ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

獣医学と動物倫理と

 獣医学部に入学してから1年と半年くらいが過ぎました。倫理学分析哲学の勉強をしながら、ときどき獣医学もがんばっています。倫理学の中でも、特に興味深く学んでいるのは動物倫理です。

 

 倫理学には以前から興味がありましたが、獣医学部に入るまで、動物倫理を本格的に学ぼうと思ったことはありませんでした。というか医療倫理や生命倫理と並んで、動物倫理という確固たる研究領域が確立されていることも知らなかったし、動物をめぐる倫理学的な議論がとても活発に行われていることも知りませんでした。例えばピーター・シンガー*1の名前も、聞いたことはありますという程度で、その道にどれほどの影響力を与えたのかも知りませんでした。

 

 獣医師を目指す者はどの大学でも動物福祉や獣医倫理の講義を一通り受講するはずですが、おそらくは動物をどのように扱えばよいかというマニュアルや、訴訟沙汰にならないような細々とした法律を教わる程度だと思います。動物福祉論と動物権利論との考え方の違いや、動物権利論の思想的背景や理論的根拠をしっかり学べるような大学はたぶんないのではないでしょうか(全国の獣医学系の大学について調べたわけではないので、もし学べる大学があったらすみません)。卒業した学生の大部分は、「3つのR*2」や「5つの自由*3」といった項目が頭に残っている程度だろうなぁと推測します。

 

 そういうわけで、ほとんどの獣医学生は動物倫理など学ばぬまま獣医師になるものと思います。6年間という限られた時間と他に学ばなければならない膨大な量とを考えると、それが悪いとは必ずしも言えないのかもしれません。私としては、倫理学の勉強が面白いということと、動物に関わる仕事に就くことになるのだから知らなきゃという何となくな理由で学び始めたのですが、しかし、学べば学ぶほど獣医学と動物倫理の相性の悪さを実感せずにいられません。

 

 動物倫理のロジックでは、いくつかの立場はあるにせよ、動物に必要のない苦痛を与えたり、動物をもっぱら人間の利益のために利用したりするようなことはだいたい否定されます。代表的な例は畜産です。肉食は人間にとって必要な行為ではありません(「生きるために食べる」と主張する人もいますが、必須栄養素は動物性食品からでなくとも得られるため、この理由付けは失敗しています)。ですので畜産は動物に必要のない苦痛――工場畜産によって動物たちを不快で不健康な環境に押し込め、本来よりはるかに短い寿命でその命を奪う――を与える行為として筆頭にあげられ、批判されます。もちろん、モンゴルの遊牧民や寒冷地帯に居住するイヌイットなど、動物の肉を食べないで生活することが困難な人々は確かに存在しますが、少なくとも先進国に住む我々が食べずに生活することは可能でしょう。

 

 翻って獣医師を見ると、平成26年の時点で5人に1人が産業動物*4の臨床に携わる獣医師です。したがって、動物倫理のロジックで言えば5人に1人が動物に必要のない苦痛を与える悪しき営みに加担していることになり、転職すべきだということになります(ちなみに日本で肉牛を飼養する農家の戸数は平成29年の時点で50100戸、豚を飼養する農家は4670戸です*5。動物倫理のロジックで言えばこれらの人々は廃業すべきなのであり、世界規模で見れば廃業すべき人々の数は億を超えるでしょう)。

 

 その他にも、獣医学には解剖実習や動物実験といった動物の利用がつきまといます。臓器の位置や大きさや色を覚えさせるために、果たして動物の命を奪って学生に身体を切り刻ませる必要があるのでしょうか。映像授業ではダメなのでしょうか*6。既に教科書で習得した動物の生理的機序を確かめるために実験をやらせる必要があるのでしょうか。「動物を助けたくて」という動機で獣医師を志した学生の一部は、実際に勉強を始めると動物の命を奪う場面に遭遇し、理想と現実とのギャップに苦しむといいます。

 

 そもそも、身も蓋もないことを言ってしまえば、獣医師の仕事はほとんどの場合、動物の利益を実現することではなく、人間の利益を実現することにあります。ですから、動物の喜びや悲しみや苦しみ、動物の尊厳に真正面から向き合う動物倫理と、どうしても相性が悪くならざるを得ません。とはいえ、それはあくまで獣医師という職業の一般論に過ぎず、私個人としてはもっと違う形の獣医師を目指すことは可能かもしれません。夢想的と笑われるかもしれませんが、動物自身の利益や尊厳に配慮した獣医師というのも、あるいは可能かもしれません。

 

 10年後に自分がどんな獣医師になっているのかわかりませんが、今のうちに、自分がこれから就くことになる仕事の倫理的側面について批判的に考える視点を養っておきたいと思います。そのための方法が、倫理学を学ぶことであり、動物倫理を学ぶことだと思っています。

*1:ピーター・シンガー(1946年7月6日~)、オーストラリア出身の哲学者・倫理学者。主著『動物の解放』は現在の動物解放運動に革命的な影響を与えた。

*2:「3つのR」は、動物実験に使われる動物に対して必要な配慮として導入された概念。「Replacement(代替)」「Reduction(削減)」「Refinement(改善)」の3つを表す。

*3:「5つの自由(Five Freedoms)」とは、動物の生活の質の向上を目指して広く採用されている飼育方針。①飢えと渇きおよび栄養不良からの自由、②不快からの自由、③痛み、障害、疾病からの自由、④恐怖や苦悩からの自由、⑤正常な行動を表現できる自由の5つからなる。

*4:産業動物とは人間の経済活動に利用するために飼養されている動物のことで、要するに家畜や家禽のことです。経済動物ともいいます。

*5:農林水産省のHPから。乳牛や採卵鶏も問題なのですが、ここではひとまず置いておきます。

*6:映像を使えば毎年何体も切らせる必要はなく、一度録画すればその後も何年も使い回せます。

環境と動物の倫理

 今回紹介するのは田上孝一『環境と動物の倫理』です。先月読んだ本なのですが、せっかくなので忘れないうちに自分なりにまとめておくことにしました。本書は6つの論文からなる論文集ですが、その主題は全体的には「環境倫理学における動物の問題」であり、最終的には「動物への考察から不可避的に出てこざるを得ない規範的提言である、ベジタリアニズム」につながります。以下、唐突ですが「です・ます」体から「だ・である」体に変わります。

 

環境と動物の倫理

環境と動物の倫理

 

 

 動物を取り巻く環境は不正義に満ちており、人間による動物の利用は道徳的に正当化できないようなものばかりだ*1。これは誰でも問題意識をもって調べてみればわかる現実である。ペットの生体販売と殺処分、動物実験、動物園や水族館、そして肉食。今回は、倫理学者・田上孝一氏の論文集『環境と動物の倫理』から、特に「肉食」の問題について論じた部分を取り上げ、まとめてみた。

■工場畜産の悪夢

 筆者は、かつての狂牛病騒動の際に牛丼の最大手チェーン店が牛肉の「安全」をアピールするためにHPに明記していた文章を引用し、そこで行われている紛うことなき動物虐待を糾弾する。件の最大手チェーン店は「あの濃厚な味」を出すためにあくまでアメリカ産の牛肉にこだわるのだが、その畜産の実態は文字通りの悪夢である。牛たちは生まれてからわずか1年半しか生かせてもらえず、後半生はフィードロットと呼ばれる狭苦しい肥育場に押し込められる。そこでは、牛丼に適した柔らかく濃厚な味にするために牛本来の食べ物ではない「穀物」を食べさせられる。そしてできる限り早く太らせ、生後30ヶ月以内に屠畜される*2。 

■肉食のもたらす環境負荷

 肉食は、環境倫理の立場からも放棄が要請される。上記のようなフィードロット牛には大豆やトウモロコシといった飼料が与えられるのであるが、それによって人間の食用のために利用できる土地が牛の飼料を育てるために使われることになる。人間がそのまま食べればよいはずの穀物をわざわざ牛に食べさせ、その牛を食べるという「迂回路」をとるために、大量の土地が必要となる*3。放牧地の開墾のために森林を破壊し、牛のゲップに由来する大量のメタンは温暖化に影響を及ぼし、さらにフィードロット生産では牛の糞尿は大地に還らず大量の産業廃棄物になる*4

■そもそも食べる必要がない

 我々はそもそも動物性食品をとる必要がなく、ほとんどの必須栄養素は植物性食品から得ることができる。つまり、肉を食べなくても栄養学的な問題は何ら生じないのである(ビタミンB12が数少ない例外だが、微量でよいので、ほとんど問題にならない)。タンパク質は豆製品から摂取すればよく、筋肉をつけるために動物の肉を摂取する必要はない。むしろ動物性脂肪過多の食事により血中のLDLコレステロールの量が増え、肥満や脂質異常症高脂血症)になりやすくなる。これにより動脈硬化が起こり、脳梗塞心筋梗塞のリスクを高める。健康のことを考えるなら、動物性食品の量を今よりずっと減らすべきだということになろう。

■倫理の要請

 これらの理由からーーただし主たる理由は倫理的な理由からーーベジタリアニズムの実践が要請される。しかし筆者は、その実践においてある程度の「緩さ」を認める。確かに、動物性食品を一切摂取しないビーガンになることがもっとも望ましい*5。だが我が国でそれを厳格に実践するのは容易ではない。動物性食品を完全に断つことを努力目標としつつ、まずは摂取量を減らそう。動物に与える苦痛や環境への負荷を想像して、その量がなるべく少なくなるような食事を実践しよう。筆者はそのように提言する。

 

実際厳格なビーガンが一人増えるよりも、緩やかなセミ・ベジタリアンが10人増える方が、計算するまでもなく、肉食消費量はずっと多く減るのであり、それによって動物が救われる可能性も増えるのである。徒に厳格さを追求して秘境的な閉鎖性に閉じこもるよりは、オープンでフレンドリーに宣伝する方が、結果的に多くの動物を救うことになるのである。

 

 セミ・ベジタリアンとは肉類を少量しか摂取しない立場である*6。このように筆者が言うのは、倫理学の要請は何の努力もなしに実現できるほど容易なものではなく、また超人的な努力をもってしなければ実行できないほど難しいものであってもならないと考えるからだ。あまりにも容易であればすでに社会で広く実現されており、倫理学の要請を必要としないはずであるし、あまりにも困難であればほとんどの人が実行できず、「絵空事」に終わってしまう。

 したがって筆者は、倫理学の要請する規範は「一般的な人格が常識的な努力によって実行できる範囲内」に留まる必要があると主張する。ビーガンになること、ビーガンであることは疑いなく正しいことだろう。セミ・ベジタリアンな生活を送ることは、少なからず悪に加担しているのだろうし、整合性という点からも「正しくない」かもしれない。しかし、人々が現実に受容可能な規範と、我々の目指す目標とを総合的に考えれば、「緩さ」を認めることが無視できない効果につながるはずである。というのは、もし我々の当面の目標を工場畜産の廃絶とするなら、工場畜産が立ち行かなくなるまで肉食の消費量を減らせばよいのであるから*7。そのためには人類のすべてがビーガンにならなければいけないわけではなく、今より肉食の消費量がずっと減ればよいというわけだ。

 

できれば厳格に追求すべきだが、厳格でなくてもできる範囲でやればよいという、質的断絶ではなく量的漸進性を認める寛容さが、倫理規範の実現可能性を著しく高めると思われるのである。……できることならば厳格に遂行すべきだという原則を堅持しつつも、できないならばできる範囲で善を成すことも確かな前進であると認める寛大さが、倫理学理論のアクチュアリティを高めて行く。理想は高くしかし実践は柔軟にというスローガンが必要なのではないかと、私には思われるのである。

(太字原文ママ

 

 厳格なビーガンから見ると、このような実践は不十分に見えるかもしれない。「できる範囲で」という表現に敏感に反応し、「そのような姿勢ならまたすぐに肉食生活に戻ってしまう」と反発する者もいるだろう。しかし、このような姿勢だからこそ長く続けられるとも考えられる。人ができることは0か100かではない。少しでも動物性食品を口にすれば失格というようなハードルを設定して強迫観念を抱くよりは、緩やかな実践を続けながら自分に自信をつけ、徐々にハードルをあげていくという姿勢も認められよう。

 ベジタリアニズムもビーガニズムも、目的ではなく手段である。我々の目的は動物に対する残酷な仕打ちを減らすこと、最終的には無くすことであって、ビーガンになることが目的なのではない。そうであれば、その手段は有効な限りにおいて評価に値すると言えるだろう。

 

倫理学の理論として、ベジタリアニズムは厳格な肉断ちではなくて、漸進的なアプローチの合理性を訴える。ビーガンになることを目指しつつも、できる範囲で肉食を制限することが、ベジタリアニズムの核心である。これならば誰でも大義に参加することができるのである。

 

 かつて私は、理論と実践からなる政治学では「論理的整合性を追求する誠実さと論理的曖昧さを受け入れる勇気の双方が必要」と思うことがあったのだが、本書を読むに、倫理の世界でも似たようなことが言えるかもしれないと感じている。

*1:人間による動物の利用が許容されるのは、それが動物の幸福の増大につながる場合に限ると私は思っている。その意味で、麻薬探知犬盲導犬は、(それが犬の負担にならないという限定付きで)よいあり方であると思われる。

*2:この論文では牛に限定しているが、ニワトリやブタの状況も苦痛に満ちているのは、言うまでもない。

*3:「肉1キロを生産するために10キロ前後の飼料を与えなければならないという。牛に与える代わりにそのまま人間が食用すれば、ずっと多くカロリーと必須栄養素を得ることができる。」

*4:「毎日20キロもの糞尿をする巨大生物がアメリカ一国で一億以上もいる。掛け算すればどれ程強大な公害源か分かろう。」

*5:ビーガンは卵や牛乳を含む動物性食品の一切を摂取しない人々。ベジタリアンは通常、卵と牛乳は摂取する。

*6:セミ・ベジタリアンは肉食を完全に拒否するのではなく、抑制的・選択的に肉を摂取する。意識して摂取量を減らしたり、人道的に屠畜された肉だけは食べるなど。

*7:もちろん工場畜産の廃絶だけではなく、畜産そのものの廃絶が最終的な目標ではある。

倫理のうしろのうしろ

 「倫理学の教科書」というと、今までは2種類あったように思われます。規範倫理学をメインに扱う教科書と、応用倫理学をメインに扱う教科書です。前者では、ベンサムやミル、カントといった大思想家の学説がまず紹介され、社会契約論、徳倫理学、ケアの倫理、余裕があれば政治哲学的な項目も扱われます。後者は、医療倫理、生命倫理環境倫理、ビジネス倫理や企業倫理、情報倫理など、現代的な倫理の問題を扱う教科書。その分野を専門に学ぶ人を主な読者と想定している場合が多いですね。

 先日読んだ佐藤岳詩『メタ倫理学入門 : 道徳のそもそもを考える』は本邦初、メタ倫理学をメインに扱うテキストです。言わば、第三の倫理学の教科書です(もちろん今までの教科書でもメタ倫理学を扱うものはあったのですが、メタ倫理学のみを扱う入門書というのは日本初です)。本書はメタ倫理学の代表的な理論、争点となっている話を、網羅的に紹介してくれます。紹介されるすべての理論について、その長所と短所も解説してくれているので、読みながら「おっ。この理論はいけるかもしれぬ」→「ぐぬぬ…」と何度も浮き沈みしてしまいました。

 

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

 

 筆者はメタ倫理学を「規範倫理学や応用倫理学を一歩後ろから眺める学問」と表現します。倫理学とは、私の考えでは、私たちが社会で馴染んでいる道徳のルールを批判的かつ論理的、合理的に検討し、その背景にある根拠を見出す学問です。この作業によって、あるルールは正当化され、またあるルールは棄却されます。ルール同士の矛盾や不整合が見出されたり、私たちが今まで知らなかった新しいルールが「発見」されたりするでしょう。つまり私たちが社会生活で身につけた倫理を「一歩後ろから」眺めるのが倫理学です。

 メタ倫理学が筆者の言うように規範倫理学や応用倫理学を「一歩後ろから」眺める学問だとしたら、メタ倫理学は、倫理の「一歩後ろ」にある倫理学の中でも、かなり後ろの方に位置していることになります(笑)倫理の、うしろのうしろです。

 規範倫理学では、「私たちが何をすべきで、何をしてはいけないか」「私たちはどんな人間になるべきか。いかに生きるべきか」といった問題に答えようとします。ここでは、「なすべきこと」や「正しいこと」がある、というのが前提にされていることは間違いありません。メタ倫理学はこの前提を批判的に検討します。そもそも「なすべきこと」「正しいこと」などあるのだろうか。「正しい」とはいったいどういう意味なのだろうか。私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのか……などなど。

 ちょっとだけメタ倫理学上の立場を紹介すると、「正しいこと」や「善いこと」が私たちの主観とは独立に世界の側で決まっていると考えるのが客観主義の立場です。例えば、無実の人が危害を加えられたとしたら、客観主義によれば、それを見ている私たちの評価や判断とはまったく独立に、そこに「悪さ」という性質があります。道徳に関する真理は、世界の側で決まっているというわけです。普遍的な物理法則や化学法則が世界の側で決まっているように、世界の側に普遍的な道徳法則がある、ということにもなるでしょうか。

 これに対して主観主義の立場では、世界の側に「善さ」や「正しさ」といった性質など存在せず、そうした性質に関する判断は私たちの主観によると考えます。無実の人が危害を加えられたとき、そこにあるのは私たちの評価や判断であり、そこに客観的な「悪さ」が存在していたりはしません。主観主義と言っても一枚岩ではなく、善や悪、正や不正は私たちの個人的な感情や好みの問題であると考える立場や、私たちの同意や合意によって形成されるという立場など、いくつかの考え方があります。一枚岩でないのはもちろん客観主義も同様です。

 客観主義と主観主義の対立に呼応して、道徳に関する実在論非実在論の対立があります。道徳的実在論は、道徳的な事実・真理が私たちの心から独立に存在し、善や悪、正や不正といった道徳的性質も現実に存在すると考えます。2+3=5が数学的真理であるように、物理現象の背後に数式で表される真理が存在するように、私たちの考えや好き嫌いとはまったく無関係に、客観的真理として、道徳の真理はある。「無実の人に危害を加えることは悪い」というのは、私たちがそれをどう考えるかとはまったく無関係に、事実である。このように考えるのが、実在論です。

 非実在は、道徳的な事実や善や悪、正や不正といった性質も存在しないと考えます。道徳判断は、真理や事実に関するものではなく、私たちの感情表現であったり、態度であったり、あるいは命令であったりします。ブラックバーンは、価値は世界の側に本当に実在しているのではなく、私たちの価値観の投影によって世界にあるように見えている、という投影説を展開します。ダイヤモンドはただの石に過ぎないのだが、私たちがダイヤモンドを価値あるものと認識し、そこに私たちの価値を投影している。それによって、ダイヤモンドはそれ自体としては価値はないのに、価値あるものであるかのように扱われている。道徳的価値についても同じことが言えるのだ、と。*1

 メタ倫理学ではさらに認知主義非認知主義の対立、なぜ私たちは善いことをしなければならないのかという“Why be Moral”の問題など、まだまだ面白い話題に尽きないのですが、長くなるのでこのへんで終わります。

 メタ倫理学はややもすれば不毛な議論をする学問であるかのように思われます。しかし例えば私たちが道徳的な問題で議論をしているとき、両者が同じ単語を同じ意味で使用しているのか、道徳の真理の実在性に関して両者は共通の土台の上で議論をしているのかなど、前提を見つめ直すための強力なツールになります。また、既存の道徳のルールを「一歩後ろ」から批判したり、提言をしたりする際に、批判・提言のさらに「一歩後ろ」からこれら批判・提言の前提の妥当性を検討することができるのも、メタ倫理学の強みです。まさに倫理のうしろのうしろに位置するのがメタ倫理学であるとは言えないでしょうか。

 

■表紙のキャラクターについて

表紙の生き物(メタ子という名前らしいです)について、描いたイラストレーターさんご本人(あまえびさん @amaebi4330 )からご返事をもらいました。

 

 

 

■とてもかわいい

*1:ブラックバーンの立場では本書では「準実在論」とされますが、やはり「本当は実在しない」という非実在論の立場です。

デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」概略

 こんばんは。苗野さんです。昨夜の記事では、ベネターの反出生主義とその核心たる「誕生害悪論」によって導かれる結論であるところの、人類絶滅論や中絶推進論を紹介しました。しかし、ベネターがどのような議論によって誕生害悪論を示したのかを説明しなくては、それがどこまで正当なものなのか判断できません。ベネターはなぜ「生まれてくることは、生まれてこないことより、悪い」という結論に至ったのでしょう。昨晩の記事だけでは、古来から繰り返し説かれる厭世主義に過ぎず、この程度の言説は現代ではネット上にも溢れています。そこで昨日の予告通り、今回の記事ではベネターの誕生害悪論の論理展開を私なりにまとめてみたいと思います。

 

■4つの命題

 ベネターの誕生害悪論は4つの命題により導出されます。その論理展開を理解する鍵は「苦痛と快楽の非対称性」です。ここでいう苦痛 pain とは害悪 harm の一例であり、快楽 pleasure とは利益 benefit の一例です。ベネターはまず、以下の2つの命題は議論の余地なく正しいとします。

(1)苦痛の存在は悪い。
(2)快楽の存在はよい。

 快と苦を善と悪に対応させていることから、功利主義的な考え方が土台にあることが示唆されます。(1)と(2)からわかるように、苦痛の存在と快楽の存在の間には対称性が見出されるのですが、しかし、苦痛の欠如と快楽の欠如との間にはこのような対称性は見出されません。

(3)苦痛の欠如は、たとえそのよさが誰によっても享受されていない場合であっても、よい。
(4)快楽の欠如は、快楽を剥奪されたがゆえに快楽を享受できなくなるような人間がいるのでない限り、悪くない。

この(3)と(4)には解説が必要です。丁寧にその論証を追ってみましょう。

 

■苦痛の欠如について

 第3命題は、苦痛の欠如を、たとえそのよさが「誰によっても享受されない場合であっても」よいと評価しています。当然、ここでは次のような反論が予想されます。「苦の欠如を『よい』としても、快苦を感じる主体が存在しないのなら、『よい』という評価など不可能だ。その『よさ』を経験する人間がどこにも存在しないのであれば、苦の不在が『よい』という価値を帯びることなどあり得ない」と。このような当然の疑問に対してベネターは、苦の欠如のよさには二つの意味があるとして回答を用意します。①苦の主体が存在する場合についてと、②苦の主体が存在しない場合についてです。

①苦痛の主体が存在する場合

 苦の主体、たとえば太郎が苦痛を被っているとします。太郎の苦痛がもし仮に欠如したとすれば、それはよいことでした。それがたとえ、太郎が存在しなくなることによってのみ達成され得たのだとしても、よかったのです。これは、「ここに太郎という人間がいるとする。太郎に苦痛が欠如していることは、よいことである」という単純な話ではありません。太郎という苦しんでいる者がいるとき、太郎の苦痛の欠如が実現すればそれはよいことだが、それが太郎がいなくなることによってのみ達成されたとしても、苦痛の欠如は太郎の利害に照らしてよいことだった、このような主張なのです。

②苦痛の主体が存在しない場合

 苦の主体が存在しない場合、そこに苦痛はありません。苦痛を被る主体が存在しないからです。このとき、苦痛の欠如は、苦痛を被る主体が非存在であるということによって保証されています。そしてベネターは、実際には存在していないが存在したかもしれない、この潜在的な主体の利害に照らし合わせて、苦痛の欠如をよいことと評価しているのです。例えば太郎が生まれなかった宇宙を想像すると、そこに太郎の苦痛は存在しません。しかしこの宇宙で達成されている「太郎の苦痛の欠如」は、もしかしたら生まれてきたかもしれない太郎の利害に照らし合わせて、よいことである。私の理解が正しければ、以上のことが主張されています。*1

 

■快楽の欠如について

 第4命題は以下のことを含意するものです。快楽の欠如は、快楽を剥奪されたような者が存在した場合に限り、悪い。*2もしそのような者が存在しないのであれば、快楽の欠如は悪くない。ここに、「苦痛と快楽の非対称性」が現れます。「苦痛/快楽の存在」については「悪い/よい」と対称的な評価を下すことができるのに、「苦痛/快楽の欠如」については「よい/悪い」ではなく、「よい/悪くない」という非対称的な評価を下すべきなのです。

 では、快楽を享受する主体が存在しないことは、本当に「悪くない」のでしょうか。あるカップルが、「いつか子供ができたら、ハルキという名前をつけようね」と決めていたとします。しかし、諸事情により、このカップルは子供をつくるのをやめました。このとき、不利益を被った者はいるのでしょうか。もしカップルが生殖をしていたらその約38週間後に誕生したかもしれない「ハルキ」なる者が「快楽を享受できなかった」という不利益を被ったのでしょうか。

 否です。不利益を付与すべき人格が最初からこの宇宙に出現しなかったのですから、その者が不利益を被るはずがありません。存在しなかった者について、その者自身のために、「ハルキは幸福な人生を送れたはずなのに……」などと同情することは不合理です。この世界に存在しなかった者は、快楽を剥奪されることもなく、その非存在者が快楽を享受しないことを「悪い」とは言えません。かくして、快楽の欠如は、非存在者にとって「悪くない」というわけです。

 もちろん、カップルがいつか後悔をすることはあり得るでしょう。「あのとき子供をつくればよかった」と。しかしそれは、子をつくらなかった親の自分自身に対する後悔に過ぎません。存在しなかった者について、その者の非存在を、その者自身のために後悔することは不合理であり、また不可能です。*3

 

■シナリオAとシナリオBの比較

 以上の(1)~(4)の四つの命題により、以下のような表が得られます。Xを苦痛と快楽の主体(例えば太郎)として、Xが存在する場合をシナリオA、Xが存在しない場合をシナリオBとし、両者を比較検討していきます。

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 まず苦痛に注目すると、Xが存在する(1)は悪く、Xが存在しない(3)はよい。したがって、苦痛について言えば、Xは存在するよりも存在しない方がよい。つまり、シナリオAよりシナリオBの方が望ましいということになります。では快楽に注目するとどうなるでしょうか。(2)と(4)を比較すると、「よい」と「悪くない」なのだから、(2)の「よい」を、すなわちXの存在するシナリオAを選びたくなります。しかしベネターによれば、(2)の「よい」と(4)の「悪くない」とを比較して、単純に(2)を選ぶべきではありません。その理由としてここでは2点取り上げます。①義務の観点から、②(2)のよさと(4)の悪くなさの本当の意味から。

①義務の観点から

 ベネターによれば、我々には苦しむ人を生み出さない義務があります。他方で、幸福な人を生み出す義務は我々にはありません。なぜ苦しむ人々を生み出さない義務があるかと言うと、第1命題より苦痛の存在は悪く、第3命題より苦痛の欠如はよい――そのよさを享受する者がいないとしても――からです。それに対して、我々は幸福な人を生み出す義務はありません。なぜその義務がないかと言うと、第4命題より、快楽の欠如は悪くないからです。換言すれば、我々には害悪を回避する消極的義務はあるが、幸福を増進するというような積極的義務はないのです。

②(2)のよさと(4)の悪くなさの本当の意味から

 義務の観点から説明する①はわかりやすいですが、この②は少々理解に手こずります。ベネターは「よい/悪い」の意味を二つに分けるのですが、両者の使用があちこちで混在し、整理不足であると思われるからです。私の理解が正しいと仮定して、ベネターの趣旨をまとめてみましょう。ベネターは「よい/悪い」の価値判断を、本性的に「よい/悪い」(それ自体として端的に「よい/悪い」)という意味と、相対的に(何かと比べて)「よい/悪い」という意味に分けます。したがって、後者の「よい/悪い」は better/worse ということになります。

 快楽の欠如を「悪い」と評価できるのはどのようなときでしょうか。それは、快楽を享受していた者が、その快楽を剥奪されたときです。つまり、シナリオAの(2)の領域にいる人間に異変が起きたような状況、これが「悪い」と言えるのです。しかしそこでの「悪い」は、(1)の苦痛の存在を評価する「悪い」とは意味が異なります。ベネターの見解では、苦痛の存在の「悪い」は本性的な「悪い」bad ですが、剥奪による快楽の欠如は、快楽を剥奪される前の状態に比べて、「より悪い」worse なのです。つまり、剥奪による快楽の欠如とは(2)の領域内で発生した異変を指し、これを剥奪前より「より悪い」と考えるのです。

 逆方向から見ると、(2)における快楽の存在に対する「よい」という評価は、本性的な「よい」なのではなく、剥奪による快楽の欠如と比べた、「よりよい」better なのです。快楽の存在の「よい」は、(4)の単なる快楽の欠如との比較において better なのではなく、剥奪による快楽の欠如との比較において better なのです。(2)は(4)に比べて「よりよい」なのではなく、第2命題が「快楽の存在はよい」と言うとき、そこに比較があるとすれば、(2)の領域内で、「快楽の存在は、快楽が剥奪された状態に比べて、よりよい」と主張していることになります。

 さらに第4命題が言うように、剥奪によらない快楽の欠如は「悪くない」のですが、ここでの「悪くない」とは、快の存在よりも「より悪くない」という意味なのだそうです。(2)は(4)に比べて「よりよい」わけではなく、(4)は(2)に比べて「より悪い」わけでもない。*4だから、(2)は(4)を上回るアドバンテージをもつわけではない。ベネターはそのように主張します。

 

■結論

 まとめるのが下手で、概略のつもりだったのにずいぶん長くなってしまいました。以上の議論により、誕生害悪論の結論が導かれます。シナリオAの「Xが存在するとき」とシナリオBの「Xが存在しないとき」とで、どちらがよいのでしょうか。

 苦痛に関して言えば、シナリオBの方がよい。快楽に関して言えば、シナリオAがシナリオBより「よりよい」とは言えず、またシナリオBがシナリオAより「より悪い」とは言えません。ですから、苦痛と快楽を総合的に見たならば、シナリオBの方が望ましいということになります。すなわち、Xは存在しない方がよい、存在するべきではないというのが結論です。「生まれてくることは、生まれてこないことより、悪い」のです。

 今既に存在してしまっている私たちについて言えば「生まれてこなければよかった」のですし、未来の世代について言えば、存在する(させる)べきではありません。こうして出生の停止と抑制、中絶の推進が説かれ、人類の絶滅という我々の目指すべき将来が描かれます。

 

■ベネターの論証の誤り

 私が指摘するまでもないですが、ベネターの議論はいくつもの誤りを含む不十分なもので、その論証は失敗しています。しかし誤っているからといって、その価値がなくなるわけではもちろんありません。古来から厭世主義者たちが細々と伝えてきた反出生主義の思想を分析哲学の次元で構築しようとした試みとして、それなりに評価できると思います。また、ベネターの反出生主義が誤っているからといって、反出生主義そのものが誤っていると言えるわけでは、もちろんありません。ベネターとはまったく別の論証によって反出生主義の正しさが示される可能性は依然として残っているからです。

 引き続きベネターの議論を検証し、その誤りを指摘していきたいのですが、長くなってしまったので、今日はここまでにします。面倒なのでいつやるかはわかりませんが、いつか、ベネターの「誕生害悪論」の批判をしたく思います。「そもそも苗野さんのベネター理解が間違っている」と思われた方は、コメント欄にて指摘して頂ければ幸いです。ありがとうございました。

 

参考文献

Benatar, D.2006.Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence, New York: Oxford University Press.

*1:ベネターの用意した①と②の回答は、分析哲学でいう可能世界論を駆使したものです。そして、この考察は実は失敗しています。

*2:快楽が剥奪されるとは、どのような事態でしょうか。例えば「毎週楽しみにしていたテレビ番組が終わってしまった」「通勤のときに毎朝電車から楽しんでいた景色が、土地開発により一変してしまった」「大好きだった自転車を盗まれてしまった」といった事態でしょうか。最後の例は苦痛に該当するかもしれませんね。

*3:我々が快楽の欠如よりも苦痛の存在の方を問題視するはずだということを示すために、ベネターは面白い想定をします。我々は、火星に生命がいないことを知っても、火星に存在しなかった者たちのために、快楽を経験できなかったことを嘆き悲しむことはないでしょう。「火星の非存在者が快楽を経験できなかったこと」を嘆く人がいたなら、変人です。しかしもし火星に生命がいて、それらが苦痛に満ちた生を生きているとしたら、それを嘆く人がいても、それほど不合理ではありません。

*4:判然としないのは、ベネターが「(4)は(2)より、より悪くない」と言うとき、これは(4)と(2)はそもそも比較が不可能だから「より悪くない」と結論しているのか、それとも(4)を(2)と比べて「より悪くない」と結論しているのかが不明瞭な点です。もし比較の結果として「より悪くない」と結論しているのであれば、かなり支離滅裂な論証をしていることにならないでしょうか。というのは、(2)快楽の存在は「よりよい」better なのだが、(4)に比べて「よりよい」なのではない、としているからです。(2)に着目した説明では(4)との比較が不成立であることを示唆していながら、(4)に着目した説明では(2)と比較をしていることになります。

デイヴィッド・ベネターの反出生主義

 先日の記事の最後で、「反出生主義」なる思想があることを紹介しました。「私たちは子供を産むべきではない」という考え方であり、その根拠は論者によりさまざまです。現在その論者として特に有名なのは南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターであり、『生まれてこなければよかった――存在することの害悪』(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)によって知られています。

 

Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence

Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence

 

 

 彼の反出生主義は功利主義的な思想を土台としており、分析哲学的な手法によって導出されます。ベネターの論証の核心は「誕生害悪論」とでも呼べるもので、それは「この世界に生まれてくることは、誰にとっても、生まれてこないことより、必ず悪い」という主張です。これは、生まれてきた当人が、自分が生まれてきたことについてどう思っているかとは無関係に、論理的に成立するのだといいます。苦しみに満ちた生を生きている者はもちろん、自分の人生を幸福だと考えている者にとっても、その者の意思とは無関係に、「生まれてきたことは害悪」なのだそうです。*1

 

 もしこの主張が正しいならば、この世に子供を生み出せば、その子は生誕により必ず害悪を被ることになるわけです。つまり、出生は避けるべき非道徳的な行為ということです。ベネターによれば、誰であれこの世界に誕生(存在を開始)するべきではなかったのであり、またこの先も誕生(存在を開始)させるべきではありません。人類は出生を控え、その数を減らさなければなりません。存在=害悪は少なければ少ないほどよく、地球上の理想の人口は「ゼロ」人ということになります。荒唐無稽のように思えるこの人類絶滅論ですが、ベネターは以上のことを本気で主張しています。

 

 ベネターは人類の絶滅を「早ければ早いほどよい」としていますが、しかし全人類が一斉に出生をやめるべきだとは主張しません。というのは、急激な人口の減少は、現存している人類に大きな負担をかけ過ぎてしまうからです。人類の絶滅は必要だが、人口を不用意に急激に減らすことで、現在の世代に害悪を加えることは避けなければならない。こうして、人口減少によって人々が被る害悪をなるべく抑えながら、しかしできるだけ早く、漸進的に人類が絶滅していくべきだとするのです。*2

 

 もちろん、核兵器などにより全人類を一挙に抹殺するような解決案は、ベネターの立場からすると論外です。ベネターの議論はそもそも主体に害悪(たとえば苦痛)を加えてはならないという倫理観を根底においているので、いったん誕生(存在を開始)した人間が死に伴う精神的・肉体的苦痛を被ることは正当化されません。ただし、人格を有する生きている者を殺害することが許されないとしても、人格を有さない胎児は別です。ベネターの見解では意識発生以前(妊娠28週より前)の胎児は「道徳上の地位」を欠いているので、なるべく堕胎されるべきだとします。これは中絶容認ではなく中絶推進という立場であり、プロチョイス (pro-choice)ならぬプロデス(pro-death)の主張です。*3

 

 以上がベネターの反出生主義とその核心である誕生害悪論によって導かれる結論なのですが、ではこの結論はどのような論証によって導かれるのでしょうか。彼の議論はかなり込み入っており、全体像を捉えるのは容易ではありません。また、すでに多くの学者に指摘されているところですが、その論証は破綻しています。ただし、ベネターの議論が厳密さに欠け、誤謬を含んでいるものとしても、生命倫理をはじめとする倫理学の考察に刺激を与え得ることは間違いありません。

 

 これ以上は長くなるので今夜はここまでにして、次回の記事でベネターの「誕生害悪論」の論証のまとめに挑戦してみたいと思います。ちなみに、ベネターの『生まれてこなければよかった』ですが、日本語で出版されるらしいです。ベネターの「反出生主義」を紹介する論文をおそらく日本で一番最初に書いたのではないかと思われる森岡正博先生のツイート↓

*1:ある者にとっての幸福や不幸を問題とする議論であるのに、その議論が価値に関して主観主義ではなく客観主義を採用している点はかなり興味深いです。

*2:前回の記事でも指摘したように、出産の停止による人類の消滅は、論理的には、今生きている私たちの決断と、今妊娠している女性が産む子の決断により、二世代で可能です。

*3:ベネターの議論は、実際は人類だけではなく、感覚を有するあらゆる動物に適用されます。したがって、ベネターの人類絶滅論はより正確には「有感動物絶滅論」とされなければなりません。ベネターの熱心な支持者は、人類が絶滅する前にどのようにして他の動物たちを滅ぼすか、地球上からあらゆる野生動物を消滅させるにはどうしたらいいか、本気で考えているようです。