ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

レーガンの動物権利論

2018年最後の記事です。前回12月28日に「カントの間接義務論」を論じ、その最後にカント主義からトム・レーガンの動物権利論への接続に触れたので、今回はレーガンの理論についてまとめます。とは言っても、トム・レーガンの書籍は日本語に翻訳されているものが1冊もなく、また原著も難しいです(買ってみたものの、本棚の飾りになっている状態です)。

 

日本語で読めるトム・レーガンのまとまった文章は、ピーター・シンガー[編]『動物の権利』技術と人間に収められているレーガンの「動物の権利」、小原秀雄[監修]『環境思想の多様な展開 環境思想の系譜3東海大学出版会に収録されている「動物の権利の擁護論」(これは1983年のThe Case for Animal Rightsの一部を翻訳したもの)くらいです。なのでこの二編と、あとは動物倫理のテキストから拾えるレーガンの理論を概観して、まとめました。

 

  1. 功利主義
  2. 生の主体
  3. 菜食主義の擁護
  4. 家畜動物がいなくなることについて
  5. 絶滅危惧種について
  6. 人間の権利と動物の権利
  7. 哲学者の仕事と「抑制された熱情」

 

 1.反功利主義

2018年11月26日の「ピーター・シンガーと動物実験」、12月28日の「カントの間接義務論」で述べたように、シンガーの動物解放論と、レーガンの動物権利論は、追及する目標は一見してほとんど同様であるものの、その理論的根拠は異なり、鋭く対立している。

 

シンガーの動物解放論は、功利主義に依拠する。功利主義とは、行為によって影響を受けるすべての存在者(これを「関係者」と呼ぶ)を考慮に入れ、存在者の幸福(快楽、または選好の充足)を全体として最大限にもたらすような行為ほど道徳的に正しいとする立場である。功利主義の原理において、ここで強調すべき特徴が2点ある。第一に、徹底した平等主義であり、第二に帰結主義である。

 

第一の点について。功利主義は、あらゆる存在の快と苦を平等に考慮に入れなければならないとする。性であれ、肌の色であれ、国籍であれ、民族であれ、これらの属性は快苦を受容する能力とは無関係である。功利主義者は関係者の快苦の総量、すなわち快と苦の差し引きが最大となるように行為する。そして、快苦を受容する能力は動物にも備わっているのだから、当然ながら動物の快苦もその集計に含まれなければならない。「問題は、彼らが考えられるかでもなければ、彼らは話すことができるかでもない。問題は彼らは苦しむかだ」とは、功利主義者ジェレミーベンサムの有名な記述である。

 

第二の点について。功利主義は、行為の正しさを、その行為の帰結から判断する、帰結主義に基づく倫理学説のひとつである。したがって功利主義は、行為の手段の正しさを判断する指標にはならない*1。シンガーは功利主義に基づき、化粧品の安全性試験において動物を利用することの禁止を主張した。その根拠は、安全性試験により人間が得られる快楽よりも、動物が被る苦痛の方がはるかに大きいためである。しかしシンガーはまた、数千人の人間をパーキンソン病から救うためのサルを用いた実験については、これを「正当化される」と評価した*2。このことは驚くに当たらない。功利主義にとって道徳的に重大なのは、もたらされる帰結が、悪にまさる可能なかぎり最大の善を達成しているかどうかであって、そのための手段ではないからだ。

 

レーガン功利主義に強く反対する。前回説明したとおり、レーガンはカント主義を修正し、「目的自体」として扱われるべき存在を人間から人間以外の動物へと拡張した。「目的自体」たる存在者には内在的価値があり、我々はかれらを「単に手段として」扱ってはならない。我々はかれらに敬意を払って、適切な仕方で扱わねばならない。またこの見解によれば、道徳的な正しさは、行為の帰結には依存せず、他者をどう扱ったかによって決まる。したがって、数千人の人間をパーキンソン病から救った研究は、それがどんなに人類の福祉に貢献し、またその犠牲となった動物が最小限のものだったとしても、動物たちを「目的自体」として扱わなかったのだから――端的に言えばかれらの権利を侵害したのだから――道徳的に不正な研究だったのである。

 

動物もまた人間のように「目的自体」であり、内在的価値を有する。内在的価値を有する個体は権利を保有する。大ざっぱだが、以上がレーガンの動物権利論の基底的な思想である。帰結は道徳的な正しさにとって問題ではない。人間の福祉にとって真に有望な研究でさえ、手段は正当化されない。

 

実験用ラットのような平凡な生物の場合でさえ、われわれはその行為を正当化できない。求められているのは、たんなる動物実験の洗練や削減ではない。また、より大きな、より清潔なケージでもなく、麻酔薬をもっと物惜しみせずに使うことや、同時に多数の外科手術を行うのをやめることでもなく、システムをきちんとすることでもない。求められているのは、動物の利用を他の方法に完全におきかえることである。科学における動物の使用に関してわれわれにできる最善のことは、彼らを使用しないことである。権利論によれば、それがわれわれの義務である。

トム・レーガン「動物の権利」、ピーター・シンガー[編] 『動物の権利』

 

2.生の主体

しかし、権利論は問題に直面する。人間以外の動物のうちどれだけが内在的価値を有し、権利を保有するのかという線引きの問題である。レーガンが提案するのは、「生の主体」(sbject of life)という基準である。レーガンは、そのすべてを備えていれば「生の主体」としての十分条件になるような、一群の心的能力のリストを提案する。この心的能力のリストには、欲求する能力、記憶する能力、意図的に行為する能力、感情をもつ能力、などが含まれる*3

 

こうした能力をもつならば、当該動物は「生の主体」であり、目的自体として取り扱わなければならない。では、「生の主体」には具体的にどのような動物が含まれるのだろうか。たとえばホモ・サピエンスは、脳死状態のような者でない限り、赤ん坊や高齢者も「生の主体」としての基準を満たすだろう。レーガンは「1歳以上の正常な哺乳動物」が少なくともその基準を満たすと考えていたが、やがて自説を修正し、鳥類や魚類も「生の主体」であるとした*4*5

 

こうして、「生の主体」である存在をカントの言うような「目的自体」として扱わねばならないとしたら、人類の動物利用は抜本的に改めなければならない。人間が人間を「目的自体」として尊重しなければならないのとまったく同様に、動物に対してもそうしなければならない。我々は乳幼児を医薬品の安全性試験に利用したりはしないのだから、動物を安全性試験に利用することもまた、厳しく禁じられなければならない。食肉や動物実験だけでなく、衣類としての動物利用、狩猟、鑑賞利用、売買なども全面的に廃止されなければならないだろう。

 

3.菜食主義の擁護

 菜食主義を支持する根拠においても、レーガンはシンガーの理論と強く対立する。まず、シンガーが功利主義に基づいて菜食主義を支持する根拠を概観しよう。

 

人間が肉を食することによって得られる利益は、ささやかな味覚の喜びである。動物を食べなければ餓死せざるを得ないような極限の環境に住む人々にとっては、確かに食肉は死活問題であろう。しかし産業化社会に住む我々にとって、肉は必需品ではなく贅沢品なのだから、食肉から得られる利益は比較的小さな利益(少々の快楽)である。これに対して、工場畜産において家畜が被る不利益(すなわち苦痛)は、ここに詳述するまでもなく、膨大なものである。であるから、動物の重要な利益を犠牲にし、さほど重要ではない我々の利益を満足させるのは正しくない。したがって我々は、工場畜産の最終的な産物である肉をボイコットすべきである。以上がシンガーが菜食主義を義務とする(おおよその)議論である。

 

ところで功利主義とは、ある行為によって影響を受けるすべての存在者の快楽と苦痛を集計し、その差し引きが可能な限り最善となるような帰結を目指す行為を、我々の道徳的義務とするものである。このことを前提として、レーガンは、功利主義に基づく菜食主義に対して以下のように反論する。

 

①<私が>肉を買うのを拒否することの道徳的正否は、功利主義によれば、私の行為によってではなく、他にどれだけ多くの人が同じ行為をするかで決まる

②菜食主義が食肉産業にどのような影響を及ぼすか、必ずしも明確ではない

 

①について。レーガンが言うには「功利主義的思考によれば、大勢の人が肉を買うのを控えた結果、害を受ける家畜の頭数が減り、家畜が受ける害の程度が軽くなった時、初めて私は正しいことをしたことになる。」1人の非菜食主義者菜食主義者になったとして、それによって害を被る家畜が1頭でも減るのかと言うと、それは甚だ不明確である。したがって、功利の原則は、1人の非菜食主義者が現時点でなぜ菜食主義者にならなければならないのか、公正な根拠を示していない*6

 

②について。これは、人類が菜食主義者になることについて、その帰結が最善の状態であるとなぜ断言できるのか、という指摘である。畜産業の廃止があらゆる関係者に及ぼすであろう正と負の影響を正しく把握し、それを集計した結果をイメージするのは極めて困難である。またその状態が、悪にまさる可能なかぎり最大の善を達成していると確信することも難しい。そのことをわかりやすく指摘したゲイリー・フランシオンの『動物の権利入門』から引用しよう。

 

シンガーは工場式畜産が動物にもたらす負の結果はその便益を上回ると考えるが、この事業を廃した時に人間が被る負の結果をすべて足し合わせるとしたら、彼の経験的判断には少なくとも疑問の余地が生じる。経済的な悪影響を受ける者に注目しても、そこには動物の飼養と殺害に直接たずさわる農家や屠殺業者、間接的に食品事業に関わる小売店その他、酪農業界の関係者、外食店の関係者、ペットフード産業、製薬産業、皮革・羊毛産業、農業に付随する農学・獣医学研究の関係者、畜産に関する書籍の出版関係者、畜産物の宣伝関係者がいる。工場式畜産の廃絶が国際経済を大きく揺るがすことは疑えない。

ゲイリー・フランシオン『動物の権利入門』

 

(当たり前のことだが!)フランシオンは工場式畜産の廃絶に疑義を呈しているのではない。シンガーの根拠に疑義を呈しているのである。①と②の指摘に加えてさらに、シンガーの議論では「苦痛なく快適な環境で飼養された動物を、無痛で殺し、その肉を食べることは不正か」という問題も残る。

 

シンガーによる菜食主義の功利主義的擁護に反対して、レーガンは権利基底的な根拠を主張する。権利論に基づけば、菜食主義がなぜ義務になるのかは、明白である。それは畜産業が他者の権利を侵害するシステムだからである。いやしくもあらゆる動物(ここではレーガンの言う「生の主体」に限定してもよい)に権利を認めるならば、我々は当然ながら、そのようなシステムを支持してはならない。

 

また、義務に基づいてなされる菜食主義は、他にどれだけ多くの人が菜食主義を指向するかに、まったく依存しない。今、<私が>菜食主義を実践することによって、畜産業と食肉市場にどのような影響を与えるか、結果は変わるのか、それによってどれだけの動物が虐待を免れるか、それはいつ、どのようにしてか……が不明であるからといって、権利論者の方針は変わらない。畜産業が他者の権利を侵害している以上、その製品を購入することは道徳的に誤りである。

 

仮に、将来的に畜産業が解体される見込みがないとしても、菜食主義者であり続けることは道徳的な義務である。極端なことを言えば、地球上にあなた以外の誰一人として菜食主義者がいないとしても、そうである。他者の権利を侵害してはならないという義務の正しさは、どれだけ多くの人がその義務を遵守するかとは無関係に、正しい。菜食主義者であることの義務は、菜食主義を実践する人の多寡と無関係である。

 

4.家畜動物がいなくなることについて 

我々が菜食主義者となり、やがて畜産業が廃止されれば、家畜動物は減少し、いなくなってしまうのではないか?――これは酪農・畜産業を批判するヴィーガンに頻繁に寄せられる問いだが、レーガンもこれに答えている。もしも家畜動物に権利が承認され、動物たちが人間の財産でなくなったならば、農場主はもはや家畜を飼養したいという経済的誘因をもたないであろう。商業的利益のために家畜を飼育する農場はなくなってしまい、やがて家畜も存在しなくなってしまうだろう。動物権利論は動物の救済を訴えているが、その帰結として動物そのものがいなくなってしまうのであれば、それは背理なのではないか。

 

これは背理ではないし、動物権利論に対する反論にはなっていない。確かに権利論は畜産業の全面的な解体を要求する。それは、畜産業が動物の権利を日常的に侵害しているからである。しかし、権利論が求めているのは、動物の絶滅ではなく、動物が「目的自体」として適切に尊重されることである。道徳的に重要なことは、家畜動物がどれだけ存在するかではなく、家畜動物がどのように扱われているかである。家畜をこの世に存在させたいという農場主の経済的誘因は、そもそも動物の権利を侵害している原因の一つなのであるから、その誘因が失われることは何ら遺憾ではなく、むしろ望ましいことであろう。「確かに家畜の数は減るだろう。しかしそれは、我々の道徳的誤りというよりは、道徳的進歩の指標となるものだ」。

 

5.絶滅危惧種について

動物権利論は個体の道徳的権利についての理論である。権利論は動物個体について、危害を加えられない権利、殺されない権利を主張する。その動物個体がどの動物種に属しているかを問題にせず、あらゆる個体に平等な道徳的配慮を要求する。それに対して、動物種は個体ではないのだから、動物種については、生存権も含め、いかなる権利も認めていない。

 

絶滅の恐れのある動物種の最後の二個体が、畜産場の牛よりも積極的に守られなければならない理由は、特殊な事情がない限りは、ない。絶滅危惧種の個体が、絶滅危惧種であるというだけの理由で、個体数の多い動物種に属している個体より、優遇されることはない。ある動物個体がその種に残された最後の成員であるということは、その個体に、何ら特別な権利を付与しない。その動物が守られる権利は、他のすべての個体がもつ権利と、平等な重みをもつ。

 

もちろん、動物権利論は絶滅危惧種の個体を守ることに反対しない。しかしそれは、「かれらが絶滅危惧種だから」ではない。それは、密猟や売買、かれらの生息地の破壊といった、かれらの権利の侵害に断固反対するからである。もしも人間が、人類の美的な鑑賞目的や商業利用のためにかれらを保護し、絶滅を防ごうとするならば、動物権利論はその試みに断固反対するであろう。

 

繰り返そう。動物権利論は絶滅危惧種に属する個体を守る努力に無関心ではない。しかし、これらの動物の数が少ないから努力するのではない。「何よりも彼らが、我々も含めてすべての固有の価値を持つ者と等しい価値を持ち、我々とともに、敬意をもって扱われるべき基本的権利を共有しているからこそ、その努力を支持するのである」。

 

6.人間の権利と動物の権利

レーガンによれば、動物権利運動に賛同する者は、人権――女性、マイノリティ、労働者、外国人――を擁護する闘争におけるパートナーである。というのは、動物の権利の根拠を示す理論は、人間の権利にも根拠を与えるからである。したがって、動物権利運動は人権運動に敵対するものではなく、人権運動の一部に他ならない。

 

7.哲学者の仕事と「抑制された熱情」

レーガンは言う。哲学的考察は政治的な行動の代わりにはならない、と。

 

私がここやその他のところで書いた文章は、それ自体の力で状況を変えることはない。状況を変えるのは、われわれがそのことばで表現された思想にもとづいて行う実践――われわれの行為、行動――である。哲学にできることであり、私が試みたことは、われわれの行動が何をめざすべきかについてのビジョンを提供することだけである。またその目的がなぜ導き出されるかをのべることであって、いかにして達成されるかをのべることではない。

 

哲学者の議論は決して不毛ではない。地図がなければ目的地へ到達できず、ビジョンを示さなければ運動家は右往左往するばかりであろう。また、レーガンは非常に緻密で少々晦渋でさえある理論を構築したが、知性的に過ぎるわけでも、冷静に過ぎるわけでもなかった。レーガンは動物を巡る議論をどこまでも知的に取り扱ってきたが、それは彼が情熱に欠けていたり、冷静に過ぎることを示すものではない。レーガンは自身の哲学者としての仕事について、「抑制された熱情」というイメージを掲げている。長いが、以下の文章を引用して締めくくりたいと思う。

 

私はもうひとりの友人が私に示してくれたイメージを思い出している。それは、抑制された熱情の表現としてのバレリーナのイメージである。長時間の汗と苦労、孤独と練習、疑念と疲労、それらが彼女の技能の訓練を形づくる。しかしそこには情熱もあり、それは、彼女の卓越した技術によって、身体で語り、演技を正しく行い、われわれを深く感動させようとするすさまじい衝動である。このような哲学のイメージ、つまり「あまりに知性的」なものではなくて抑制された熱情としてのイメージを示したい。その「抑制」については、十分にみてきたところである。「熱情」についてはどうか。私は、人間社会の中での動物たちの悲惨な苦境について見、読み、聞くとき目に涙がうかんでくることが、たびたびある。彼らの苦痛、彼らの苦しみ、彼らの孤独、彼らの潔白、彼らの死。怒り。激怒。あわれみ。かなしみ。いとわしさ。われわれ人間がこれらの無言で無力な生きものたちに加えた罪悪の重圧の下で、あらゆる被造物がうめき苦しんでいる。そのすべてを終わらせることを要求し、動物のためにわれわれが、彼らの組織的な抑圧の背後にある習慣と力をのりこえることを要求するのは、われわれの心であって、われわれの頭脳ではない。歴史上すべての偉大な運動は三つの段階を経る。嘲笑、議論、採用の段階である。われわれの熱情と訓練、心と頭脳が要求しているのは、この採用という第三の段階の実現である。動物たちの運命はわれわれ人間の手中にある。

 

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*1:実はこれは功利主義をかなり単純化した説明なのだが、功利主義を正確に記述すると長くなるので許してほしい。功利主義のより詳しい考え方については、また今度。

*2:ピーター・シンガーと動物実験 - ピラビタール

*3:伊勢田によれば、「ただし、少しくらい欠けていても生の主体でないことにはならない、という程度のゆるい基準である」。伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』名古屋大学出版会

*4:田上孝一、「動物権利論の実像」『環境と動物の倫理』本の泉社より

*5:功利主義が動物に対する道徳的義務の根拠を動物が備える「快と苦痛」のみに注目したのに対して、レーガンが提唱した「生の主体」は、あるいは理論の後退かもしれない。翻訳家の井上太一氏によれば、「動物の権利論の基調をなす点を明確に理論化したことがレーガンの貢献であったが、彼の思想は、動物が権利を有するには健常な成人を尺度とした「一定の基準」を満たさねばならないとするなど、人間中心的でありすぎた」。ゲイリー・フランシオン『動物の権利入門』緑風出版、解題より

*6:レーガンによる功利主義へのこの攻撃は、少々拙いかもしれない。しかしどこが拙いかの考察もまた今度にする。