ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

種差別と合理的な区別

動物愛護、動物保護、動物の権利に関わる議論では、「種差別」という単語が頻出する。そして「種差別」という語の意味するところが人によって異なっていたり、曖昧であったり、感情的に使用されたりするため、議論は時に不毛になる。「種差別」概念を受け入れられないという人は少なくないが、それは語る側の不用意な使用にまったく責任がないわけではない。今回の記事ではその意味するところをできるだけ正確に記述したい。

 

 

 

例えばこの空からの手紙氏という方は種差別という概念を、「同じ命なのに」という表現によって理解している。空からの手紙氏の理解では、種差別批判とは、「同じ命なのに、その配慮の仕方に差があることを糾弾する思想」といったところだろう。しかしこの理解は正しくない。「同じ命であること」を根拠に、命あるものへの配慮に差を設けない規範は、不合理であるし、実践は絶対に不可能である。

 

同じ命――ここでの「命」とはおそらく生物学的生命を指すだろう――であることを根拠にしたならば、我々はどのような生活を送ればよいのか途端にわからなくなる。食べられるものはほとんどなくなるだろうし、肉眼で見ることのできない無数の微生物に対する「配慮」の仕方など誰にもわからない(例えば外から帰宅して手を洗いうがいをすれば、手の表面や口腔内の無数の雑菌を洗い流すし、テーブルをアルコール消毒すればテーブル上の無数の雑菌を殺す)。

 

では種差別をどのように理解すればよいのか。ピーター・シンガーの定義によれば、種差別とは「私たちの種〔人類〕の成員には有利で、他の種の成員にとっては不利な偏見ないしは、偏った態度」である*1。この定義は決して誤ってはいないのだが、「ある範囲の動物に倫理的配慮を示し、範囲外の動物に対してはそうしない」という別の形の種差別を捉えられていない*2。そこで今回の記事では別の角度から、ジェームズ・レイチェルズに依拠して、種差別を「倫理的配慮の境界線を、生物種の相違という理由のみに基づいて、生物種の境界線と一致させること」としよう*3

 

「倫理的配慮の境界線を、生物種の境界線と一致させること」は、何らかの事実に基づいていれば、適切であることがある。しかし、「倫理的配慮の境界線を、生物種の相違という理由のみに基づいて、生物種の境界線と一致させること」は、常に不正である。それは、その理由が不合理だからである。どういうことか。性差別や人種差別のアナロジーによって説明していく。

 

「倫理的配慮の境界線を、性別の相違という理由のみに基づいて、性別の境界線と一致させること」は常に不正である。そもそも性別に明確な境界線などあるのか、という批判ももちろん正当なものだが、便宜上、ここではその批判は置いておいてほしい。

 

リン(男性)は大学で学ぶことに利益があり、マル(女性)にも同様の利益があるとしよう。この時、「大学で勉強する機会を与える」という倫理的配慮を、リンにのみ与え、マルには与えない正当な理由が何かあるだろうか。もしもリンが男性であり、マルが女性であるから、というだけの理由でそうするならば、これは「性別の相違という理由のみに基づいて」いることの典型であり、不正である。というのは、大学で学ぶという利益に関連のある適切な事実は「講義室へ行き、言葉を理解し、読み、書くという能力が備わっていること」であり、性別の相違は(もちろん人種の相違も)何ら重要ではないからである。

 

それに対して、それ以外の理由、例えばリンは合格基準点に達したがマルは達しなかった、といったものがあれば、少なくとも、性別の相違という理由のみに基づいた決定ではない。(ただし、生まれ育った家庭環境も、もともと備わっている能力も異なっているのに、一律の「合格基準点」を適用させることが適切かどうか、という批判もあるだろう。どのような場合にアファーマティブアクションが妥当であるかなど、真剣に考えねばならない課題である。)

 

女性には生理休暇が認められているが、男性には認められていない。しかしこの倫理的配慮の相違は、単なる性別の相違という理由のみに基づくものではない。女性には生理があり、男性にはない、という別の事実があるがゆえの扱いの差である。(もちろんここでも、生理のない女性もいれば、生理のある男性もいるはずなので、この扱いの差が全面的に適切なわけではない。)

 

人種差別もまた、「倫理的配慮の境界線を、人種の相違という理由のみに基づいて、人種の境界線と一致させること」として多くを説明できよう(決してすべてではない)。ただしこれも、性別に明確な境界線を想定することと同様に、あるいはそれ以上に、「人種」などという科学的な根拠のない概念に境界線を想定することには問題がある(したがって人種差別は二重の意味で悪い)。

 

白人が自由を享受することに利益があるならば、黒人にも同様の利益があろう。そこで、「自由を保障する」という倫理的配慮を、彼らは白人ではないからというだけの理由によって黒人に与えないならば、「人種の相違という理由のみに基づいて」いることの典型であり、不正である。自由を享受するという利益に関連する適切な事実とは、「自由の侵害によって苦痛を感じること/自由の享受によって幸福を得られること」であり、人種の相違は(もちろん性別の相違も)何ら重要ではないからである。

 

それに対して、ある映画監督がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生涯を、映画化したいと考えているとしよう。この時に、主人公を演じる役者の候補から白人男性を除外することは不正ではない。この除外は単なる人種の相違という理由のみに基づくものではなく、外見や演技力やその他の要素を絡めて、キングを忠実に表現できるかどうかが考慮されているのである。

 

さて、種差別の話である。「倫理的配慮の境界線を、生物種の相違という理由のみに基づいて、生物種の境界線と一致させること」を種差別と定義した。では、ウサギに、大学で学ぶことを認めないことは種差別に当たるだろうか。当たらない。ウサギが大学で学ぶことを認められないのは、彼らが「ウサギだから」ではない。上述の通り、大学で学ぶという利益に関連のある適切な事実は「講義室へ行き、言葉を理解し、読み、書くという能力が備わっていること」である。「ウサギだから」という事実ゆえにではなく、ウサギはその能力を欠いているからという事実ゆえに、大学で学ぶことを認められないのである。ウサギを講義室に連れて行き、ノートとペンを渡しても、ウサギには何の意味もないだろう。

 

それに対して、動物実験によってウサギを苦しめることは種差別に当たるだろうか。当たる。人間を被験者の同意なく実験に利用することが許されない一方で、ウサギを実験に利用することが許されているのは、我々が「人間であるから」、そして彼らが単に「ウサギだから」である。つまり、生物種の相違という理由のみに基づく配慮の差に他ならない。ある者は、我々の基本的人権を指摘するかもしれないが、これは我々が人間であるということの同語反復に過ぎない。苦しみから自由であるという利益に関連する適切な事実とは、「苦痛を感じること」である。すなわち、侵害受容器が存在すること、それらが中枢神経系と繋がっていること、侵害刺激がこれを経由して大脳皮質に至ること等であって、このこと以外の事実は何ら重要ではない。この特徴を備えていれば苦痛を感じるのに十分であり、したがって、苦しみから自由であるという利益に、性別の相違も人種の相違も生物種の相違も何ら重要ではない。

 

ビーガンが動物食を避けているのは植物に対する差別に当たるのだろうか。種差別を「同じ命なのに、その配慮の仕方に差を設けていること」と理解するならば、非難を免れないだろう。しかし我々がある範囲の動物に何らかの倫理的配慮を示すことを、「同じ命だから」と説明すべきではない。利益に関連する適切な事実があるからである*4。若く元気な大型犬と一緒に暮らしている者は、犬を毎日一定時間の散歩に連れて行かないのは虐待であることを理解しているだろう。散歩は、犬の健康という利益にとって欠かせないものである。しかし、観葉植物を毎日一定時間の散歩に連れて行かないことを虐待であると考える者はいないだろう。観葉植物の生育にとって散歩は意味をなさない。

 

単なる生物種の相違という理由のみに基づいて倫理的配慮の仕方に差を設けることが種差別なのであり、これは性別・人種の相違という理由のみに基づいて倫理的配慮の仕方に差を設けることと同様の不合理である。もし単なる生物種の相違以外の何らかの理由がある場合、我々は次に、それが問題となっている利益に関連のある適切な事実かどうかを検証しなければならない。

 

【参考文献】

ジェームズ・レイチェルズ〔著〕古牧徳生、次田憲和〔訳〕『ダーウィンと道徳的個体主義――人間はそんなにえらいのか』晃洋書房、2010年

古牧徳生「ウサギと脳死者」『倫理学研究』第41号、関西倫理学会、2011年、p.23

*1:詳しくは、2018年4月11日の記事

「種差別」という概念 を参照

*2:例えば、「犬や猫を可愛がり、虐待を糾弾し、殺処分に心を痛める一方で、同時に牛や豚の悲惨な生活に無関心である」といった態度も一種の種差別であろう。

*3:これはジェームズ・レイチェルズによる定義ではないが、彼の著作を読むとこのような定義が適切と思われる。

*4:もし「苦しみを感じる」ことに関して植物にもそれを示すような科学的データが蓄積されたならば、レタスを使って調理する時はレタスに配慮しましょう、というような倫理的配慮の義務が生じてくるだろう。