ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

倫理のうしろのうしろ

 「倫理学の教科書」というと、今までは2種類あったように思われます。規範倫理学をメインに扱う教科書と、応用倫理学をメインに扱う教科書です。前者では、ベンサムやミル、カントといった大思想家の学説がまず紹介され、社会契約論、徳倫理学、ケアの倫理、余裕があれば政治哲学的な項目も扱われます。後者は、医療倫理、生命倫理環境倫理、ビジネス倫理や企業倫理、情報倫理など、現代的な倫理の問題を扱う教科書。その分野を専門に学ぶ人を主な読者と想定している場合が多いですね。

 先日読んだ佐藤岳詩『メタ倫理学入門 : 道徳のそもそもを考える』は本邦初、メタ倫理学をメインに扱うテキストです。言わば、第三の倫理学の教科書です(もちろん今までの教科書でもメタ倫理学を扱うものはあったのですが、メタ倫理学のみを扱う入門書というのは日本初です)。本書はメタ倫理学の代表的な理論、争点となっている話を、網羅的に紹介してくれます。紹介されるすべての理論について、その長所と短所も解説してくれているので、読みながら「おっ。この理論はいけるかもしれぬ」→「ぐぬぬ…」と何度も浮き沈みしてしまいました。

 

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

 

 筆者はメタ倫理学を「規範倫理学や応用倫理学を一歩後ろから眺める学問」と表現します。倫理学とは、私の考えでは、私たちが社会で馴染んでいる道徳のルールを批判的かつ論理的、合理的に検討し、その背景にある根拠を見出す学問です。この作業によって、あるルールは正当化され、またあるルールは棄却されます。ルール同士の矛盾や不整合が見出されたり、私たちが今まで知らなかった新しいルールが「発見」されたりするでしょう。つまり私たちが社会生活で身につけた倫理を「一歩後ろから」眺めるのが倫理学です。

 メタ倫理学が筆者の言うように規範倫理学や応用倫理学を「一歩後ろから」眺める学問だとしたら、メタ倫理学は、倫理の「一歩後ろ」にある倫理学の中でも、かなり後ろの方に位置していることになります(笑)倫理の、うしろのうしろです。

 規範倫理学では、「私たちが何をすべきで、何をしてはいけないか」「私たちはどんな人間になるべきか。いかに生きるべきか」といった問題に答えようとします。ここでは、「なすべきこと」や「正しいこと」がある、というのが前提にされていることは間違いありません。メタ倫理学はこの前提を批判的に検討します。そもそも「なすべきこと」「正しいこと」などあるのだろうか。「正しい」とはいったいどういう意味なのだろうか。私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのか……などなど。

 ちょっとだけメタ倫理学上の立場を紹介すると、「正しいこと」や「善いこと」が私たちの主観とは独立に世界の側で決まっていると考えるのが客観主義の立場です。例えば、無実の人が危害を加えられたとしたら、客観主義によれば、それを見ている私たちの評価や判断とはまったく独立に、そこに「悪さ」という性質があります。道徳に関する真理は、世界の側で決まっているというわけです。普遍的な物理法則や化学法則が世界の側で決まっているように、世界の側に普遍的な道徳法則がある、ということにもなるでしょうか。

 これに対して主観主義の立場では、世界の側に「善さ」や「正しさ」といった性質など存在せず、そうした性質に関する判断は私たちの主観によると考えます。無実の人が危害を加えられたとき、そこにあるのは私たちの評価や判断であり、そこに客観的な「悪さ」が存在していたりはしません。主観主義と言っても一枚岩ではなく、善や悪、正や不正は私たちの個人的な感情や好みの問題であると考える立場や、私たちの同意や合意によって形成されるという立場など、いくつかの考え方があります。一枚岩でないのはもちろん客観主義も同様です。

 客観主義と主観主義の対立に呼応して、道徳に関する実在論非実在論の対立があります。道徳的実在論は、道徳的な事実・真理が私たちの心から独立に存在し、善や悪、正や不正といった道徳的性質も現実に存在すると考えます。2+3=5が数学的真理であるように、物理現象の背後に数式で表される真理が存在するように、私たちの考えや好き嫌いとはまったく無関係に、客観的真理として、道徳の真理はある。「無実の人に危害を加えることは悪い」というのは、私たちがそれをどう考えるかとはまったく無関係に、事実である。このように考えるのが、実在論です。

 非実在は、道徳的な事実や善や悪、正や不正といった性質も存在しないと考えます。道徳判断は、真理や事実に関するものではなく、私たちの感情表現であったり、態度であったり、あるいは命令であったりします。ブラックバーンは、価値は世界の側に本当に実在しているのではなく、私たちの価値観の投影によって世界にあるように見えている、という投影説を展開します。ダイヤモンドはただの石に過ぎないのだが、私たちがダイヤモンドを価値あるものと認識し、そこに私たちの価値を投影している。それによって、ダイヤモンドはそれ自体としては価値はないのに、価値あるものであるかのように扱われている。道徳的価値についても同じことが言えるのだ、と。*1

 メタ倫理学ではさらに認知主義非認知主義の対立、なぜ私たちは善いことをしなければならないのかという“Why be Moral”の問題など、まだまだ面白い話題に尽きないのですが、長くなるのでこのへんで終わります。

 メタ倫理学はややもすれば不毛な議論をする学問であるかのように思われます。しかし例えば私たちが道徳的な問題で議論をしているとき、両者が同じ単語を同じ意味で使用しているのか、道徳の真理の実在性に関して両者は共通の土台の上で議論をしているのかなど、前提を見つめ直すための強力なツールになります。また、既存の道徳のルールを「一歩後ろ」から批判したり、提言をしたりする際に、批判・提言のさらに「一歩後ろ」からこれら批判・提言の前提の妥当性を検討することができるのも、メタ倫理学の強みです。まさに倫理のうしろのうしろに位置するのがメタ倫理学であるとは言えないでしょうか。

 

■表紙のキャラクターについて

表紙の生き物(メタ子という名前らしいです)について、描いたイラストレーターさんご本人(あまえびさん @amaebi4330 )からご返事をもらいました。

 

 

 

■とてもかわいい

*1:ブラックバーンの立場では本書では「準実在論」とされますが、やはり「本当は実在しない」という非実在論の立場です。

デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」概略

 こんばんは。苗野さんです。昨夜の記事では、ベネターの反出生主義とその核心たる「誕生害悪論」によって導かれる結論であるところの、人類絶滅論や中絶推進論を紹介しました。しかし、ベネターがどのような議論によって誕生害悪論を示したのかを説明しなくては、それがどこまで正当なものなのか判断できません。ベネターはなぜ「生まれてくることは、生まれてこないことより、悪い」という結論に至ったのでしょう。昨晩の記事だけでは、古来から繰り返し説かれる厭世主義に過ぎず、この程度の言説は現代ではネット上にも溢れています。そこで昨日の予告通り、今回の記事ではベネターの誕生害悪論の論理展開を私なりにまとめてみたいと思います。

 

■4つの命題

 ベネターの誕生害悪論は4つの命題により導出されます。その論理展開を理解する鍵は「苦痛と快楽の非対称性」です。ここでいう苦痛 pain とは害悪 harm の一例であり、快楽 pleasure とは利益 benefit の一例です。ベネターはまず、以下の2つの命題は議論の余地なく正しいとします。

(1)苦痛の存在は悪い。
(2)快楽の存在はよい。

 快と苦を善と悪に対応させていることから、功利主義的な考え方が土台にあることが示唆されます。(1)と(2)からわかるように、苦痛の存在と快楽の存在の間には対称性が見出されるのですが、しかし、苦痛の欠如と快楽の欠如との間にはこのような対称性は見出されません。

(3)苦痛の欠如は、たとえそのよさが誰によっても享受されていない場合であっても、よい。
(4)快楽の欠如は、快楽を剥奪されたがゆえに快楽を享受できなくなるような人間がいるのでない限り、悪くない。

この(3)と(4)には解説が必要です。丁寧にその論証を追ってみましょう。

 

■苦痛の欠如について

 第3命題は、苦痛の欠如を、たとえそのよさが「誰によっても享受されない場合であっても」よいと評価しています。当然、ここでは次のような反論が予想されます。「苦の欠如を『よい』としても、快苦を感じる主体が存在しないのなら、『よい』という評価など不可能だ。その『よさ』を経験する人間がどこにも存在しないのであれば、苦の不在が『よい』という価値を帯びることなどあり得ない」と。このような当然の疑問に対してベネターは、苦の欠如のよさには二つの意味があるとして回答を用意します。①苦の主体が存在する場合についてと、②苦の主体が存在しない場合についてです。

①苦痛の主体が存在する場合

 苦の主体、たとえば太郎が苦痛を被っているとします。太郎の苦痛がもし仮に欠如したとすれば、それはよいことでした。それがたとえ、太郎が存在しなくなることによってのみ達成され得たのだとしても、よかったのです。これは、「ここに太郎という人間がいるとする。太郎に苦痛が欠如していることは、よいことである」という単純な話ではありません。太郎という苦しんでいる者がいるとき、太郎の苦痛の欠如が実現すればそれはよいことだが、それが太郎がいなくなることによってのみ達成されたとしても、苦痛の欠如は太郎の利害に照らしてよいことだった、このような主張なのです。

②苦痛の主体が存在しない場合

 苦の主体が存在しない場合、そこに苦痛はありません。苦痛を被る主体が存在しないからです。このとき、苦痛の欠如は、苦痛を被る主体が非存在であるということによって保証されています。そしてベネターは、実際には存在していないが存在したかもしれない、この潜在的な主体の利害に照らし合わせて、苦痛の欠如をよいことと評価しているのです。例えば太郎が生まれなかった宇宙を想像すると、そこに太郎の苦痛は存在しません。しかしこの宇宙で達成されている「太郎の苦痛の欠如」は、もしかしたら生まれてきたかもしれない太郎の利害に照らし合わせて、よいことである。私の理解が正しければ、以上のことが主張されています。*1

 

■快楽の欠如について

 第4命題は以下のことを含意するものです。快楽の欠如は、快楽を剥奪されたような者が存在した場合に限り、悪い。*2もしそのような者が存在しないのであれば、快楽の欠如は悪くない。ここに、「苦痛と快楽の非対称性」が現れます。「苦痛/快楽の存在」については「悪い/よい」と対称的な評価を下すことができるのに、「苦痛/快楽の欠如」については「よい/悪い」ではなく、「よい/悪くない」という非対称的な評価を下すべきなのです。

 では、快楽を享受する主体が存在しないことは、本当に「悪くない」のでしょうか。あるカップルが、「いつか子供ができたら、ハルキという名前をつけようね」と決めていたとします。しかし、諸事情により、このカップルは子供をつくるのをやめました。このとき、不利益を被った者はいるのでしょうか。もしカップルが生殖をしていたらその約38週間後に誕生したかもしれない「ハルキ」なる者が「快楽を享受できなかった」という不利益を被ったのでしょうか。

 否です。不利益を付与すべき人格が最初からこの宇宙に出現しなかったのですから、その者が不利益を被るはずがありません。存在しなかった者について、その者自身のために、「ハルキは幸福な人生を送れたはずなのに……」などと同情することは不合理です。この世界に存在しなかった者は、快楽を剥奪されることもなく、その非存在者が快楽を享受しないことを「悪い」とは言えません。かくして、快楽の欠如は、非存在者にとって「悪くない」というわけです。

 もちろん、カップルがいつか後悔をすることはあり得るでしょう。「あのとき子供をつくればよかった」と。しかしそれは、子をつくらなかった親の自分自身に対する後悔に過ぎません。存在しなかった者について、その者の非存在を、その者自身のために後悔することは不合理であり、また不可能です。*3

 

■シナリオAとシナリオBの比較

 以上の(1)~(4)の四つの命題により、以下のような表が得られます。Xを苦痛と快楽の主体(例えば太郎)として、Xが存在する場合をシナリオA、Xが存在しない場合をシナリオBとし、両者を比較検討していきます。

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 まず苦痛に注目すると、Xが存在する(1)は悪く、Xが存在しない(3)はよい。したがって、苦痛について言えば、Xは存在するよりも存在しない方がよい。つまり、シナリオAよりシナリオBの方が望ましいということになります。では快楽に注目するとどうなるでしょうか。(2)と(4)を比較すると、「よい」と「悪くない」なのだから、(2)の「よい」を、すなわちXの存在するシナリオAを選びたくなります。しかしベネターによれば、(2)の「よい」と(4)の「悪くない」とを比較して、単純に(2)を選ぶべきではありません。その理由としてここでは2点取り上げます。①義務の観点から、②(2)のよさと(4)の悪くなさの本当の意味から。

①義務の観点から

 ベネターによれば、我々には苦しむ人を生み出さない義務があります。他方で、幸福な人を生み出す義務は我々にはありません。なぜ苦しむ人々を生み出さない義務があるかと言うと、第1命題より苦痛の存在は悪く、第3命題より苦痛の欠如はよい――そのよさを享受する者がいないとしても――からです。それに対して、我々は幸福な人を生み出す義務はありません。なぜその義務がないかと言うと、第4命題より、快楽の欠如は悪くないからです。換言すれば、我々には害悪を回避する消極的義務はあるが、幸福を増進するというような積極的義務はないのです。

②(2)のよさと(4)の悪くなさの本当の意味から

 義務の観点から説明する①はわかりやすいですが、この②は少々理解に手こずります。ベネターは「よい/悪い」の意味を二つに分けるのですが、両者の使用があちこちで混在し、整理不足であると思われるからです。私の理解が正しいと仮定して、ベネターの趣旨をまとめてみましょう。ベネターは「よい/悪い」の価値判断を、本性的に「よい/悪い」(それ自体として端的に「よい/悪い」)という意味と、相対的に(何かと比べて)「よい/悪い」という意味に分けます。したがって、後者の「よい/悪い」は better/worse ということになります。

 快楽の欠如を「悪い」と評価できるのはどのようなときでしょうか。それは、快楽を享受していた者が、その快楽を剥奪されたときです。つまり、シナリオAの(2)の領域にいる人間に異変が起きたような状況、これが「悪い」と言えるのです。しかしそこでの「悪い」は、(1)の苦痛の存在を評価する「悪い」とは意味が異なります。ベネターの見解では、苦痛の存在の「悪い」は本性的な「悪い」bad ですが、剥奪による快楽の欠如は、快楽を剥奪される前の状態に比べて、「より悪い」worse なのです。つまり、剥奪による快楽の欠如とは(2)の領域内で発生した異変を指し、これを剥奪前より「より悪い」と考えるのです。

 逆方向から見ると、(2)における快楽の存在に対する「よい」という評価は、本性的な「よい」なのではなく、剥奪による快楽の欠如と比べた、「よりよい」better なのです。快楽の存在の「よい」は、(4)の単なる快楽の欠如との比較において better なのではなく、剥奪による快楽の欠如との比較において better なのです。(2)は(4)に比べて「よりよい」なのではなく、第2命題が「快楽の存在はよい」と言うとき、そこに比較があるとすれば、(2)の領域内で、「快楽の存在は、快楽が剥奪された状態に比べて、よりよい」と主張していることになります。

 さらに第4命題が言うように、剥奪によらない快楽の欠如は「悪くない」のですが、ここでの「悪くない」とは、快の存在よりも「より悪くない」という意味なのだそうです。(2)は(4)に比べて「よりよい」わけではなく、(4)は(2)に比べて「より悪い」わけでもない。*4だから、(2)は(4)を上回るアドバンテージをもつわけではない。ベネターはそのように主張します。

 

■結論

 まとめるのが下手で、概略のつもりだったのにずいぶん長くなってしまいました。以上の議論により、誕生害悪論の結論が導かれます。シナリオAの「Xが存在するとき」とシナリオBの「Xが存在しないとき」とで、どちらがよいのでしょうか。

 苦痛に関して言えば、シナリオBの方がよい。快楽に関して言えば、シナリオAがシナリオBより「よりよい」とは言えず、またシナリオBがシナリオAより「より悪い」とは言えません。ですから、苦痛と快楽を総合的に見たならば、シナリオBの方が望ましいということになります。すなわち、Xは存在しない方がよい、存在するべきではないというのが結論です。「生まれてくることは、生まれてこないことより、悪い」のです。

 今既に存在してしまっている私たちについて言えば「生まれてこなければよかった」のですし、未来の世代について言えば、存在する(させる)べきではありません。こうして出生の停止と抑制、中絶の推進が説かれ、人類の絶滅という我々の目指すべき将来が描かれます。

 

■ベネターの論証の誤り

 私が指摘するまでもないですが、ベネターの議論はいくつもの誤りを含む不十分なもので、その論証は失敗しています。しかし誤っているからといって、その価値がなくなるわけではもちろんありません。古来から厭世主義者たちが細々と伝えてきた反出生主義の思想を分析哲学の次元で構築しようとした試みとして、それなりに評価できると思います。また、ベネターの反出生主義が誤っているからといって、反出生主義そのものが誤っていると言えるわけでは、もちろんありません。ベネターとはまったく別の論証によって反出生主義の正しさが示される可能性は依然として残っているからです。

 引き続きベネターの議論を検証し、その誤りを指摘していきたいのですが、長くなってしまったので、今日はここまでにします。面倒なのでいつやるかはわかりませんが、いつか、ベネターの「誕生害悪論」の批判をしたく思います。「そもそも苗野さんのベネター理解が間違っている」と思われた方は、コメント欄にて指摘して頂ければ幸いです。ありがとうございました。

 

参考文献

Benatar, D.2006.Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence, New York: Oxford University Press.

*1:ベネターの用意した①と②の回答は、分析哲学でいう可能世界論を駆使したものです。そして、この考察は実は失敗しています。

*2:快楽が剥奪されるとは、どのような事態でしょうか。例えば「毎週楽しみにしていたテレビ番組が終わってしまった」「通勤のときに毎朝電車から楽しんでいた景色が、土地開発により一変してしまった」「大好きだった自転車を盗まれてしまった」といった事態でしょうか。最後の例は苦痛に該当するかもしれませんね。

*3:我々が快楽の欠如よりも苦痛の存在の方を問題視するはずだということを示すために、ベネターは面白い想定をします。我々は、火星に生命がいないことを知っても、火星に存在しなかった者たちのために、快楽を経験できなかったことを嘆き悲しむことはないでしょう。「火星の非存在者が快楽を経験できなかったこと」を嘆く人がいたなら、変人です。しかしもし火星に生命がいて、それらが苦痛に満ちた生を生きているとしたら、それを嘆く人がいても、それほど不合理ではありません。

*4:判然としないのは、ベネターが「(4)は(2)より、より悪くない」と言うとき、これは(4)と(2)はそもそも比較が不可能だから「より悪くない」と結論しているのか、それとも(4)を(2)と比べて「より悪くない」と結論しているのかが不明瞭な点です。もし比較の結果として「より悪くない」と結論しているのであれば、かなり支離滅裂な論証をしていることにならないでしょうか。というのは、(2)快楽の存在は「よりよい」better なのだが、(4)に比べて「よりよい」なのではない、としているからです。(2)に着目した説明では(4)との比較が不成立であることを示唆していながら、(4)に着目した説明では(2)と比較をしていることになります。

デイヴィッド・ベネターの反出生主義

 先日の記事の最後で、「反出生主義」なる思想があることを紹介しました。「私たちは子供を産むべきではない」という考え方であり、その根拠は論者によりさまざまです。現在その論者として特に有名なのは南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターであり、『生まれてこなければよかった――存在することの害悪』(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)によって知られています。

 

Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence

Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence

 

 

 彼の反出生主義は功利主義的な思想を土台としており、分析哲学的な手法によって導出されます。ベネターの論証の核心は「誕生害悪論」とでも呼べるもので、それは「この世界に生まれてくることは、誰にとっても、生まれてこないことより、必ず悪い」という主張です。これは、生まれてきた当人が、自分が生まれてきたことについてどう思っているかとは無関係に、論理的に成立するのだといいます。苦しみに満ちた生を生きている者はもちろん、自分の人生を幸福だと考えている者にとっても、その者の意思とは無関係に、「生まれてきたことは害悪」なのだそうです。*1

 

 もしこの主張が正しいならば、この世に子供を生み出せば、その子は生誕により必ず害悪を被ることになるわけです。つまり、出生は避けるべき非道徳的な行為ということです。ベネターによれば、誰であれこの世界に誕生(存在を開始)するべきではなかったのであり、またこの先も誕生(存在を開始)させるべきではありません。人類は出生を控え、その数を減らさなければなりません。存在=害悪は少なければ少ないほどよく、地球上の理想の人口は「ゼロ」人ということになります。荒唐無稽のように思えるこの人類絶滅論ですが、ベネターは以上のことを本気で主張しています。

 

 ベネターは人類の絶滅を「早ければ早いほどよい」としていますが、しかし全人類が一斉に出生をやめるべきだとは主張しません。というのは、急激な人口の減少は、現存している人類に大きな負担をかけ過ぎてしまうからです。人類の絶滅は必要だが、人口を不用意に急激に減らすことで、現在の世代に害悪を加えることは避けなければならない。こうして、人口減少によって人々が被る害悪をなるべく抑えながら、しかしできるだけ早く、漸進的に人類が絶滅していくべきだとするのです。*2

 

 もちろん、核兵器などにより全人類を一挙に抹殺するような解決案は、ベネターの立場からすると論外です。ベネターの議論はそもそも主体に害悪(たとえば苦痛)を加えてはならないという倫理観を根底においているので、いったん誕生(存在を開始)した人間が死に伴う精神的・肉体的苦痛を被ることは正当化されません。ただし、人格を有する生きている者を殺害することが許されないとしても、人格を有さない胎児は別です。ベネターの見解では意識発生以前(妊娠28週より前)の胎児は「道徳上の地位」を欠いているので、なるべく堕胎されるべきだとします。これは中絶容認ではなく中絶推進という立場であり、プロチョイス (pro-choice)ならぬプロデス(pro-death)の主張です。*3

 

 以上がベネターの反出生主義とその核心である誕生害悪論によって導かれる結論なのですが、ではこの結論はどのような論証によって導かれるのでしょうか。彼の議論はかなり込み入っており、全体像を捉えるのは容易ではありません。また、すでに多くの学者に指摘されているところですが、その論証は破綻しています。ただし、ベネターの議論が厳密さに欠け、誤謬を含んでいるものとしても、生命倫理をはじめとする倫理学の考察に刺激を与え得ることは間違いありません。

 

 これ以上は長くなるので今夜はここまでにして、次回の記事でベネターの「誕生害悪論」の論証のまとめに挑戦してみたいと思います。ちなみに、ベネターの『生まれてこなければよかった』ですが、日本語で出版されるらしいです。ベネターの「反出生主義」を紹介する論文をおそらく日本で一番最初に書いたのではないかと思われる森岡正博先生のツイート↓

*1:ある者にとっての幸福や不幸を問題とする議論であるのに、その議論が価値に関して主観主義ではなく客観主義を採用している点はかなり興味深いです。

*2:前回の記事でも指摘したように、出産の停止による人類の消滅は、論理的には、今生きている私たちの決断と、今妊娠している女性が産む子の決断により、二世代で可能です。

*3:ベネターの議論は、実際は人類だけではなく、感覚を有するあらゆる動物に適用されます。したがって、ベネターの人類絶滅論はより正確には「有感動物絶滅論」とされなければなりません。ベネターの熱心な支持者は、人類が絶滅する前にどのようにして他の動物たちを滅ぼすか、地球上からあらゆる野生動物を消滅させるにはどうしたらいいか、本気で考えているようです。

生命倫理と反出生主義

 2016年5月17日に、「生殖を禁止しましょう」という記事を書きました。この記事で私は、以下のような論理から、人類が生殖を控えるべきことを主張しました。

 

生殖・出産は親の利己的行為である。生まれたいかどうかという子供の自由意志を無視しているからだ。人間は生死と誕生を含む全ての活動に自由に主体的に自律的に関わるべきである。この世に生まれ出づるかどうかという、人生で一番大事な決断を他人が下すなんて言語道断ではないか。生まれるかどうかは、当事者であるところの、これから生まれる子供が決めるべき決断である。つまり、受精前の段階で、子供に、この世に生まれ落ちたいかどうか、その意志を確認しなければならない。そしてそのような対話をすることが現実できない以上、導かれる論理的な帰結としては、「生殖をしてはならない」ということになる。他者の自己決定を尊重するならば、私たちは生殖を控えなければならない。

 

 ……馬鹿げた主張かもしれませんね。不可能なことを要求する不毛な議論かもしれません。このような主張を真面目に受け取るかどうかが、大人として成熟しているかどうかの分かれ目になるのかもしれません。ですが、議論の有意義性は置いておいて、論理的な瑕疵は特に見当たらない気がします。

 何年か前から倫理学というものに興味を持ち始め、生命倫理の勉強をするうちに、疑問に思うようになりました。どんな教科書を開いても、子供をつくること、生殖の是非、我々人類が続いていくことの可否について論じたものがないことに。*1

 生殖補助医療や出生前診断、人工妊娠中絶、臓器移植と脳死の問題、終末期医療などなど、我々の生きる現代に生命倫理学のテーマは事欠きません。にもかかわらず、子供を「ただ産むこと」そのものは問題視されないことが不思議でならなかったのですよね。生命を特殊な手段でつくることは問題になるのに、生命を夫婦の自然な行為でただつくることは問題にならない。障害のある子が生まれる可能性がある場合、生殖は重いテーマになるのに、障害のない健康優良児が生まれるであろう場合、生殖はテーマとならない。終末期の生き方や治療方針の選択において、自己決定は重視されるのに、誕生の場面においては自己決定は重視されない。そうした事態が不思議でならなかったのです。

 おそらく、生まれる前に、生まれたいか生まれたくないかを問われたことのある者はどこにもいないでしょう。同意の上でこの世界に産み落とされた者は過去一人たりともいなかったと思われます。他者の自己決定を人類が最初から尊重していたら、人類は最初の一世代で途絶えたでしょう(もちろん、「最初の一世代」などというのは比喩に過ぎず、人類の最初の一世代目と、人類に進化する一つ前の種の最後の一世代との間に線引きをすることなど進化生物学的に不可能です)。これもくだらぬ比喩ですが、生殖が許されるのは「神と動物だけ」であると思っています。

 もし私の論理が広く受けれられれば、人類は緩やかに衰退し、やがて消滅することになります*2。(人類の自己消去は、論理的には、今生きている私たちの決断と、今妊娠している女性が産む子の決断により、二世代で可能です)。苗野さんが以上の主張を本気で実現すべきと唱えているのか、それほど本気ではない机上の考察なのか、そのあたりは読む方の解釈に委ねるものとしてぼかしておきます。

 そんなわけで、産むことの是非、生殖の是非に関する疑問を去年の5月に「生殖を禁止しましょう」という記事にしたのですが、その後に「反出生主義」(アンチ・ナタリズム anti-natalism)という思想があることを知りました。それは「人間は生まれてくるよりも、生まれてこない方がよかった」というペシミズムの思想です。中でも近年特に脚光を浴びているのが「生まれてこなければよかった」という命題に分析哲学の手法から綿密に考察を加えた南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターです。ベネターも子供を産んではならないこと、地球上の最適な人口はゼロ人であること、したがって人類は緩やかに絶滅すべきことを説くのですが、その根拠は私のそれとはまったく違うものでした。根拠が違うわけですから、私の理想とする世界とは重大なところで相違点もあり、対立するところもあります。

 ベネターがどのような根拠からそのように説くのか、主流の反出生主義*3の思想がどのようなもので、私の考える反出生主義とはどのように異なるのか、後日、私なりにまとめてみたいと思います。

*1:教科書ではないのですが、古牧徳生、他『神と生命倫理晃洋書房で、以下で紹介するデイヴィッド・ベネターの「反出生主義」が考察されています。次田憲和(2016)「われわれは「存在」しなかった方が善いのか?――「反出生主義」の形而上学的分析」

*2:予備校に通っていた頃、小論文の先生に真面目にこの話をしたら、「君の言うようにしたら人類絶滅しちゃうじゃん」と驚かれました。しかし、「人類絶滅しちゃうじゃん」と返すからには「人類がなぜ絶滅してはならないのか」その理由を説明しければならないはずと思います。

*3:主流の、というのは私の反出生主義(私の考え方を「反出生主義」と呼んでよいのならば)を非主流のものとした上での分類です。

再開します

苗野です。お久しぶりです。

 

 前回の記事を書いてから、まったく更新しないまま、1年2ヶ月という月日が過ぎてしまいました。なぜ更新をサボっていたかといいますと、単にその気になれなかったからですね。まとまった文章を外部に発信する気力が起きなかったからだと思います。twitterはサボることなくほぼ毎日、一生懸命真面目にやっていましたので、何も発信していなかったわけではないのですけど。

  ええと、去年(2016年)の4月に獣医学部に入学したので、苗野さんは現在(2017年9月)獣医学部2年生ということになります。平日はひたすら自宅と大学とを往復し、交友関係は少なく、サークルには名前だけ登録して顔を出さず、休日はゴロゴロしたり出掛けたり、試験前は人並みに焦り……と言葉にするととてもつまらぬ大学生活を送っています。

 私は特に趣味もなく、幼少期から続けているような習い事もありません。ゲームもやらないですし、料理もたいしたものはできず、お酒もあまり飲めないですし、ギャンブルも鉄道もアイドルも知りませんし、プラモデルにもフィギュアにも興味ありません。(漫画を細々と読んで、ドラマや映画をたまに観るくらいですが、漫画や映画なんて趣味とは言えないよねと思っている人です)

 そんな私が楽しいと思える日々の営みは、学ぶことくらいです。広く浅く、色んな勉強をして、新しい知識を吸収しています。それだけはとても楽しく思えます。最後の記事を更新してから1年2ヶ月、色んなことを学びました。そして、大変月並みなことを言いますと、学べば学ぶほど、自分の無知さ加減を痛感します。たくさんのことを学んだつもりではあるのですが、それでも私の知識など、世の中の膨大な知の総量に比べると、ほとんど無に等しいと言えるのかもしれません。まだまだ知らないことがたくさんあり、新しいことを学ぶことができるというのはうれしいことですね。同時に、人生はとても短く、生涯に学ぶことができる量などたかが知れているというのはさみしいことでもありますね。

 

 長い空白期間がありましたが、本日よりブログ「ピラビタール」を再開致します。獣医学生が日々の勉強の記録を綴るブログというのも、きっと誰かにとって価値があることだろうと信じて。あるいは価値がなくても、自分のために。どうぞよろしくお願い致します。