ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

相対主義について

 6日未明に起きた北海道胆振東部地震に際して心配して下さった方々、どうもありがとうございました。中には食糧や衣類を送ろうかと申し出て下さった方もおり、お気持ち大変感謝しております。私は全然大丈夫ですので、被災者支援のための募金に回して頂けたらと思います。

 

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

 

 

 道徳は人それぞれ。また異なる国々・地域や時代により、何を「善い」「正しい」とするかは異なる。……誰もが一度はこのような発言を聞いたことがあるのではないでしょうか。これは「相対主義」と総称される考え方で、道徳的な論争では必ずと言っていいほど頻繁に登場します。しかし相対主義的な発言の意味するところは、その発言者により異なります。大雑把に、これを3つに分類することができます。

 

A: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、道徳に関する統一的な見解など存在しない

B: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、道徳に関する普遍的な真理など存在しない

C: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、異なる道徳観をもつ人々を批判したり、自身の道徳観を押し付けたりすべきではない

 

 A、B、Cは「相対主義」と総称される立場ではありますが、それぞれ異なる主張をしています。そこで、Aを記述レベルの相対主義、Bをメタレベルの相対主義、Cを規範レベルの相対主義と呼ぶことにします*1

 

■Aの主張――記述レベルの相対主義

 

 Aの発言者は、「異なる国々や社会集団では、人々は異なる道徳律に従って生きている」という事実に関する主張をしています。これは何ら規範的主張(私達に対する「どうすべきだ」「こうしよう」という提言)を含んでおらず、単なる事実の問題です。したがって、これが正しいかどうかは社会学文化人類学によって実証的に明らかにされなければなりません*2

 しかし、本当に「道徳に関する統一的な見解など存在しない」とまで言えるかどうかは、疑問が残ります。確かに、人が従う道徳律は国や地域によって多様性が見られます。これを示す印象的な逸話がヘロドトスの『歴史』で紹介される、ギリシア人とインドのカラチア族の「父親の埋葬の仕方の違い」です。ギリシア人は父親の遺体は焼くことが正しいと信じていたのに対して、カラチア族はそれを聞いて恐ろしいとおののきました。カラチア族は父親の遺体は食べることが正しいと信じていたのです。

 ではこの逸話をもって、ギリシア人とインドのカラチア族とでは、異なる道徳律に従っていると言えるでしょうか。必ずしもそうとは言えません。ギリシア人とカラチア族は、父親の埋葬の仕方という外形上の相違こそあれ、そこには「遺体に敬意を払う」という共通の道徳律がある、と言える余地があるからです。両者は、魂なるものに対する宗教的見解や、遺体の取り扱いにまつわる病気の発生状況等々の違いにより、単に外形上の異なる習慣として現れているだけではないか、とも考えられます。

 また、殺人の禁止や嘘の禁止はおよそどのような社会集団でも共有されている道徳律と言えそうです。もちろんある国家は死刑を採用しているなど、殺人の禁止に「例外規定」を設けていますが、殺人が全面的に許容されている社会集団は存在し得ない(というより存続し得ない)でしょう。したがって、「人が従う道徳律は国や地域によって多様性が見られる」ものの、依然としてそこに普遍性も見られると指摘できるのではないでしょうか。

 

■Bの主張――メタレベルの相対主義

 

 Bの発言者は、道徳に関する普遍的真理の存在を否定しようとするものです。道徳に関する普遍的な真理とは何か。倫理学において実在論・認知主義と呼ばれる立場を採用する人々は、数学や物理学における真理のように、道徳の領域においても普遍的真理が存在していると考えます。「幼児を虐待することは悪い」という言説は、「100以下の素数は25個ある」「直角三角形において、斜辺の長さの平方は、他の2辺の平方の和に等しい」という言説が数学的真理であるのと同様に、道徳的真理である、と。

 道徳や倫理に関してこのような普遍的な真理が存在するかどうかはわかりませんし、ここでは問いません。しかし、これを存在しないとするBの発言者の論証が誤っていることは確かです。Bの論証を注意深く見てみましょう。

 

前提 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ

だから

結論 道徳に関する普遍的な真理など存在しない

 

 この論証は明らかに誤りです。前提では単に「人々の見解には不一致が存在する」という観察事実を述べているだけです。それは「人々の見解を越えた真理の実在性」に関して、いかなる証拠も提供しません。以下のような論証に置き換えてみるとその誤りがより明確になります。

 

前提 ある社会は天動説が正しいと考え、別の社会は地動説が正しいと考えている

だから

結論 地球の運動に関して天文学上の真理は存在しない

 

 この論証が誤っていることは容易に判断できるでしょう。単に複数の対立した見解があるというだけでは、一方の社会が正しく、他方の社会が誤っている可能性、あるいは両者がともに誤っている可能性が依然として残されています。「1+1=3」と信じている人と「1+1=5」と信じている人が対立しているからと言って、「1+1 という問題に関して真理は存在しない」などという結論は導けないでしょう。同様に、「ある社会は犬を食べることを正しいと考え、別の社会は犬を食べることを間違っていると考えている」という前提から、「犬を食べるということに関して、普遍的な善悪は存在しない」という結論を導くことはできません。

 もちろん、この批判は論証が誤りであることを指摘しているだけであり、結論が誤りであることまでは指摘していません。道徳に関して、普遍的な真理は本当に存在しないのかもしれません。「犬を食べるということに関して、普遍的な善悪は存在しない」という主張は、もしかしたら正しいのかもしれません。しかしそれは、人々の見解に不一致が存在することとは独立の問題であり、人々の見解の不一致をいくら提示してもその正しさを証明できないのです。

 

■Cの主張――規範レベルの相対主義

 

 AとBの相対主義的な発言が規範的な主張を含んでいなかったのに対して、Cのタイプの相対主義は規範的な主張を含んでいます。つまり、私達に対して、「どうすべきだ」、「こうしよう」という提言を含んでいます。

 

C: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、異なる道徳観をもつ人々を批判したり、自身の道徳観を押し付けたりすべきではない

 

 このタイプの相対主義にはある種の「魅力」があります。それは私達に寛容や相互不干渉の精神を教え、異文化に対する尊重・理解や多文化共生の可能性を示唆しているように見えるからです。文化ごと(あるいは社会ごと)に価値観は異なる。我々は異なる価値観や習慣を持っている人々に対して、彼らの価値観が間違っていると批判すべきではない。……この考え方は文化間の摩擦・衝突を回避し、平和を促進するように見えます。

 しかし、この主張には重大な欠陥があります。第一に、「異文化を大いに批判すべきである」という価値観を、相対主義は批判できなくなるというパラドックスが生じます。ある地域に住む人々は、「我々の宗教は地球上で唯一無二の真理であり、異教徒を積極的に批判し、我々の宗教に改宗させるべきである」という道徳律を信じていたとしましょう。ではこの道徳律に相対主義者はどう対処したら良いのでしょうか。彼らに「自分たちの信仰を他者に押し付けるな」と、その態度を改めさせるべきでしょうか。しかし、彼らの態度を改めさせることは、相対主義者がまさに批判していた当の行為ではないのでしょうか。

 第二に、この種の相対主義を支持すると、いかなる残虐な行為も、非人道的な文化も、もはや批判できなくなるという事態が生じます。このタイプの相対主義者は、「殺人は許容される」「窃盗は悪いことではない」と信じる人に対して、「いや殺人は許されないのだ」「窃盗は悪いことなのだ」と説得する資格を持ちません。家の中では靴を脱ぐか靴を履くか、食事は右手で食べるか左手で食べるかといった文化的な相違は無害なものですが、世界には有害な文化や習慣があります。未だにアフリカや中東、アジアの一部の国々で行われているFGMに対する批判を、相対主義者は放棄しなければなりません*3。そしてこれらを毅然とした態度で批判しないのは、開明的ではないでしょう。

 

道徳や価値観は人によって異なります。ですが、少なくとも、他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反でしょう。菜食主義者でない人が、菜食主義者に対して肉を食べろと言っている話は聞いたことがありませんが、逆はよくあります。自分の道徳を貫くのは双方に勝手にすべきことです

— 福永 活也 (@fukunagakatsuya) 2018年9月6日

 

 上のツイートは福永法律事務所代表、福永活也さんのものです(既に削除された模様)。福永さんは「道徳や価値観は人によって異なります。ですが、少なくとも、他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反」と主張します。では、「他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反」という道徳律は、絶対的な道徳律なのでしょうか、相対的な道徳律なのでしょうか。もしこれが絶対的な道徳律なのだとしたら、人によってそれぞれ異なるはずであるところの他種多様な道徳的世界に、自身の絶対的な道徳律を「押し付け」ていることになります。もしこれが相対的な道徳律なのだとしたら、「他人に自分の道徳、価値観を伝え共有させるべきだ」という道徳律と等価ということになり、一顧だに値しません。

 私達は殺人や窃盗を禁止する道徳律を受け入れており、これに違反した人に対して義憤(道徳的な怒り)を覚えます。自分の部屋が空き巣に入られたり、自分の大切な人が暴漢に乱暴されたりしたならば、犯人に対する倫理的な非難をせずにはいられないでしょう。そして、できれば犯人が罪を自覚し、反省することを望むでしょう。ここで、「犯人に罪への自覚と反省を要求することは道徳違反であり、法律というルール違反の点で制裁を要求することしか我々はすべきではない」とするのはあまりに現実味がありません。

 「押し付け」とはそもそも曖昧な言葉であり、話者の意味するところは必ずしも定かではありませんが、少なくとも、道徳とは私達の行動を律する指針の束なのであり、「押しつけがましい」ものであることは事実です。「自分の道徳を押し付けることは道徳違反」と言う人は、そもそも道徳が私達の行動を律する規則なのであるという事実を忘れています。

*1:佐藤岳詩『メタ倫理学入門』に依拠していますが、本書では記述レベルを「事実レベル」と表記しています。

*2:フランケナの『倫理学』、これに依拠している赤林朗・児玉聡『入門・倫理学』ではこの立場の相対主義を「記述倫理学相対主義」としていますが、これは倫理学の研究対象というより人類学の研究対象ではないでしょうか。ですので「記述倫理学相対主義」という呼称にはあまりしっくりきません。

*3:女性性器切除(FGM) | 子どもの保護 | ユニセフの主な活動分野 | 日本ユニセフ協会