ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

「動物に権利はあるか」 by ジェームズ・レイチェルズ

先日のとある講義で、動物の権利論が「極端だ」「過激だ」という表面的なコメントだけで退けられるのを聴いた。動物の権利論の要求にしたがえば確かに我々の社会は抜本的な改革を余儀なくされるし、獣医師の職域も大きく狭まるだろう。その意味では過激に聞こえるのかもしれない。しかし過激に聞こえるということはそれが論理的に誤っていることを意味しないし、それだけ現状が理想からかけ離れているということの証左なのかもしれない。少なくとも、過激だという一言で退けるのでなく、動物の権利論のどこがおかしいのか、論理的な誤りにも言及してほしいものである。別の大学の講義ではまた違ったコメントを期待できるのだろうか。

 

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

倫理学に答えはあるか―ポスト・ヒューマニズムの視点から―

 

 

 というわけで、動物の権利論について、何回かに分けて紹介していきたい。動物の権利運動では、ピーター・シンガーがその草分け的存在として挙げられるのが一般的だが、それは厳密には正確ではない。シンガーの『動物の解放』を皮切りに運動が活発化したのは事実だが、シンガー自身は「権利」という概念をあまり重視してはいなかった。動物の権利論の代表的な論者としてまず名前が挙がるのはトム・レーガンだろう*1。しかしレーガンの提起する権利論はアカデミックに過ぎる内容になり一般読者を寄せ付けにくい(そして日本語に翻訳されている著作も一冊もない)。なのでトム・レーガンの理論についてはいつか解説することにして、今回は、ジェームズ・レイチェルズによる論証を紹介したい。レーガンのような哲学者の提唱する理論に比べ、レイチェルズの考え方は非常にシンプルである。

 

動物に権利はあるのか。こうした抽象的質問にどのようにして答えてゆけばよいのかは難しい。だが、次の方法が有望と思われる。

(1)まず、人間が有するとわれわれが確信している権利を一つ選ぶ。

(2)それから、われわれがその権利を人間には認めるが、動物には拒否するのを正当化するような適切な相違が、人間と動物の間にあるかどうかを問う。

(3)仮にそうした相違がないのなら、その権利は人間と同様、動物にもある。

 

 この方法は、9月9日に記事にした'Treat like cases alike.'という原則、すなわち「似たような事例は、似たように扱わねばならない」という正義の要求を理論的根拠としている。人間には認めるが、動物には拒否するのを正当化するような適切な相違とは、当該記事で解説した「道徳的に重要な違い」のことである。そのような重要な違いが両者の間にないならば、両者を違った仕方で扱うことは容認されないというわけだ。

 

 白人男性に認められている権利を何か思い浮かべてみよう。それは不当に逮捕や拘禁をされない権利でもよいし、医療や介護などの福祉のサービスを受ける権利でもよい。ところでこれは、白人男性にのみ認められる権利だろうか。白人男性は、確かにそうでない人々と相違がある。例えば黒人とは肌の色が異なる。だが肌の色の違いは、白人にはこれらの権利を認めるが、黒人には拒否するのを正当化するような適切な相違になったりはしない。また、白人男性は女性とは性別が異なる。しかしやはり、性別の違いがこれらの権利を男性には認め、女性には認めないことを正当化する適切な相違となるはずがない。そうしたわけで、上記の権利は白人に限定される権利でもないし、男性に限定される権利でもないのである。

 

 ここで前提とされていることは、人種や性別といった形式的な相違以外に適切な相違が見当たらない限り、両者を別扱いすることは道徳的に許容されないということだ。女性に生理休暇が認められており男性には認められていないのは、単に性別という形式的な相違からではなく、「女性には生理があるが男性にはない」という適切な相違があるためである。以上の論理を敷衍して、もし我々がある権利を人間に認めながら、他の種の成員には認めないならば、動物種という形式的な相違以外に適切な相違を指摘できなければならないと言うことは理に適っているだろう。「存在するものの属する種がただ異なっていること、このことだけでは、そうした存在を違った仕方で扱うことを正当化するのに十分な要件とはならない」。*2

 

 レイチェルズの方法には重要な利点がある。この方法にしたがえば、あらゆる動物とあらゆる権利とを十把一絡げにしてしまう弊害を避けることができるという点である。ある特定の権利に関しては、人間と動物とに適切な相違がないため両者に共有されるが、別の権利に関しては適切な相違があるために人間には認められて動物には認められない、ということがあるだろう*3

 

 この方法にしたがって、動物がもつと思われる権利をいくつか特定してみたい。まず「虐待されない権利」について考えてみよう。すべての人間は虐待されない権利を有する*4。これを人間だけの権利とする根拠があるだろうか。虐待されて苦しむのは人間だけではない。もちろん人間と人間以外の動物には多くの相違がある。例えば人間は数学の問題を解くことができるが、ウサギはできない。人間は法律の条文を覚えることができるが、イヌにはそれができない。しかし、これらのことが「虐待される」ということとどう関係するのか。虐待されないことが人間にとって重要なのは、人間に痛みを感じる能力があるからであり、数学や法律を学ぶことができるからではない。「なぜ人間を虐待することは間違っているのか?」と問われれば、我々は「虐待によってその人が苦しむから」と考えるだろう。そこで数学の能力や法律の条文を覚える能力を理由に挙げる者はいないはずだ。ウサギもイヌも痛みを感じ、苦しむことができる。虐待されないということについて動物にも人間と同様の基本的利益があり、したがって、'Treat like cases alike.'の原則から、虐待されない権利は苦痛を感じることのできる動物にも共有されている、とレイチェルズは論じる。

 

 それに対して、宗教を自由に信仰する権利、礼拝する権利はどうか。レイチェルズはこの権利は人間だけに属し、動物にはないと言う。というのは、人間だけが宗教を信仰したり礼拝したりする能力をもつからである。すなわち、宗教を信仰する権利に関しては、人間と動物との間に適切な相違があるということだ。

 

 同様の方法により、レイチェルズは動物に自由権――ここで言う「自由」とは、ある存在が、自らの行動に対して外部からの強制に従属することがないような状態を指す――も認められなければならないことを力説する。人間にとって、外部から行動を制限されることはそれ自体が苦痛であり、また行動の不当な制限によりさまざまな利益が損なわれるがゆえにも苦痛である。これらの苦痛は行動を制限された多くの動物に当てはまるであろう。それは、B5用紙サイズほどのバタリーケージで飼育される採卵鶏や、自然の生息地から動物園に移送された飼育動物が、その不快とストレスゆえに罹患する疾病や彼らが繰り返す異常行動を観察すれば明白である*5。むろん、これらの指摘は飼育される動物を一切の物理的な拘束から自由にすることを要求するものではない。例えば鶏がストレスを抱えることなくその生理的欲求を満足させることが可能な適切な面積というものがあるだろう。どの程度の自由な区画が与えられていれば鶏が利益を侵害されないかは、倫理学の領域ではなく、動物行動学とアニマルウェルフェアに関する別途の研究が必要となるだろう。

 

 動物の虐待されない権利と自由権を認めたとして、尚未解決の倫理的問題が残っている。それは、動物に「生存権」が認められるのかという問題である。端的に表現すれば、動物を殺すことは許容されるのかどうか、という問いである。もし、許されないのはあくまで動物を苦しめることであって殺すこと自体ではないのだとしたら、動物を虐待することなく快適な状態で飼養した上で、無痛で死なせることは倫理的に許容されよう。であれば、理論上は、人道的に飼養され人道的に屠殺された牛や豚の肉ならば――我々がスーパーマーケットで出会うそれは決してそうではないのだが――食しても良いということになろう。

 

 では、人間には生存権があるが、動物には認められないと考えてよい適切な相違があるだろうか。レイチェルズの挑発的で露骨な表現を引用すれば、「人間以外の知的な動物よりも劣っている重度の精神遅滞の人に生存権があるのに、動物にはないとする理論的根拠とは何であろうか」。哲学者たちはこの問いを「難問」として取り組んできたが、実際はこれは難問などではなく、満足のいく解答などないのだとレイチェルズは述べる。もし人間には生存権があるが動物にはないと直観が言うのなら、その直観が間違っているのだと。

 

 この点については、我々が生存権によって保障される利益とは何か、すなわち「生きている」という状態から得られる利益は何か、そしてそれらの利益を動物は享受していないのかを検討してみるとよい。9月17日の記事「死は危害か?」において、私は機会剥奪説を支持した。人間は、生き続けることによって、喜びや満足など、経験の質を高める貴重な機会をもつことができる限りにおいて、生きることから利益を享受する。死は、死ななければ享受し得たであろう様々な貴重な体験を奪うがゆえに、損失となる。当然ながらこれらの事実は多くの動物にも当てはまる。したがって、我々の生存権の根拠が我々が生き続けることから得られる利益に根差すならば、喜びや満足を経験することのできる多くの動物――大部分の脊椎動物が含まれるだろう――もまた生存権を有するということになる。

 

 「人道的に飼養され、人道的に屠殺したならば……」という問いはあくまで理論上のものであり、現実にはあり得ない想定であるものの、これに対しては、人間と共有される権利であるところの動物の生存権の侵害なのだというのが回答になろう。

*1:井上太一さんの翻訳の努力により、ゲイリー・フランシオンも有名になったと思われる。

*2:種差別の議論に対し、「植物は食べてよい」とするのは植物に対する種差別ではないのかという批判がしばしば寄せられる。この問いには、存在するものの属する種がただ異なっていること、このことだけで別扱いすることが種差別にあたるという回答が適切であろう。虐待されることや監禁されることに対して、人とウシ、人とブタに適切な相違は存在しない。だが、ウシやブタと植物との間には適切な相違が存在する。したがって、植物に対して、我々は存在するものの属する種がただ異なっていること、このことだけで別扱いしているのではない、と言えるのである。

*3:なお、レイチェルズの指摘するこの方法の限界は興味深い。この方法にしたがっても、動物がもつすべての権利を特定できる保証はない、と言うのである。なぜならば、人間にはないが動物にはあるであろう何らかの権利があるということが、論理的には可能だからである。そうした権利が仮にあるとしたら、この方法では特定できないだろう。

*4:世界人権宣言第5条。

*5:同じところを何度も行き来したり、首を左右に振り続けるなどの動作を反復する異常行動を常同行動と呼ぶ。