ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

反共感論

夏休みです。先週までの札幌は夜も眠れない猛暑でしたが、ここ数日は涼しく穏やかな晴天が続いています。しかし、今朝の南区のヒグマ射殺のニュースで、内心は穏やかではないです。野生動物との共生の問題についても、あにまるえしっくすで議論しなければならないのですが、勉強がまだ追いついていません。


『反共感論』。道徳心理学の本です。タイトルの通り、「共感」に反対するものです。無条件に肯定されがちな「共感」が実は極めて多くの負の側面をもち、道徳的な推論において私たちを誤った方向へ導く、ということを力説しています。個人の倫理的判断から国家の政策レベルの話まで共感の問題点が説かれますが、個人的に強く興味をもったのは倫理とは直接関係のない、第4章の「思いやりの訓練」のところです。共感を抑制し、苦しむことなく人に思いやりを示すことの素晴らしさについて書かれており、これは共感力の高さゆえに生きづらさを抱えるすべての人にとって有意義な助言になるのではないかと思った次第です。大切な大切な人に特に知ってほしいところだったので、その部分の記述が長めになりました。

 

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

 

 

 

本書は理性の力を称揚する。倫理的判断において、理性的に考え抜くことを力強く訴える。「今さら理性だって?」思慮深い人は身構えるだろうか。20世紀は理性が徹底的に敗北した世紀ではなかったか。理性の力によって近代科学は飛躍的な進歩を遂げたが、核兵器を生み出し、人類を存亡の危機に晒した。理性の力は我々の生産性を加速度的に向上させ、物質的な豊かさをもたらしたが、環境を壊滅的に破壊した。何より、人間の理性に対する信頼を基礎とした民主主義がナチスを生み、ひいてはホロコーストを引き起こしたのではなかったのか。

 

これらの理性に対する断罪は概して不公平なものであるが、その点についての説明は今回の記事では省く。確かに理性は誤り得る。理性的な熟慮の末に失敗することがないわけではない。だが、それでも、こと道徳的な推論においては、他のツールに頼るよりも、理性というツールを駆使した方がよい。筆者がそこで批判する他のツールとは、「共感」である。道徳的な推論において「共感」に頼ると、往々にして我々は判断を誤り、状況を悪化させると言う。そして、共感を用いずとも、我々は他者を気遣い、配慮し、優しさを示す能力をもっていると説く。

 

■情動的共感と認知的共感

 

しかし、タイトルが良くない。本書は共感のすべてを否定しているわけではない。共感には2種類ある。情動的共感と、認知的共感だ。情動的共感とは、「他者の感じていることを、自分のことのように感じること」を指す。認知的共感とは、「他者の感じていることを、予測し、理解し、評価すること」を指す。悲しむあなたを見て、私も悲しみを覚えるのは、情動的共感である。悲しむあなたを見て、「あぁこの人は今悲しんでいるのだな」と(感情を挟まずに)理解するのが、認知的共感である。本書が徹底して反対するのは情動的共感であり、認知的共感ではない。

 

筆者は認知的共感には反対していないということに注意されたい。認知的共感は社会生活に不可欠な、手放すことのできないものである。相手が悲しんでいるのか喜んでいるのか、苦しんでいるのか楽しんでいるのか、これを理解することなしに我々は他者に配慮することなどできない(認知的共感を持たなければ、ゲラゲラ笑っている人に「つらいなら相談に乗ろうか」と声を掛けるような、トンチンカンなことをしてしまいかねない)。それに対して、相手の痛みや苦しみを自分の痛みや苦しみであるかのように感じるという意味での共感、すなわち情動的共感は、我々を頻繁に誤った方向へと導く。不公正な政策や無用な暴力を招き、かくして状況を悪化させる。以下「共感」という言葉は、特に断りのない限り「情動的共感」を指すものとする。

 

■共感の問題

 

共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻としてただしく振る舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。(p.9)

 

では、いかにして共感が愚かな判断を招くのか。ひとつは、「スポットライト効果」である。共感は、自分の身近な人、自分と似通った人、魅力的な人、顔と名前がはっきりしている人にはよく向けられるが、そうでない人には向けられない。共感のスポットライトは、一部の人々しか照らさず、それ以外の人々を暗がりの中に置く。白人のアメリカ人は、黒人の苦難よりも白人の苦難に共感しやすい。メディアが報道するただ一人の病気の少年には全米が釘付けになるが、アフリカで飢えている子供達にはほとんど誰も目もくれない。

 

共感の次なる欠点は、数的感覚の欠如である。あるワクチン接種が10万人に1人の頻度で重篤な副作用をもたらすとしよう。もしテレビで副作用に苦しむ女の子が映し出され、彼女や家族の苦しみが報道されたなら、我々は彼女に共感を覚えるだろう。しかし、ワクチン接種プログラムを中止した結果、命を落とすかもしれない多くの人々に共感を覚えることはないだろう。共感は、統計的な処理を苦手とする。

 

また、暴力の多くは共感によって引き起こされる。戦争は(すべてではないにせよ)家族や同胞や同盟国に対してなされた残酷な行為に国民が深い感情を寄せた時に突入しがちである。「イスラエルの三人のティーンエイジャーが殺害されたというニュースに対する反応がガザ地区の攻撃を促したことを、また、ハマスを始めとする組織が、殺害されたパレスチナ人を宣伝に用いてイスラエルに対する攻撃をとりつけたことを考えてみればよい。」共感の擁護者はこれに対して、仲間にばかり共感を寄せ、敵に対して共感を抱かないのが問題なのだと、批判するかもしれない。しかし上述のスポットライト効果で説明した通り、それは至難の業である。スポットライト効果により、白人の共感は、差別に苦しむ多くの黒人よりも、黒人にレイプされた白人女性に集まり、かくして憎悪と人種差別は加速する。

 

共感は私たちを、自己の行動の長期的な影響に無関心になるよう誘導し、共感の対象にならない人々、なり得ない人々の苦難に対して盲目にする。つまり共感は偏向しており、郷党性や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する。かくして暴力の引き金になる。身内に対する共感は、戦争の肯定、他者に向けられた残虐性の触発などの強力な要因になる。人間関係を損ない、心を消耗させ、親切心や愛情を減退させる。(p.17)

 

共感によって他者の苦しみに囚われると、苦難に陥ったより多くの人々に対しては無関心になり、長期的にはより多くの苦しみを生じさせてしまいかねない。また多くの暴力は共感の欠如によって起こされるものではなく、むしろ過剰な、かつ限定された共感によって引き起こされる。筆者は以上のように共感の問題点を指摘して、理性を働かせること、公正や平等といった抽象的な概念に道徳の基礎を置くこと、そして共感よりも対象の広い思いやりの気持ちをもつことを薦める。

 

情動的共感の能力は、実のところ道徳を蝕むように働くと、私は考えている。道徳的な判断を下そうとして、他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、ときに満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも、より距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果を行使した方がはるかによい。(p.51)

 

■共感なしの道徳

 

しかし、ここで疑問を抱かないだろうか。共感なしに道徳的な判断を下したり、人を思いやったりすることは可能なのだろうか。困っている人に親切にするのは、まず共感ありき、その人の困難を自分のものとして感じることなしには不可能なのではないか。もっともな疑問だが、これが誤りであることは身近な例を思い浮かべてみればすぐにわかる。我々は、ある行為が道徳的に正しくない行為であることを、特定の誰かに対する共感なしに瞬時に理解できる。例えばゴミのポイ捨てや公共物への落書きが悪い行為であることを理解するのに、何者かへの共感は特に必要としないだろう。

 

また、人を思いやるのに共感が必要であるというのも誤りである。子犬に吠えられて脅えている女の子を助けようと、私が子犬を落ち着かせ「ほら怖くないよ」と女の子をなだめる時、私は女の子に共感を覚えていない。私は子犬が怖くないのだから、私が女の子の恐怖を自身の恐怖のように感じることは不可能である。ここにあるのは女の子に対する思いやり、親切心であって、女の子に対する共感ではない。明らかに、思いやりや親切心に共感は不可欠ではない。

 

■共感と思いやり

 

最後に、共感よりも思いやりを説く第4章について触れて、締めくくる。利己主義者がひたすら自己の快や苦ばかり配慮し、他者の快や苦には無関心でいるのに対し、過度に共感力の高い人は、他者の経験が常に自分の頭を占める。ある2人の心理学者による、「他者に過剰に配慮し、自分のニーズより他者のニーズを優先する」性質の強さを調査する研究では、被験者は以下のような質問をされる。

 

 ・自分が満足するには、他者も満足しなければならない。

 ・誰かに助けを求められると断れない。

 ・他人の問題に悩むことが多い。

 

これらの質問は必ずしも「共感力の高さ」を測るものではないが、この質問に対する高いスコアと共感力の高さには強い相関がある。そして高いスコアを示す人が、生活に困難を抱えがちなのは想像に難くない。研究によると、スコアの高い人は他者を強く気づかうが、他者からはあまり気づかわれないという非対称的な関係がある。また、スコアの高い人が、他人の抱える困難について聞かされたその数日後に面談を受けると、それに関してまだ心の動揺がおさまらずにいると、高い割合で回答する。さらに、友人が自分の手助けや助言を望まないと気が動転し、友人が自分以外の人からの援助を受けると、深く気にしてしまう。そして他者の生活に対する注意の集中により、自分自身に対するケアを怠ってしまい、心臓病、糖尿病、がんなどに罹患するリスクが高くなるという。

 

加えて、他者の苦しみに共感し、自分自身も苦痛を感じてしまうことにより、思いやりや親切心を適切に発揮できなくなることが多々ある。共感は、倫理的判断の指針として不適切であるばかりか、おそらく日常生活でもある程度抑制するべきなのだろう。筆者は仏僧であり神経科学者であるマチウ・リカールを紹介する。リカールは共感と思いやりのコントロールの達人である。長くなるが、引用したい。

 

共感と思いやりの神経科学的差異は、リカールを被験者とした一連のfMRI実験で調査されている。この実験では、スキャナーに横たわるリカールに、苦難にある人々に向けて、さまざまなタイプの思いやりの瞑想を実践するよう求めた。実験者が驚かされたことに、彼が入った瞑想状態は、共感による苦痛の共有を司る脳領域の活性化を引き起こさなかった。彼のような瞑想者でなければ、他者の痛みについて考えると、通常はこの領域が活性化される。しかもリカールは、快と高揚を感じていた。彼はスキャナーから出たあとで、その経験を「強い向社会的動機づけを伴うポジティブな状態」と評した。

 

次にリカールは、もう一度スキャナーに横たわって、今度は共感を覚えた状態に身を置くよう求められた。すると、しかるべき共感の神経回路が活性化された。彼の脳は、他者の痛みについて考えるよう求められた非瞑想者の脳と同じような活性化を示したのだ。彼はのちに、この経験について次のように述べている。「共感による共有は、(……)私にはただちに耐え難いものになりました。燃え尽きたかのごとく、情動的に消耗したように感じられたのです。(……)」(p.171)

 

神経科学者や心理学者は、思いやりの訓練としてマインドフルネス瞑想を取り入れている。思いやりの訓練は瞑想者に快を与え、他者に対してより親切に振る舞うことができるようになるという。これは、他者の苦しみを分かち合う共感が、自分自身にも負担を与え、効果的に人を助けられなくなるのと対照的である。共感がなくとも我々は他者を思いやり、配慮し、愛情を持って温かく気づかうことができる。はっきりと言えば、共感の度合いが小さい方が、すなわち共感を抑制した方が、人は親切になれるのである。

 

苦しみを抱える人に共感を覚えないことは人としての義務を怠っているのだろうか。決してそんなことはない。優れたセラピストは、クライアントの抱える抑うつや不安をよく理解しようと努め、耳を傾け、クライアントに対する積極的な関心を示すが、一緒に抑うつや不安を抱えたりはしない。優れたセラピストはクライアントから一歩距離を置く。クライアントに対して共感ではなく、理解力や気づかい、温かい思いやりを用いるのである。

 

他人の苦しみによく耳を傾け、その人の置かれた状況を理解しようと努めよう。共感が必要だと言うのならば、情動的共感ではなく「認知的共感」を駆使しよう。それだけでも(その方が)我々は、人を思いやれるのだから。この提言が、少しでもあなたの生きづらさを軽減するのに役立てば、うれしいです。