ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

「動物の権利」の混乱と整理

昨日の記事で「道徳的地位」なるものが意味するところを整理した。

動物の道徳的地位についての整理 - ピラビタール

続いて、「動物の権利」という語の意味するところについて、整理する。ある者は動物の権利を動物福祉と同様の意味で捉え、またある者は基本的人権と同様の不可侵の権利と考える。このように同じ言葉を論者によって異なる意味で使っていては混乱を呼ぶばかりである。というわけで今回の記事でその意味を整理しておきたい。動物に権利があると言うとき、その人は何を主張しているのか。昨日の記事と同様、デヴィッド・ドゥグラツィアの『動物の権利』を参考にする。ドゥグラツィアは動物の権利の意味を3種類に分けて解説する。

 

①道徳的地位の意味
②平等な配慮の意味
③功利性を乗り越える意味

 

「動物の権利」という語で意味するものを、弱いものから強いものへ順に並べると、上のようになる。「道徳的地位の意味」における権利はもっとも弱い権利概念であり、「功利性を乗り越える意味」における権利は強い権利概念である。今回はこれに第四の権利の意味「④市民権の意味」を加え、解説を試みる。

 

第一の「道徳的地位の意味」としての権利とは何か。これは権利という用語のもっともルーズな使用法と言ってよい。ある者は、動物が単に道徳的地位をもっているという意味で「動物の権利」という語を使用する。昨日の記事で述べたように、畜産農家動物実験従事者も、動物に道徳的地位があることを(少なくとも表面上は)認めている。産業動物や実験動物は、たとえ人間に対するよりも少ない倫理的配慮にしか値しないとは言え、それでも一応は倫理的配慮に値する存在として、5つの自由や3Rといった福祉を適用される。したがって、このルーズな使用法では、「動物の権利」を提唱することはまったくラディカルでないし、動物福祉論者でさえ、「動物の権利」を支持しているということになってしまう。

 

通常、本来のアニマルライツ論者はこのような意味で「動物の権利」という語を使用することはない。しかし古い本を開くと、このような意味で「動物の権利」という語が使用されていることがある。

食肉用に育てられる鶏・豚・牛は、自然環境から切り離され、工場のような狭い空間に詰め込まれ、自由を奪われ、薬品が混ざった合成飼料を食べさせられている。これは、動物にとっては、快適な生活とはいえない。仮に、人間がこれらの動物よりも高次の価値の高い生活をしており、そのために動物の命が犠牲になってもやむをえないにしても、もっと自然に近い状態で育てられるべきではないか、その程度の権利は動物に認めるべきである、と「動物の権利」を主張する学者はいう。

 

泉谷周三郎、大久保正健『地球環境と倫理学〔改訂版〕』木鐸社

明らかに、「もっと自然に近い状態で育てられるべきではないか」と訴えるのは、通常の意味で「動物の権利」を主張する学者ではない。当時は(特に日本では)まだ概念の混乱があったのかもしれない(本書刊行は1993年、改訂版は1998年)。また認定NPO法人アニマルライツセンターにも、以下のような質問が届いており、興味深い。

 

なぜ動物解放(アニマルライツ)をかかげながら、動物福祉運動をするのですか?

 

第二の「平等の配慮の意味」における権利概念はより厳格である。ある対象がこの意味の権利をもっていると主張することは、対象が平等な配慮に値するということを訴えている。イヌが人間と平等な配慮に値するとは、苦痛を与えられないというイヌの利益が、苦痛を与えられないという人間の利益と同じくらい道徳的に重要だということだ。動物を医学実験に利用してはならないという倫理的要請は、人間を医学実験に利用してはならないという倫理的要請とまったく同等の重みをもつ。であるから、動物福祉に配慮された動物実験を肯定する者は、「動物は道徳的地位をもつものの、平等な配慮には値しない」と考えている。つまり、「道徳的地位の意味」では権利をもっているが、より厳格な「平等な配慮の意味」においては権利をもっていないと考えている、ということになろう。

 

第三の「功利性を乗り越える意味」としての権利は、もっとも厳格な意味での権利であり、いわば「不可侵の権利」を意味する。この権利は、個体の核心的な利益の絶対的な保護を要求する。特別な状況では、ある者の権利を侵害することによって、社会の功利性(公益、善の総和)が最大化されるということが、あり得るだろう。不可侵の権利の考え方に基づけば、たとえある者の権利を侵害することが社会の善の総和に貢献するとしても、侵害してはならない。ある者をより大きな善のために利用することができるような状況でも、無関係に保護されなければならない権利が、「功利性を乗り越える権利」なのである。

 

たとえばピーター・シンガーは人間と動物に対して平等に配慮すべきことを訴えるが、功利性を乗り越えるような権利の不可侵性までは支持していない。

人間を拷問にかけることはほとんどつねにまちがっている。しかし、絶対的にまちがっているわけではない。もし、ニューヨーク市の地下に隠された一時間以内に爆発する時限核爆弾のありかを知るために、拷問が唯一の手だてであるという極限状況を想定してみるならば、拷問は正当化されるであろう。同様に、ひとつの実験によって白血病のような重要な病気を根絶するための手がかりが得られる場合には、その実験は正当化しうるだろう。
……
もし本当にひとりだけの人命を犠牲にすることによって多くの人命を救うことができて、他のやり方では多くの人命を救うことができないような場合があるならば、実験を行うことは正しいであろう。しかしこれは極端にまれなケースであろう。このカテゴリーに入るのは、現在動物に対して行われている実験の1%の10分の1以下であろう。……


ピーター・シンガー『動物の解放』

したがって、シンガーが権利を支持しているとしたら、それは「平等の配慮の意味」における権利である。注意すべき点は、シンガーはここで人と動物との間に扱いの差を設けていないという点だ。利益は人であろうと動物であろうと平等に配慮される。そして(しかし)、「功利性を乗り越える意味」での不可侵の権利は、動物であろうとも人間であろうとも否定するのである(つまり、功利性のためとあらば、権利は平等に無視される)。

 

確かに、人間でさえ、この第三の意味における権利を持っているかどうかは議論の余地がある。例えばある者が高い致死率と強い感染力をもつ感染症に罹患したとき、国家が当該感染症の患者を医療機関に強制的に入院させ、その自由を制限することは、正当化され得るかもしれない。

 

最後に、動物の権利の第四の意味、「市民権」についてごく簡単に紹介する。これは政治哲学者ウィル・キムリッカとスー・ドナルドソンが『人と動物の政治共同体』(原題は Zoopolis)で論じた、政治学領域から輸入された権利概念である。

 

第二、第三の意味での権利が主張するのは、もっぱら動物の「消極的権利」である。消極的権利は、「~されない権利」として定式化される、他者に不作為を要請する権利である。これは自己の生存と安全に対する保護の要求であり、具体的には虐待されない権利、監禁されない権利、食用にされない権利を含む。他には、医学研究や教育に使われない権利、妊娠と出産を強制されない権利なども含むだろう。一般的な意味での動物の権利論は、動物にこれらの消極的権利を承認することを求め、我々が動物の搾取から手を引くことを要請するものである。

 

キムリッカとドナルドソンは、これらの権利を不可侵のものとして動物に承認すべきことを支持した上で、それでもなお、これだけでは正義に基づいた人間と動物の相互関係のモデルとしては不十分であると異議を唱えた。キムリッカは「~してもらえる権利」として定式化される「積極的権利」を動物に認めるべきことを主張し、特に家畜動物のそれをシティズンシップ(市民権)と呼んだ*1

 

動物の積極的権利たる市民権は、自由な移動への権利、政治的意思決定に動物に固有の善や関心事を反映させる権利、医療ケアや福祉のための資源を平等に利用する権利などを含む。であるから、我々にはそれに対応した積極的な義務が課せられることになるであろう*2それは、人間に依存することになった動物たちの世話をする義務、動物のニーズを考慮にいれて建物や道路や近隣環境を設計する義務、傷つけられた動物を救護する義務などを含むだろう。

 

キムリッカの提起する「動物の市民権」は動物倫理の最新の理論であり、応用倫理学政治学領域とを架橋するものである。動物の市民権という考え方は荒唐無稽に思われるかもしれない。それどころか、日本では動物の(消極的)権利も荒唐無稽な妄言だとして退ける人が多い状況であり、動物福祉の考え方すらも十分に浸透していない。だから、これが動物の権利にふさわしい見解として受容されるには気の遠くなる年月を要するだろう。だがこれを「功利性を乗り越える意味」としての動物の権利よりさらに強い、動物権利論のさらなる展望として紹介しておくことは、意義のあることだと信じる。

 

地球環境と倫理学

地球環境と倫理学

 

  

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

*1:キムリッカは動物を家畜動物と野生動物、その中間的存在である境界動物とに分類し、それぞれに応じた積極的権利を論じている。正確に言えば「市民権」は家畜動物に付与されるべき積極的権利であり、野生動物と境界動物にはまた別の積極的権利が付与されるべきだとする。キムリッカの議論の全体像の解説はまたいつか別の日に。

*2:消極的権利が他者に不作為を要請する権利であるのに対し、積極的権利は他者に何らかの作為を要請する権利である。虐待されない権利は消極的権利であり、食糧や居住の援助を受ける権利は積極的権利である。

動物の道徳的地位についての整理

今回の記事と次回の記事で、道徳的地位や道徳的権利といった混乱しがちな概念を整理します。参考図書はデヴィッド・ドゥグラツィア『動物の権利』です。よろしくお願いします。

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

道徳的地位とは、「倫理的な配慮に値する地位」のことである。例えば、この記事を読んでいるあなたは道徳的地位を確実に有する。言われなき危害を加えられたり、不当に利益を奪われてはならない。それに対して、あなたの手元にあるスマートフォンは、道徳的地位をもたない。私たちはスマートフォンを丁寧に扱うだろうが、それはスマートフォンに壊れてほしくないからである。スマートフォンが不要になれば、精密機器に興味のある人は分解してみたくなるかもしれない。スマートフォンは分解されたとしても、何らかの非倫理的な扱いを受けたとは言えない。意識や感覚のない存在を、倫理的に意味のある形で害したり益したりすることは不可能である*1

 

ある対象が道徳的地位をもつとは、「対象がその対象自身の資格において配慮に値する」ということを意味する。例えば、「イヌを虐待してはいけない」という見解を共有している3人がいるとしよう。一郎は、イヌを虐待してはならないのは、そのイヌの所有者の財産を傷つけるからだと考える。二郎は、イヌを虐待してはならないのは、イヌを虐待することによって残酷さという悪徳を自身の中に培い、やがて人に対しても残酷になるかもしれないからだ、と考える。そして三郎は、イヌを虐待してはならないのはイヌ自身に謂れなき危害を加えるからだ、と考えている。

 

3人の中で、イヌに道徳的地位が備わっていると考えているのは、三郎だけである。一郎は、イヌを虐待してはならない理由を、他人のスマートフォンを壊してはならない理由と同程度にしか考えていない。それは、他人に不利益を与えてはならないという判断の範疇でしかない。二郎は、動物虐待は、人間を虐待するような人間を育ててしまうという理由で良くないと考えている。二郎が動物虐待に反対する理由も、やはり人間の利益を根拠としている。一郎も二郎も、動物の利益が独立した道徳的意義をもち、動物が動物自身の資格において配慮に値することを認めておらず、三郎だけがそれを認めている。

 

今日、動物が道徳的地位をもち、動物自身の利益が人間の利益とは独立して配慮されなければならない、という考え方を、良識ある多くの人は支持する。畜産農家動物実験従事者も、この考え方を支持している(少なくとも支持していることをアピールしている)。だが、動物の利益がどの程度配慮されなければならないのか、という点において、アニマルライツ論者と衝突する。

 

ある見解に従えば、動物の利益は動物自身の資格において倫理的に重要であり、配慮されなければならないが、人間の利益の重要性を下回る。したがって、正当な理由があれば――ここで言う正当な理由とは、新しい化粧品の毒性試験をする企業利益も含むほど広く解釈される――人間の利益のために動物の利益を犠牲にすることはやむを得ない。これは、「動物福祉」の考え方の根底にある価値観である。動物福祉は人間が動物を利用し、殺すことを否定しない。だが、その過程で動物が感じる苦痛をできる限り軽減・除去しようと努める。

 

別の見解――アニマルライツの見解――に従えば、動物の利益は人間の利益と同程度に重要であり、配慮されなければならない。苦痛を避け、監禁から自由であることの利益は、動物だろうと人間だろうと大きな違いはない。したがって、人間の利益のために動物の利益を犠牲にすることは道徳的に正当化し難い。ここまでの考え方をわかりやすくチャートにまとめたので、参考にしてもらえれば幸いである。

 

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*1:そのスマートフォンが誰かの所有物ならば、それを壊すことはその人に対する危害になり得る。ただしその場合も、スマートフォンその物に対する危害ではなく、その所有者に対する危害である。

「動物に権利はあるか」 by ジェームズ・レイチェルズ

先日のとある講義で、動物の権利論が「極端だ」「過激だ」という表面的なコメントだけで退けられるのを聴いた。動物の権利論の要求にしたがえば確かに我々の社会は抜本的な改革を余儀なくされるし、獣医師の職域も大きく狭まるだろう。その意味では過激に聞こえるのかもしれない。しかし過激に聞こえるということはそれが論理的に誤っていることを意味しないし、それだけ現状が理想からかけ離れているということの証左なのかもしれない。少なくとも、過激だという一言で退けるのでなく、動物の権利論のどこがおかしいのか、論理的な誤りにも言及してほしいものである。別の大学の講義ではまた違ったコメントを期待できるのだろうか。

 

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

 

 

 というわけで、動物の権利論について、何回かに分けて紹介していきたい。動物の権利運動では、ピーター・シンガーがその草分け的存在として挙げられるのが一般的だが、それは厳密には正確ではない。シンガーの『動物の解放』を皮切りに運動が活発化したのは事実だが、シンガー自身は「権利」という概念をあまり重視してはいなかった。動物の権利論の代表的な論者としてまず名前が挙がるのはトム・レーガンだろう*1。しかしレーガンの提起する権利論はアカデミックに過ぎる内容になり一般読者を寄せ付けにくい(そして日本語に翻訳されている著作も一冊もない)。なのでトム・レーガンの理論についてはいつか解説することにして、今回は、ジェームズ・レイチェルズによる論証を紹介したい。レーガンのような哲学者の提唱する理論に比べ、レイチェルズの考え方は非常にシンプルである。

 

動物に権利はあるのか。こうした抽象的質問にどのようにして答えてゆけばよいのかは難しい。だが、次の方法が有望と思われる。

(1)まず、人間が有するとわれわれが確信している権利を一つ選ぶ。

(2)それから、われわれがその権利を人間には認めるが、動物には拒否するのを正当化するような適切な相違が、人間と動物の間にあるかどうかを問う。

(3)仮にそうした相違がないのなら、その権利は人間と同様、動物にもある。

 

  この方法は、9月9日に記事にした'Treat like cases alike.'という原則、すなわち「似たような事例は、似たように扱わねばならない」という正義の要求を理論的根拠としている。人間には認めるが、動物には拒否するのを正当化するような適切な相違とは、当該記事で解説した「道徳的に重要な違い」のことである。そのような重要な違いが両者の間にないならば、両者を違った仕方で扱うことは容認されないというわけだ。

 

 白人男性に認められている権利を何か思い浮かべてみよう。それは不当に逮捕や拘禁をされない権利でもよいし、医療や介護などの福祉のサービスを受ける権利でもよい。ところでこれは、白人男性にのみ認められる権利だろうか。白人男性は、確かにそうでない人々と相違がある。例えば黒人とは肌の色が異なる。だが肌の色の違いは、白人にはこれらの権利を認めるが、黒人には拒否するのを正当化するような適切な相違になったりはしない。また、白人男性は女性とは性別が異なる。しかしやはり、性別の違いがこれらの権利を男性には認め、女性には認めないことを正当化する適切な相違となるはずがない。そうしたわけで、上記の権利は白人に限定される権利でもないし、男性に限定される権利でもないのである。

 

 ここで前提とされていることは、人種や性別といった形式的な相違以外に適切な相違が見当たらない限り、両者を別扱いすることは道徳的に許容されないということだ。女性に生理休暇が認められており男性には認められていないのは、単に性別という形式的な相違からではなく、「女性には生理があるが男性にはない」という適切な相違があるためである。以上の論理を敷衍して、もし我々がある権利を人間に認めながら、他の種の成員には認めないならば、動物種という形式的な相違以外に適切な相違を指摘できなければならないと言うことは理に適っているだろう。「存在するものの属する種がただ異なっていること、このことだけでは、そうした存在を違った仕方で扱うことを正当化するのに十分な要件とはならない」。*2

 

 レイチェルズの方法には重要な利点がある。この方法にしたがえば、あらゆる動物とあらゆる権利とを十把一絡げにしてしまう弊害を避けることができるという点である。ある特定の権利に関しては、人間と動物とに適切な相違がないため両者に共有されるが、別の権利に関しては適切な相違があるために人間には認められて動物には認められない、ということがあるだろう*3

 

 この方法にしたがって、動物がもつと思われる権利をいくつか特定してみたい。まず「虐待されない権利」について考えてみよう。すべての人間は虐待されない権利を有する*4。これを人間だけの権利とする根拠があるだろうか。虐待されて苦しむのは人間だけではない。もちろん人間と人間以外の動物には多くの相違がある。例えば人間は数学の問題を解くことができるが、ウサギはできない。人間は法律の条文を覚えることができるが、イヌにはそれができない。しかし、これらのことが「虐待される」ということとどう関係するのか。虐待されないことが人間にとって重要なのは、人間に痛みを感じる能力があるからであり、数学や法律を学ぶことができるからではない。「なぜ人間を虐待することは間違っているのか?」と問われれば、我々は「虐待によってその人が苦しむから」と考えるだろう。そこで数学の能力や法律の条文を覚える能力を理由に挙げる者はいないはずだ。ウサギもイヌも痛みを感じ、苦しむことができる。虐待されないということについて動物にも人間と同様の基本的利益があり、したがって、'Treat like cases alike.'の原則から、虐待されない権利は苦痛を感じることのできる動物にも共有されている、とレイチェルズは論じる。

 

 それに対して、宗教を自由に信仰する権利、礼拝する権利はどうか。レイチェルズはこの権利は人間だけに属し、動物にはないと言う。というのは、人間だけが宗教を信仰したり礼拝したりする能力をもつからである。すなわち、宗教を信仰する権利に関しては、人間と動物との間に適切な相違があるということだ。

 

 同様の方法により、レイチェルズは動物に自由権――ここで言う「自由」とは、ある存在が、自らの行動に対して外部からの強制に従属することがないような状態を指す――も認められなければならないことを力説する。人間にとって、外部から行動を制限されることはそれ自体が苦痛であり、また行動の不当な制限によりさまざまな利益が損なわれるがゆえにも苦痛である。これらの苦痛は行動を制限された多くの動物に当てはまるであろう。それは、B5用紙サイズほどのバタリーケージで飼育される採卵鶏や、自然の生息地から動物園に移送された飼育動物が、その不快とストレスゆえに罹患する疾病や彼らが繰り返す異常行動を観察すれば明白である*5。むろん、これらの指摘は飼育される動物を一切の物理的な拘束から自由にすることを要求するものではない。例えば鶏がストレスを抱えることなくその生理的欲求を満足させることが可能な適切な面積というものがあるだろう。どの程度の自由な区画が与えられていれば鶏が利益を侵害されないかは、倫理学の領域ではなく、動物行動学とアニマルウェルフェアに関する別途の研究が必要となるだろう。

 

 動物の虐待されない権利と自由権を認めたとして、尚未解決の倫理的問題が残っている。それは、動物に「生存権」が認められるのかという問題である。端的に表現すれば、動物を殺すことは許容されるのかどうか、という問いである。もし、許されないのはあくまで動物を苦しめることであって殺すこと自体ではないのだとしたら、動物を虐待することなく快適な状態で飼養した上で、無痛で死なせることは倫理的に許容されよう。であれば、理論上は、人道的に飼養され人道的に屠殺された牛や豚の肉ならば――我々がスーパーマーケットで出会うそれは決してそうではないのだが――食しても良いということになろう。

 

 では、人間には生存権があるが、動物には認められないと考えてよい適切な相違があるだろうか。レイチェルズの挑発的で露骨な表現を引用すれば、「人間以外の知的な動物よりも劣っている重度の精神遅滞の人に生存権があるのに、動物にはないとする理論的根拠とは何であろうか」。哲学者たちはこの問いを「難問」として取り組んできたが、実際はこれは難問などではなく、満足のいく解答などないのだとレイチェルズは述べる。もし人間には生存権があるが動物にはないと直観が言うのなら、その直観が間違っているのだと。

 

 この点については、我々が生存権によって保障される利益とは何か、すなわち「生きている」という状態から得られる利益は何か、そしてそれらの利益を動物は享受していないのかを検討してみるとよい。9月17日の記事「死は危害か?」において、私は機会剥奪説を支持した。人間は、生き続けることによって、喜びや満足など、経験の質を高める貴重な機会をもつことができる限りにおいて、生きることから利益を享受する。死は、死ななければ享受し得たであろう様々な貴重な体験を奪うがゆえに、損失となる。当然ながらこれらの事実は多くの動物にも当てはまる。したがって、我々の生存権の根拠が我々が生き続けることから得られる利益に根差すならば、喜びや満足を経験することのできる多くの動物――大部分の脊椎動物が含まれるだろう――もまた生存権を有するということになる。

 

 「人道的に飼養され、人道的に屠殺したならば……」という問いはあくまで理論上のものであり、現実にはあり得ない想定であるものの、これに対しては、人間と共有される権利であるところの動物の生存権の侵害なのだというのが回答になろう。

*1:井上太一さんの翻訳の努力により、ゲイリー・フランシオンも有名になったと思われる。

*2:種差別の議論に対し、「植物は食べてよい」とするのは植物に対する種差別ではないのかという批判がしばしば寄せられる。この問いには、存在するものの属する種がただ異なっていること、このことだけで別扱いすることが種差別にあたるという回答が適切であろう。虐待されることや監禁されることに対して、人とウシ、人とブタに適切な相違は存在しない。だが、ウシやブタと植物との間には適切な相違が存在する。したがって、植物に対して、我々は存在するものの属する種がただ異なっていること、このことだけで別扱いしているのではない、と言えるのである。

*3:なお、レイチェルズの指摘するこの方法の限界は興味深い。この方法にしたがっても、動物がもつすべての権利を特定できる保証はない、と言うのである。なぜならば、人間にはないが動物にはあるであろう何らかの権利があるということが、論理的には可能だからである。そうした権利が仮にあるとしたら、この方法では特定できないだろう。

*4:世界人権宣言第5条。

*5:同じところを何度も行き来したり、首を左右に振り続けるなどの動作を反復する異常行動を常同行動と呼ぶ。

道徳、一貫性、矛盾について

「正直になりなさい」「人に親切にしなさい」「約束を守りなさい」――こうした道徳的な命令をされると、私たちは「あなたがそれを言うのか?」「この人にそれを言う資格があるのか?」と反発することがある。自身も嘘つきなのに、他人に対して「正直になりなさい」と言う人。自身も約束を破っているにもかかわらず、「約束を守りなさい」と説く人。汚職に手を染めた過去がありながら、政敵の汚職を批判する政治家。

 

私たちは道徳に関する要請をする人の道徳的資格に敏感であり、その人が潔白でなければ要請する資格はないと感じてしまいがちである。あるいは、自分自身の道徳的資格に敏感な人もいるだろう。他人のいかがわしい行為を見て、それを批判しようとした矢先に、自分も過去に同様のことをしたことを思い出し、批判するのを思いとどまった人もいるのではないか。

 

しかしよく考えてみれば、ある発言の正しさは、発言者の振る舞いに関係がない。「1+1=2である」と言ったのが最低の人間だったとしても、1+1=2という真理は揺るがない。「罪のない人を殺すのは許されないことだ」という発言が脱獄した快楽殺人者のものだったとしても、その発言内容が正しくなくなるわけではない。

 

これから空き巣に行こうと思っている人でも、空き巣をしようとしている同業者を見て「やめなさい」と咎めるのは正しい。ひったくりの常習犯でも、ひったくりの現行犯を捕まえて「あなたはとても不正なことをした」と叱責するのは正しい。この人もひったくりなのだから他人を叱責する資格などない、と私たちは思いたくなるが、それは感情論でしかない。問題はただその叱責が相手の心に響くかどうかという実際的な話である。

 

けれども、一点だけ強調しておきたい。道徳に関わる発言は、その発言者に特定の義務を課す。ある場面で、Aさんが「あなたはXすべきである(すべきでない)」と述べたなら、Aさんは、その後のあらゆる同様の場面で同様にXする(しない)という義務を自身に課したのである。これが一貫性の要求である。

 

「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人を注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課した。「人の陰口を言ったらダメだよ」と言った彼女は、自身に「人の陰口を言ってはならない」という義務を課した。「高齢者に席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意しておきながら、自身は立っている高齢者を前に寝たふりをしていたら、一貫性の欠如、態度の矛盾の謗りを免れないだろう。

 

「自身が同様のことをしているくせに、他者を批判するのか」という批判は前後を逆にすべきで、「他者を批判しているくせに、自身も同様のことをするのか」と問わねばならない。路上喫煙者が路上で喫煙している者を注意したならばその矛盾を笑われるかもしれないが、ここで重要なことは、「自身も路上で喫煙しているのに路上喫煙者を注意する」という行為がいけないのではなくて、「路上喫煙者を注意しているのに自身も路上で喫煙する」という行為がいけないという点である。

 

したがって、この路上喫煙者に対して私たちが言うべきセリフは、「あなたに他人を注意する資格はない」ではなく、「他人を注意するからにはあなたもやめなさい」である。同じことをしているあなたに人を非難する資格などないと反発し、言葉を封じようとするならば、whataboutismの誤謬*1を犯すことになってしまう。

 

■一昨日の記事への追記その2

一昨日の猫のヴィーガン食の記事について。

「猫にヴィーガン食を…」と非難する人々は、猫と暮らすヴィーガン以上に困難なジレンマを突き付けられているのではないか。自身の発言を誠実な道徳判断たらしめるには、少なくとも、上記のような飼養管理を経て生産された食物の摂取を拒否しなければならない。拒否できないならば、発言を撤回すべきであろう。

一昨日の記事で私はこう書いたが、正確にはジレンマではなく、トリレンマであった。すなわち、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を理由に猫にヴィーガン食を与えることを非難する者は*2、第一に、動物の本来の生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理のすべてを批判し、それへの支持・加担を拒否するか。第二に、非難を撤回するか。そして第三に、自身の一貫性のなさ、態度の矛盾を認めて開き直るか。この三者択一を迫られている。

 

だが、第二の選択肢をとる必要はないと私は思う。「猫を植物由来のフードで飼養するべきではない」という主張には現時点ではそれなりに根拠があり、撤回すべき非難というわけではない*3。発言者が一貫性や誠実さを大切にするならば、非難を撤回するのではなく、第一の選択肢をとるべきであろう。つまり、猫にヴィーガン食を与えて飼養するヴィーガンを批判しつつ、自身もそうした飼養管理への加担をやめればよい。批判者が肉食者ではなくヴィーガンであるなら、一貫性の欠如、態度の矛盾を指摘されることもないだろう*4

 

最後に。このトリレンマの存在自体を否定する議論も可能ではある。それは、「そもそもそれとこれとは別の事例である」ということを示す議論である。「高齢者には席を譲らなきゃダメだよ」と友人に注意した彼は、「同様の場面で高齢者には席を譲らなければならない」という義務を自身に課したわけだが、同様ではない場面では、席を譲らないという選択が正当化される可能性も十分にある。例えば、立ち上がれないほど体調が悪かったなら、譲らずに座り続けることも許容されるかもしれない。

 

「同様の事例においては同様の判断を下さなければ、矛盾を犯したことになる」という点に異議を唱える人は滅多にいないが、「それとこれとは同様ではない」と異議を唱える人は多い。猫の食性に憂慮していながら牛や豚の食性に無関心であることを非難された者は、「ペットである猫と食用の家畜である豚や牛は別なのだ」と反発したくなるだろう*5。と言うより、この問題は結局のところここに帰着するのだろう。ペットとされる動物と家畜とされる動物とでは、道徳的に重要な違いがあるのだろうか*6。それとも、彼らに道徳的に重要な違いはなく、同様に扱うべきなのだろうか。この点についてはまた日を改めて議論するが、気になる人はとりあえずtreat like cases alikeの原則を読んでみてもらいたい。

*1:そっちこそどうなんだ主義。wikipediaで調べて下さい。

*2:これに関して、猫へのヴィーガン食を非難する理由はそこではない、という反論が見られた。脚注5を参照。

*3:というより、もしここで「非難を撤回せよ」と迫るならば、それこそwhataboutismの誤謬を犯すことになるだろう。「家畜の悲惨な飼養管理に加担している以上、猫の飼養管理に口を出すな!あなたにそんなことを言う資格はない!」という暴論になってしまう。しかし、それは私の趣旨とはかけ離れている。

*4:実際に、猫に植物由来のフードを与えるヴィーガンを批判するヴィーガンはいる。私は、このような人は一貫していると思う。

*5:その他、一昨日の記事に対して向けられた批判は

・「猫にヴィーガン食を与えるなどとんでもない」と言う人は、「動物が本来もつ生理学的・栄養学的特性を無視した飼養管理をすることは許されない」からそのように非難しているのではない。「自分の子供にまともな食事をさせないこと」や「人間の行動原理である道徳を動物にまで押し付けていること」を非難しているのだ。

・猫にヴィーガン食を与えることを問題視する人は、「動物虐待を批判するヴィーガンが、猫にヴィーガン食を与えるのはどうなのか」と言っているのだ。私たち自身の行為は今問題にしていない。

など…

*6:厳密には、ペットと家畜という区分は正確ではない。「人の飼育管理下に置かれる動物」が家畜の本来の定義なので、私たちがペットと呼ぶ犬や猫も本当は家畜に含まれる。

昨日の記事への追記

昨日の記事 「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という判断について が賛同・批判を含め思いのほか反響がありました。いくつかの誤解が生じていたようなので、その説明を含めて、補足的に追記します。

 

まず私は、猫をヴィーガン食で飼養することの是非について、記事内では極力言及を避けています。それは、私が最新の調査・研究をフォローできていないためです*1

 

昨夜の記事のテーマはそこではなく、「猫をヴィーガン食で飼養するなんてとんでもない」と憤る人たちが、他の動物に対してはどのような態度でいるのかを明らかにすることが狙いでした。「猫にヴィーガン食を与えるべきではない」という主張には確かに栄養学的な根拠があります。しかし、猫についてはその「本来の食性」をことさら重視していながら、牛や豚や鶏の「本来の食性」に彼らがどれだけ無関心なことでしょう。猫へのヴィーガン食の給餌を「虐待だ」とまで非難するアンチヴィーガンの人たちが、食用にされる動物に対する虐待に等しい飼養に無関心であること、そのダブルスタンダードの指摘が、昨日の記事の趣旨でございます*2

 

私は、以下のぶめすさんの発言に強く賛同します。

 

 

質問箱に寄せられていた質問に回答致します。今後、回答が長くなりそうな質問に対しては、ブログ記事にて回答したく思います。(未回答の質問が貯まっています。待たせている人、ごめんなさい)

 

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まず、私が「家畜の不適切な飼養管理を糾弾」しているというのは、半分正しく、半分間違っています。確かにウシやブタの悲惨な飼養を私は許容できませんが、その飼養方法が著しく改善したとしても、つまりアニマルウェルフェアに十分に配慮された飼養管理へと移行したとしても、やはり許容できるとは思われません。

 

ですので昨日の記事で最後の方に書いた「そうした飼養管理を経て生産された肉や鶏卵や牛乳は、購入を控えるべき」という記述は、誤解を招くものだったかもしれません。これだと、「自然放牧で健康的に過ごしている乳牛から絞った牛乳を買いなさい」「放し飼いにされた鶏の卵を購入しなさい」と訴えているように読めてしまうからです。しかし、それは私の本意ではありません。

 

とはいえ、「人道的に飼養された家畜でもダメ」という主張はかなり反発を呼ぶもので、ここに書くとまた長くなってしまうと思いますので、日を改めて論じたく思います。今日はこのへんで勘弁して下さい。

 

(少なくとも現在)猫の栄養要求を満たすことが可能か不明なヴィーガン食を猫に与えることは不適切であると思うのが自然な流れではないですか?」についてですが、下の脚注にも書いてある通り、「現時点では積極的に支持はできない」というのが私の立場です。ただ同時にヴィーガンのキャットフードが開発されている旨の記事も最近よく見かけ、期待しつ注視しているというのが現状での回答になります。

*1:改めて明記しておくと、私は「現状の知識では積極的に支持はできない」という立場です。しかしながら、昨夜の記事でも触れた通り、植物由来のフードでも問題ないという証拠が蓄積しつつあるようです。たとえば、Vegetarian versus Meat-Based Diets for Companion Animals

*2:もちろん、肉食者の誰もが家畜の福祉に無関心であるとは思っていません。家畜の福祉に関心をもち、改善を図る人々が肉食者の中にも一定数いることを理解しています。