ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

説得力と魅力とのバランス

質問箱に届けられていた質問に答えたいと思います。最初の質問は8月27日に届いていました。3ヶ月も経過していたのですね。大変長い間お待たせしてしまい、すみませんでした。昨日のシンガーの「飢えと豊かさと道徳」の紹介と自身の見解の表明で、質問者さまの疑問に対してある程度は回答できたとは思うのですが、一応、改めて回答を作りました。正直、納得して頂けるかどうかあまり自信はないですが……。

 

まずはブログの読者さんが何の話かわかるように、質問のリンクを。めっちゃ長いです。

8月27日に届いた質問11月30日に届いた質問

 

 

■義務と慈善の区分への懐疑

私は長らくカント倫理学の「完全義務と不完全義務」の区分(または「義務と慈善」の区分)を信頼し、重きを置いていました。そして私は道徳的に生きることも慈善家であることもあまりできなさそうですが、平凡な人間として完全義務だけはこれを無視しないように遵守し、不完全義務の実践については二の次でよいと考えてきました。(完全義務を実行しようとする人は道徳家ではありません。普通の人です。)

 

復習です。

義務……実行しても特に称賛されないが、実行しなければ非難される行為。完全義務ともいう。

 例)人に危害を加えない。他人の物を盗まない。

慈善……実行すると称賛されるが、実行しなくても非難されない行為。不完全義務、超義務ともいう。

 例)困っている人を助ける。寄付やボランティア活動をする。

 

で、私は、ヴィーガンであろうとすることは「他者に危害を加えない*1」という完全義務の実践に過ぎないと考えています。つまり、ヴィーガンであろうとすることは単に当たり前の約束事を守っているに過ぎず、称賛されたり感心されたりするようなことではないと。(ただし実際上は、ヴィーガンになろうとする人を称賛することが効果的である場合は多々あるでしょうから、称賛することを否定はしません。)

 

例えば、人を殺すことは悪行ですが、人を殺さないことは善行ではありません。他人の物を盗むことは悪行ですが、他人の物を盗まないことは善行ではありません。人を差別することは非難に値する行為ですが、人を差別しないことは特に称賛に値するようなものではありません*2。このように、完全義務を実行しないことは非難に値しますが、実行しても称賛されるものではありません。

 

したがって、ヴィーガンであろうとすることは、何か崇高で立派なことをしているのではなく、単に完全義務を遵守しているに過ぎない。そこに褒められたり拍手されたりする要素は何もない。ヴィーガンでないことが、ただただ非難に値するのだと。(現実には、実際に非難はしませんし、非難をすべきだとも思いません。)

 

しかしながら、上記のような完全義務と不完全義務の区分は怪しいものがあると気付きました。特に、「他者を救うこと」を称賛に値する不完全義務とする見方です。例えば、私が卒業して仕事を始め、ある程度生活に余裕ができ、そろそろ動物と一緒に生活したいなと考え始めたとします。そんなある日、職場から帰宅途中に、捨てられて弱っている猫を見かけました。この時、この猫を保護するのは不完全義務でしょうか。つまり、単に気前のよい慈善行為でしょうか

 

「飢えと豊かさと道徳」でシンガーが示した第一の原理「何か非常に悪いことが生じるのを防ぐことができ、しかも、道徳的に重要な何かを犠牲にすることなくそうすることができるならば、我々は、道徳的に言って、そうするべきである」を思い出せば、猫を保護することが実行しなくても非難に値しない慈善(不完全義務)であるという見方は、かなり怪しくなります。

 

もちろん、完全義務と不完全義務の区別そのものを撤廃しなくても良いと思います。ただ、区分の場所を変えるべきだろうと。「さほど重要な何かを犠牲にすることなく、大きな災難を防ぐことができるのならば、防ぐように努力せよ」といった命令は不完全義務ではなくて完全義務と見なしてよいだろうということです。ヴィーガンであるべき理由として「他者に危害を加えないこと」(質問者さんの言葉を借りれば「苦痛や主観的経験をもつ存在の利益を尊重すること」)を掲げる点については、変更の必要性はないと考えます。

 

■失敗した反論

「人は可能な限りベジタリアンないしヴィーガンになるべきだ」という規範的な主張を表明する人は、その主張に説得性を持たせるためには、当然その人自身がヴィーガンであることが要求されるかと思います。ヴィーガンになる目的は、むろんヴィーガンになることではなく、たとえば苦痛や主観的経験をもつ存在の利益を尊重することだったりしますよね。すると、その人の主張に説得力をもたせるためにはさらに、娯楽に金を使うのではなく寄付をするといった実践を生活のほかのあらゆる場面においても行っている必要があるのではないか、また、そうした実践を現実に行っている/行うことができる人というのはほとんどいないのではないか、と思ったということです。

 

質問箱に届いた質問より

 

従来の完全義務と不完全義務の区分に基づけば、「他者を苦しめないこと」は完全義務に相当し、「苦しんでいる他者を救い出すこと」は不完全義務に相当します。したがって、私はまず、質問者さまの言うような寄付、すなわち途上国の人々に手を差し伸べることは不完全義務であり、これをしなくても非難には値しないと考えました。他方で動物搾取から手を引くことは完全義務であり、これはしなければ非難に値するものと考えました。

 

しかしこの反論は三つの理由から誤りであると思い直しました。

 

第一に、上述の通り、このような完全義務と不完全義務の区分はやはり怪しく思えるからです。「苦しんでいる他者を救い出すこと」がさほど重要な何かを犠牲にすることなく達成できるのならば、それをすべきであり、慈善ではなく義務と見なされて良いだろうと。

 

第二に、仮にこのような完全義務と不完全義務の区分を認めたとしても、苦しんでいる他者がもし自分のせいで苦しんでいるのならば、救う義務が発生すると考えられるからです。

だがおそらく、我々が持つ貧しい人々を救う義務は、この例が示唆するよりもずっと強いものかもしれない。なぜなら、子どもが池に落ちたのは通行人のせいではないが、我々の場合はそこまで無実とは言えないからだ。コロンビア大学のトマス・ポッゲは、我々の豊かさの少なくとも一部は、貧しい人々の犠牲によって成り立っていると論じている。彼はこの主張の根拠として、発展途上国からの農作物の輸入に対して欧州と米国が保持している〔関税〕障壁に関するよくある批判を行うだけでなく、発展途上国との貿易に関してあまり知られていない側面にも言及している。例えば彼の指摘によれば国際企業は天然資源を購入するためならばどんな政府とも取引するつもりであり、その政府がどのようにして権力を得るに至ったかについては無関心である。このことは、既存の政府を転覆させようとする集団に対して、大きな金銭的誘因を与える。反逆に成功した者たちは、その国の石油、鉱物、木材を売り払うことで一儲けできるからだ。

 

ピーター・シンガー「億万長者はどれだけ寄付をするべきか――そしてあなたは?」、『飢えと豊かさと道徳』より

 

第三に、仮に私の見解が正しいとしても、質問者さまの肝心な点「その人の主張に説得力をもたせるためには」という部分を無視しているからです。「途上国の人々に手を差し伸べることは不完全義務であり、これをしなくても非難には値しない(だから私はしなくてよい)」と主張する人がいたら、もしそれが正しいとしても、説得力(特にヴィーガンへの共感)はやはり感じられないでしょう。

 

 ■説得力と魅力とのバランス

そこで、結局のところは、自身の規範的な主張に説得力を持たせるための活動と、魅力的なお手本になるような生活との、バランスになるのだと思います。以前ヴィーガンを揶揄する人が、「山奥に籠もって自給自足の生活をしてこそ説得力がある」などと言っていたのを聞いたことがあります。その人は、ヴィーガンと言えど動物を犠牲にすることから完全に自由ではないことを言いたかったのでしょう。確かに、ヴィーガン生活を送っていても、動物を犠牲にすることが避け難いのは事実です。農業による野生動物の駆除だけでなく、例えば遠方から商品を注文したら、商品を運ぶトラックによる動物のロードキルの可能性もあります。

 

山奥に籠もって自給自足生活を送る人は自らの生活で犠牲にする動物数をほぼゼロに近づけられるでしょうから、そういう人の主張するヴィーガニズムにはいわゆる「説得力」はあるかもしれません。しかしながら、そのような人が魅力的なお手本かと言うと、そうは言えないのではないでしょうか。昨夜引用したグリーンの『モラル・トライブズ』を再び引用します。

この問題に対しては、長い目で見ると、英雄的活動より、粘り強い活動の方が望ましい社会的側面があるかもしれない。あなたの人生は他者、とくにあなたの子供(子供がいたらの話だが)の手本になる。寄付を通じて毎年数百人の生活を改善しながらも、幸福で満たされた生活を送っているなら、他者が見習うことのできるお手本になる。しかし、自分を限界ぎりぎりまで追い詰めれば、寄付によってより大きな善を直接実践しているのかもしれないが、魅力的でないお手本となることによって、より大きな道義を損なっているかもしれない。長い目で見れば、穏当で持続可能な利他主義の文化を促進することが、自分を限界まで追い詰めるより、善い行いであるかもしれない。

 

ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ(下)』

 

つまり、自身の主張に説得力をもたせるような、できる限りの倫理的な生活を心掛けるべきだが、ある程度自分に寛容にならなければ、他者の魅力的なお手本にはなれないのではないか、ということです。もちろん、これはどうしても自分に寛容になってしまう自分への言い訳的な側面もあることを認めなければなりません。しかし実際問題、自分の娯楽を削って限界ぎりぎりまで追い詰める生活は、立派ですしその人の発言には説得力こそあるものの、私たちが真似したい魅力あるお手本とはなり得ないでしょう。

 

昨日の結論の繰り返しになりますが、多くの人が実践したくなる「穏当で持続可能な利他主義」を実践し、またその水準を少しでも高めるように努力すべきこと。こうして、説得力と他者の魅力的なお手本となることとの両立を目指すのが、私が改めて大切にしたい姿勢です。

 

大変長くなってしまいましたが、このような回答で満足頂けたでしょうか。

 

最後に、この件でお話した大切なお友達の言葉を引用します。

できるだけエシカルな消費をして、自分を犠牲にしない程度でみんなが助け合うことが理想だと思ってます。公正な賃金や人道的なビジネス、そして消費者が搾取を許さない、搾取に加担しないことがなによりも大事だと思います。

 

お友達の言葉

 

*1:より正確に言えば、「他者の利益を奪わない、他者に不当に不利益を与えない」になります。

*2:この点について、twitterのフォロワーさんから指摘を受けました。そのまま引用致します。「議論で見落とされている点があると思います。人を殺さない・他人の物を盗まない・人を差別しない、の3つのうち、殺さない盗まないは私たちは当然の前提として簡単に共有できますが、「差別しない」に関しては字面の上では共有できても現実に差別と認識されず差別が横行しているということです。だからこそ差別しない振る舞いが称賛されることがあるのでしょう。そして種差別については、世の中はむしろ「差別すること」への強い動機付けで満ちてしまっています。反種差別のヴィーガン活動は、種差別に気付いてもらい、種差別をしないことが「完全義務」だと認識してもらう働きかけだと思います。」