ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

自然、食物連鎖について言うべきこと

苗野「……という理由から、私は動物を食べるべきではないと思っています」

先生「でも、ヒトは何万年も何十万年も前から動物を食べて生きてきたんですよ」

 

ため息が出る。興味を持って質問してくれた人に対しては、なるべく丁寧に説明してみることを心掛けてはいるものの、先生を相手にし、できうる限り詳細な説明をし終わった後にこのレベルの反論をされると、全身の力が抜ける。

 

歴史であるとか、食文化であるとか、そういったものをいくら列挙されても、それらは、人はこういう歴史を歩んできた、こういうものを食べてきた、という単なる事実の記述でしかない。私は別にそうした事実を否定するつもりはない。問題は、「~すべき」という規範的な主張に対し、「〜である」という事実の記述だけでは反論として成立しないという点である*1

 

twitterでもこのブログでも何度も繰り返しているが、単なる社会的事実、自然的事実から、「~すべき」という規範を直接導くのは論理の飛躍である。事実として、我々人類は戦争、奴隷制、男性による女性支配の歴史を歩んできた(し、今も歩んでいる)わけだが、そうした歴史を歩んできたからと言って、戦争や奴隷制が倫理的に正しいということにはならない。単なる歴史的な事実から、「だから我々は戦争を続けるべきだ」とか「だから男性は女性を支配し続けるべきだ」という規範を導くことが論理の飛躍であることは容易に理解できるだろう。

 

動物食を肯定する人達の中には、「動物を食べることは自然だ」と言う者もいる。ビーガンに対し「食物連鎖って知っているか?」と揶揄する者もいる。果たして「自然」とは何を意味するのか、人類による動物食がそもそも食物連鎖と呼べるのかも問題だが*2、それはさておき、もしそれらの発言が「動物食という行為は自然である」「人が動物を食べる行為は食物連鎖の一環である」という事実の記述でしかないならば、これもまたビーガンに対して何の反論にもなっていない。正確には、それらの事実記述は、動物食を反対する理由も支持する理由も与えない。単にある行為や現象の様態について事実を述べているだけである。「落とさないように慎重に運ぶべきだ」という提言に対して、「物が落下するのは重力によるのだ」とコメントしているようなものであり、「台風に備えて防災セットを準備すべきだ」という提案に対して、「台風が発生するのは熱帯低気圧が発達するからだ」とコメントしているようなものだ。

 

「動物を食べることは自然だ」という事実の記述から、ビーガンに対して意味のある反論をひねり出したいのであれば、「自然なことをしてよい/すべきだ」という規範的な主張を加えなければならない。そうすれば、「動物を食べてよい/食べるべきだ」という結論が矛盾なく得られる。また逆に、「動物を食べることは自然だ」という前提に、「なるべく自然なことを避けるべきだ」という前提を加えるなら、「動物を食べることは避けるべきだ」という結論が、何の矛盾もなく得られる。もし「自然」という語の意味するところが、欲望のままに食べたり人を襲ったりすること、病気の進行、飢饉や疫病の蔓延を放置することをも含むならば、「なるべく自然なことを避けるべきだ」という規範的主張もそれほど突飛なものではない。「自然」なる単語が極めて曖昧なマジックワードであるため、「自然に従うべきだ」も「自然なことを避けるべきだ(自然を克服するべきだ)」もどちらも自然に言えてしまえるのである(そしてどちらからも、不条理な帰結を導くことができる)*3

 

 

自然とは、人間が自分の意志で決めたことに対して責任を取らなくても済むように、人間の心が作り出した空想の産物である。 ――ギャレット・ハーディン*4

 

 以上の議論をわかりやすくまとめた漫画は、

『講座 あにまるえしっくす』第5回 「“である”と“べき”の断絶!? ~ただ、あなたらしく~」

 漫画を読むのが面倒だから手っ取り早く教えてほしいという人は、児玉先生の説明「ヒュームの法則」を読まれたい。「ヒュームの第二法則」は無視してよい。

 

関連のある記事は、

「である」と「べき」の断絶

価値判断の無限連鎖を避ける5つの戦略

事実とか価値とか

 

 

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*1:とは言え、日常では規範的な提言に対して事実の叙述で反論することが多々ある。


母「そろそろ太郎を塾に行かせるべきである」

父「しかし太郎は学年上位の成績である」


鈴木「A市から B市へ向かうバスの本数をもう少し増やすべきである」

太田「しかし、B市行きのバスを利用する人は少ないだろう」


マル「遅刻しそうだから、電車で行くべきです」

リン「電車はあと30分待たないと来ないよ」


上記3例では、前者の「〜べき」を伴う規範的な提言に対して、後者の「〜である」という事実の叙述が反論として成立しているように見える。これはなぜかというと、両者が暗黙の前提を共有しているからである。父の発言には「学年上位ならば塾に行かせる必要はないだろう」という暗黙の前提が、太田氏の発言には「利用者が少ないならばバスの本数を増やしても無駄である」という暗黙の前提が、そしてリンの発言には「30分も待つならば、別の手段を考えるべきだ」という暗黙の前提が含まれ、これを両者で共有しているため、反論として飛躍なく成立しているように見えるわけである。しかし厳密に言えばこれらも飛躍があり、反論として論理的に正しいわけではない(例えば第一の例では、母が父の暗黙の前提を共有しておらず、むしろ「学年上位ならば尚更より高みを目指すべきである」という前提を抱いていたとしたら、父の発言は反論として成立しない)。このように暗黙の前提を省略することは日常会話では許されるが、議論においてご法度である。勝手に相手に暗黙の前提の共有を期待してはいけない。特に後述の「〜は自然である」のような主張では、「自然」の定義も示さずに「自然なことはよいことである」のような暗黙の前提を措定するのは愚の骨頂である。

*2:「自然」とは一体何を意味するのか。欲求のままに人を襲い、物を盗むことも自然なのだろうか。抗生物質ホルモン剤を家畜に打つこと、品種改「良」により成長速度を劇的に早めることはどうだろうか。また、我々が家畜を食べることが本当に食物連鎖の一環と言えるだろうか。例えば、ウシに本来の食性とは異なるトウモロコシや大豆のような飼料を与えたり、養殖魚にトウモロコシや陸生動物由来の飼料を与えたりすることが食物連鎖の過程なのだろうか。さらに言えば、食物連鎖は通常上位捕食個体ほど個体数が少なく、下位の被捕食個体ほど個体数が多いはずである。FAOの統計によれば2017年時点で牛の個体数は約15億であり、これは人類の数の5分の1である。食物連鎖と言うにはずいぶんとバランスが悪い。

*3:よって、「動物を食べることは自然だ」と主張する者に対しての正しいコメントは第一に「自然とはどういう意味なのか、厳密に定義してもらえますか?」であり、第二に「自然だから何なのですか?」である。「食物連鎖って知っているか?」と問うてくる失礼な者に対して言うべきことは、「理科で習ったので知っています。それで、それがどうしましたか?」である。

*4:Hardin,Garrett, The rational foundation of conservation, North American Review 259 (1976),S.14-17.