したりするようなことはだいたい否定されます。代表的な例は畜産です。肉食は人間にとって必要な行為ではありません(「生きるために食べる」と主張する人もいますが、必須栄養素は動物性食品からでなくとも得られるため、この理由付けは失敗しています)。ですので畜産は動物に必要のない苦痛――工場畜産によって動物たちを不快で不健康な環境に押し込め、本来よりはるかに短い寿命でその命を奪う――を与える行為として筆頭にあげられ、批判されます。もちろん、モンゴルの遊牧民や寒冷地帯に居住するイヌイットなど、動物の肉を食べないで生活することが困難な人々は確かに存在しますが、少なくとも先進国に住む我々が食べずに生活することは可能でしょう。

 

 翻って獣医師を見ると、平成26年の時点で5人に1人が産業動物*4の臨床に携わる獣医師です。したがって、動物倫理のロジックで言えば5人に1人が動物に必要のない苦痛を与える悪しき営みに加担していることになり、転職すべきだということになります(ちなみに日本で肉牛を飼養する農家の戸数は平成29年の時点で50100戸、豚を飼養する農家は4670戸です*5。動物倫理のロジックで言えばこれらの人々は廃業すべきなのであり、世界規模で見れば廃業すべき人々の数は億を超えるでしょう)。

 

 その他にも、獣医学には解剖実習や動物実験といった動物の利用がつきまといます。臓器の位置や大きさや色を覚えさせるために、果たして動物の命を奪って学生に身体を切り刻ませる必要があるのでしょうか。映像授業ではダメなのでしょうか*6。既に教科書で習得した動物の生理的機序を確かめるために実験をやらせる必要があるのでしょうか。「動物を助けたくて」という動機で獣医師を志した学生の一部は、実際に勉強を始めると動物の命を奪う場面に遭遇し、理想と現実とのギャップに苦しむといいます。

 

 そもそも、身も蓋もないことを言ってしまえば、獣医師の仕事はほとんどの場合、動物の利益を実現することではなく、人間の利益を実現することにあります。ですから、動物の喜びや悲しみや苦しみ、動物の尊厳に真正面から向き合う動物倫理と、どうしても相性が悪くならざるを得ません。とはいえ、それはあくまで獣医師という職業の一般論に過ぎず、私個人としてはもっと違う形の獣医師を目指すことは可能かもしれません。夢想的と笑われるかもしれませんが、動物自身の利益や尊厳に配慮した獣医師というのも、あるいは可能かもしれません。

 

 10年後に自分がどんな獣医師になっているのかわかりませんが、今のうちに、自分がこれから就くことになる仕事の倫理的側面について批判的に考える視点を養っておきたいと思います。そのための方法が、倫理学を学ぶことであり、動物倫理を学ぶことだと思っています。

*1:ピーター・シンガー(1946年7月6日~)、オーストラリア出身の哲学者・倫理学者。主著『動物の解放』は現在の動物解放運動に革命的な影響を与えた。

*2:「3つのR」は、動物実験に使われる動物に対して必要な配慮として導入された概念。「Replacement(代替)」「Reduction(削減)」「Refinement(改善)」の3つを表す。

*3:「5つの自由(Five Freedoms)」とは、動物の生活の質の向上を目指して広く採用されている飼育方針。①飢えと渇きおよび栄養不良からの自由、②不快からの自由、③痛み、障害、疾病からの自由、④恐怖や苦悩からの自由、⑤正常な行動を表現できる自由の5つからなる。

*4:産業動物とは人間の経済活動に利用するために飼養されている動物のことで、要するに家畜や家禽のことです。経済動物ともいいます。

*5:農林水産省のHPから。乳牛や採卵鶏も問題なのですが、ここではひとまず置いておきます。

*6:映像を使えば毎年何体も切らせる必要はなく、一度録画すればその後も何年も使い回せます。