ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

飢えと豊かさと道徳

 一昨日、映画を観てきました。話題になっている『ボヘミアン・ラプソディ』です。泣きました。私はQUEENというバンドのことはよくわからないのですが、兄が大好きでよく流していたので、知っている曲が多かったです。

 

 で、私は映画を観てきたわけですが、それに関連する質問がだいぶ前、8月下旬に質問箱に届いていました。その質問に対しては今回の記事ではなく次回の記事で答えたいと思うのですが(本当にお待たせしてすみません)、その布石というか準備として、質問者さまの質問に関連するであろう、ピーター・シンガーの論文についてまとめてみました。

飢えと豊かさと道徳

飢えと豊かさと道徳

 

 

 

 本書『飢えと豊かさと道徳』には3本の論文が収録されています。本のタイトルになっている「飢えと豊かさと道徳」は1972年、シンガーが25歳のときに書かれた論文です。これは後の『あなたが救える命』や『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』の原点になっているようです。第二の論文「世界の貧困に対するシンガー流の解決策」は1999年にニューヨーク・タイムズ紙に寄稿されたものです。三つ目の論文「億万長者はどれだけ寄付をするべきか――そしてあなたは?」は2006年、同じくニューヨーク・タイムズ紙に発表されました。

 

 この3本の論文は、裕福な先進国に住み、またその中でも比較的に裕福な生活を送ることができている私を含めた人々が、果たすべき義務を果たしていないこと、そして果たすべき義務はいかなるものかについて論証しようというものです。第一の論文でシンガーが提示するのは極めて単純な二つの原理です*1

 

第一の原理:何か非常に悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかも、道徳的に重要な何かを犠牲にすることなくそうすることができるならば、我々は、道徳的に言って、そうするべきである。

第二の原理:助けを求める人が隣人であるか、遠い異国の地の人々であるか、という物理的な距離の違いは、道徳的な観点から見て、何ら重要ではない。

 

 第一の原理をわかりやすい言葉に直すと、「さほど重要な何かを犠牲にすることなく、大きな災難を防ぐことができるのならば、防ぐように努力せよ」です。もしある一人の命を救うために別の一人の命を犠牲にしなければならないような状況であれば、その人を救うべきかどうかはまったく自明ではありません。しかし、ある一人の命を救うために、犠牲にするものが取るに足らないものであれば、その人を救うべきであることは自明です。

もし私が浅い池のそばを歩いて通りすぎようとしたときに、池で子どもが溺れているのを見かけたならば、私はその池に入ってその子を助け出すべきである。これにより、私の服は泥だらけになるだろう。しかし、その子の死が非常に悪いことであると考えられるのに対して、これは取るに足らないことである。

 

 もし服が泥だらけになるのを嫌い、子供を池から助け出すことを拒否するような人間がいたならば、その人は道徳心の欠如した怪物だと非難されるでしょう。

 

 第二の原理によれば、救いを必要としている人が目の前にいるか、1万キロも離れたアフリカにいるのかは重要な要素ではありません。それが隣人の子供であるか、顔も名前もわからないアフリカの子供であるかも重要ではありません。誰かの命の価値が自分の居住地の距離から遠くなるほど低くなるはずがありません。

 

 第一の原理と第二の原理をもって私たちの生活を鑑みれば、私たちの行動はまったくもって首尾一貫していないことを認めなければなりません。世界には予防可能な、回避可能な害悪であふれています。娯楽のために使うお金、ファッションのために新しい服を余分に買うお金や、私のように映画館へ行って映画を観るために払うお金で、世界にある害悪のいくらかを予防または低減することが確実にできるからです。

新しい服を買う理由が、体温を維持するためではなく、「身なりをよく」見せるためである場合、我々は何か重要なニーズを満たすために行為しているのではない。仮に古い服を着続けて、その分を飢餓救済に寄付したとしても、我々は何か重要なものを犠牲にしていることにはならないだろう。そうすることによって、我々は他人が餓死するのを防ぐことになるだろう。すると、上述したことから、我々は体温を維持するのに必要なわけではない衣服にお金を費やすよりも、その分のお金を寄付に当てるべきだということになる。

 

 第二の原理には反論が寄せられるかもしれません。異国の地にいる人々よりも、私たちの身近な人々を救う方が容易であり効果的だと言われるかもしれません。慈善団体の活動はたびたび裏目にでて、善意の寄付が貧困にあえぐ人々のためには活用されず、独裁者の金庫に収まるかもしれません。また、慈善団体の活動は非効率であり、私たちが期待するほどの命を救うことはできないと主張する人もいるかもしれません。しかし、こうした反論はもはや通用しません。ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ(下)』より引用します。

しかしこんにち、援助が不可能という言い訳は通用しない。国際的な支援組織はこれまで以上に成果をあげ、説明責任も果たしている。悪質な組織があるとしても、きちんとした組織が一つでもあれば、責任は免れられない。すぐれた組織はたくさんあり、仮に世界で最良の人道的組織が、資金の半分を不真面目に浪費しているとしても(実際にはそんなことはないが)、私たちの責任に変わりはない。援助費用が二倍になるだけで、計算が根本から変わったりはしないからだ。あなたは、切実に救いを求めている人々を助けるために自分のお金を(望みさえすれば)使える。これは現在まぎれもない事実だ。

 

ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ(下)』

 

 さて、シンガーの論文の核心は、「義務と慈善」という伝統的な線引きに挑戦するところにあります。義務とは、私たちが必ず行わなければならないことであり、行っても称賛はされませんが、行わなければ非難されるような行為です。慈善とは、行えば称賛を浴びますが、行わなくても特に非難されない行為です。カント倫理学では「義務と慈善」を「完全義務と不完全義務」と言ったり、また別の哲学用語では慈善を「超義務」と言ったりします。

義務……実行しても特に称賛されないが、実行しなければ非難される行為。完全義務ともいう。

 例)人に危害を加えない。他人の物を盗まない。

慈善……実行すると称賛されるが、実行しなくても非難されない行為。不完全義務、超義務ともいう。

 例)困っている人を助ける。寄付やボランティア活動をする。

 

 シンガーはこの伝統的な区分に異議を唱えます。私たちの社会では寄付をすることは慈善行為と見なされますが、シンガーによればそれは慈善ではありません。少々の犠牲を払うだけで他人を救えるのならば、私たちは救わなければなりません。先の池で溺れる子供の例を思い出して下さい。子供を救い出すことは、単に「気前のよい」行為でしょうか。そうは思えません。シンガーは、池で溺れる子供を救うこと、そして人が餓死するのを防ぐために寄付をすることは、慈善的な行いでもなければ気前のよい行為でもなく、豊かな人々の義務であるとします。「我々は寄付すべきであり、そうしないことは不正なのだ」と。

 

 そうであるならば、しかし、重大な難問に突き当たります。私たちは一体いくらを寄付すれば、義務を果たしたことになるのでしょうか。1万円を寄付したことで、私は貧しい子供を数ヶ月間の飢餓から救い出しました。では、それで私は義務を果たしたことになるのでしょうか。私は、そこで満足してお気に入りのレストランへ外食に出かけてもよいのでしょうか。しかしそこで外食に使うお金も、病気に苦しむ子供たちを救うのに役立てることができるはずです。もう1ヶ月ほど節約するならば、さらに1万円ほどを貯めることは容易でしょう。では、映画館へ行って映画を観てもよいのでしょうか。趣味にお金を使うことは許容されるのでしょうか。旅行へ行く計画は破棄すべきでしょうか。

 

 この疑問に対して、シンガーの要求は極めて高水準です。シンガーは、限界効用の水準に達するまで寄付すべきであるとします。つまり、自分の寄付によって自分自身や家族が飢えて死ぬということにならないギリギリの地点まで、寄付すべきであると。(現在はこの要求水準を論文発表当時よりも下げているようです。しかし依然として、世帯所得が年間1000万円程度の世帯では所得の10%を寄付に回すべきだという、高い水準を要求しています。)

 

 私はおそらくシンガーの要求には到底応えられず、今後も娯楽のためにお金を使うだろうと思います。映画館にも行きたいですし、ネットカフェに行って漫画を読みながらダラダラとした時間を過ごしたい。では、私のような自分に甘い人々は義務を果たしていないとして自身を責めるべきなのでしょうか。自分を擁護する材料のように引用するのはずるいかもしれませんが、ここで再びグリーンの『モラル・トライブズ』から。

あなたにできることで、あなたにとっては比較的小さな犠牲だが、多くの苦しみを軽減する事柄があるのはあきらかだ。どれほど犠牲を払うべきなのか?魔法の公式は存在しない。すべて個人の事情と制約次第だ。この問題に対しては、長い目で見ると、英雄的活動より、粘り強い活動の方が望ましい社会的側面があるかもしれない。あなたの人生は他者、とくにあなたの子供(子供がいたらの話だが)の手本になる。寄付を通じて毎年数百人の生活を改善しながらも、幸福で満たされた生活を送っているなら、他者が見習うことのできるお手本になる。しかし、自分を限界ぎりぎりまで追い詰めれば、寄付によってより大きな善を直接実践しているのかもしれないが、魅力的でないお手本となることによって、より大きな道義を損なっているかもしれない。長い目で見れば、穏当で持続可能な利他主義の文化を促進することが、自分を限界まで追い詰めるより、善い行いであるかもしれない。他者のために多大な犠牲を払う英雄は人を「奮い立たせる」。しかし現実世界の行動を駆り立てる話になると、研究があきらかにするところによれば、人に何かよいことをさせる最良の方法は、周りの人たちはもうやっていますよと言うことなのだそうだ。

 

 自身の生活を擁護するような文脈で引用してしまいましたが、グリーンの見解は真理だと思います。私たちは公正な人間たらんと努力すべきですが、真に公正な人間になるには限界があります。名前も顔も知らない人々を救うために、家族や友人や恋人と楽しむ一切を手放すことはできません。そしてある程度自分に寛容な生活を送らなければ、他者の見本になることもできないでしょう*2

 

 しかしながら、シンガーの要求水準を頭に留めておけば、どこかで明らかな余分な消費にブレーキをかける理性が働くかもしれません。好きな服を買う際に、それは度を越えた無駄遣いではないかという理性の声に耳を貸すことができるかもしれません。どこまでが許される娯楽で、どこからが無駄遣いなのか、線引きはできません。そこに「魔法の公式」は存在しません。多くの人が実践したくなる「穏当で持続可能な利他主義」を実践し、またその水準を少しでも高めるように努力すべきこと、ひとまずはこれが私の結論です。

 

 これまた自分を擁護する釈明になるかもしれませんが、『ボヘミアン・ラプソディ』を観たことで、HIV感染症エイズ予防のための募金に対する動機づけが高まったので、その意味でもこの映画を観てよかったと思います。本日、12月1日は世界保健機関(WHO)が定めた「世界エイズデー」だそうです。

 

せっかくなので最後に募金先を。

ユニセフ募金のお申込み | 日本ユニセフ協会

公益財団法人 エイズ予防財団 | 寄付について

GiveWell | Donate Online

GiveWellはフォロワーさんがお薦めしていた募金先(英語です)

 

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(下)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(下)

 

 

*1:実際は第二の原理は第一の原理に含まれ、シンガーが提示するのは第一の原理ただ一つなのですが、二つに分けた方がおそらくわかりやすいだろうと思いました。

*2:グリーンは「功利主義」という観点からこのように説くのですが、私はわざわざ「功利主義」という語を用いずとも、グリーンの見解は常識的な見解として説得力を持ち得ると考えます。