ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

死は危害か?

まともな理由もないのに他者に危害を加えてはならない――この倫理観は広く共有され、懐疑主義の立場に固執して敢えてこれを否定しようと試みるのは非生産的であり、不毛であると考える。だが、「まともな理由」に何が含まれるかは議論の分かれるところであるし、「危害」の内容もまた自明ではない。

 

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

動物の権利 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

 

 

今回は、この「危害」の中に「死」が含まれるかどうかを検討する。死は、死ぬ者に対する危害なのだろうか。死は、死ぬ者にとって悪い出来事なのだろうか。デヴィッド・ドグラツィア『動物の権利』を参考に、これを論じる代表的な4つの説について紹介する。4つの説とは、

 ①死の無害説

 ②生存欲求阻害説

 ③未来志向欲求阻害説

 ④機会剥奪説

である。

 

なお、この議論では、死と死ぬ過程を区別しなければならない。4つの説のいずれに依拠するにしても、ヒトや動物が死にゆく過程は、それが当事者の苦痛や恐怖を伴うならば、悪いことである。それは経験の質を低下せしめる出来事だからである。

 

また、常識的な観点から、死が個体に危害を加えるとは言えないであろうケースがいくつかある。死は、100年間の生涯を非常に幸福に生き、老衰により死んでいく高齢者に危害を加えるとは、おそらく言えない。ある動物が「生き続けたい」という欲求を全然持っておらず、非常に苦痛に満ちた生を営んでおり、それが今後改善される見込みもない場合もまた、死がその動物にとって悪であるとは、おそらく言えない。

 

 ①死の無害説

エピクロスによる有名な説*1エピクロスによれば、死は死ぬ者に何ら危害を与えない。

なぜなら、私たちが生きているかぎり、そこに死はなく、逆に死が出現したときには、私たちはもはや生きてはおらず、したがって死を経験することはありえず、こうして死は私たちにとって何者でもないからである。

 

——廣松渉、他『岩波 哲学・思想事典』岩波書店から、渡邊二郎「死」より 

我々が生きて存在している間は、死を体験できない。我々が死んだ時、我々はもはや存在せず、死を経験できない。したがって死は経験不可能なものだというのである。繰り返すが、死と死ぬ過程との区別が重要である。死ぬ過程が苦痛を伴うのであれば、それは確実に害悪である。しかしそれは死そのものとは区別されねばならない。死ぬ過程とはあくまで生きている間に体験する出来事なのである。

 

死の無害説によれば、例えば苦痛を伴う病や拷問により死にゆくことは悪いことだが、交通事故や落雷や核ミサイルの着弾などにより本人の自覚を伴わず死んだならば、それは悪いことではない(後者の場合は、死にゆく過程をほとんどすっとばしているので)。

 

だが、死は何ら悪いことではないという主張はやはり直観に反する。あなたが交通事故に遭い、何の苦痛も恐怖も感ずる間もなく死亡したならば、それは悲劇ではないのだろうか。やはりあなたは死により何物かを損失しており、死は害悪なのだと判断したくはならないだろうか。

 

②生存欲求阻害説

これは、欲求充足説を軸とする主張である。欲求充足説とは、「自分の欲求が実現されることが当人にとっての善(幸福)であり、欲求が実現されないことや、避けたかったことが実現してしまうことが当人にとっての悪(不幸)である」とする学説だ。京都を観光したいという長年の欲求が実現すればそれは当人にとって善(幸福)であり、来ないでほしいと願っていた客人に来られてしまうことは悪(不幸)である。

 

生存欲求阻害説は、この欲求充足説から導かれる結論である。つまり、「生き続けたい」という欲求の実現を阻害するから、死は悪なのである。生き続けたいと願う者にとって、訪れる死は、その実現を奪う出来事であり、したがって、危害である。

 

シンガーによれば、ほとんどの動物にとって、「死」それ自体は危害ではない。なぜなら、動物は死や生という概念を理解していないため、「死にたくない」という欲求を持っていないからである。死にたくないという欲求を持っていなければ(これは「生き続けたい」という欲求を持っていないことと同義である)、死の実現は悪いことではない。そうであれば、ヒトの死は重大な出来事だが、ウシの死は重大ではないことになる。ここから、動物に不自由のない快適な生活を送らせ、無痛で死なせて食べることは不正ではないという結論が導かれる*2。ただし、大型類人猿については「死」を理解するだけの知的能力をもつので、死なせるのは不正であるという*3

 

③未来志向欲求阻害説

生存欲求阻害説によれば、生や死の概念をもたない者にとって死は悪い出来事ではない。生き続けたいと願うヒトや一部の大型類人猿にとって死は危害だが、ウシやネコにとっては死は危害ではない(便宜上「ウシやネコ」と書いたものの、ウシやネコが本当に生や死の概念をもたないかどうかは今後慎重に検証されなければならない問題であり、確定事項ではないのだが、以下、一旦そのように仮定する)。

 

未来志向欲求阻害説は、死は、ある者がもっている未来志向の欲求の実現を妨げるがゆえに危害である、と考える*4。この場合、ある者はたとえ「生き続けたい」という欲求をもっていなかったとしても、未来における何らかの事態を望んでさえいれば、死から危害を被るのである。

 

ドゥグラツィアの例を引用する。あるオオカミは群れのリーダーになりたいと望んでいたとしよう。彼は同盟の形成や幾度かの闘争を経て、群れのトップの地位に近づきつつあった。もし彼が目標を達成する前に死んだとしたら、たとえ死の概念を理解していなかったのだとしても、「群れのリーダーになりたい」という欲求の実現が妨げられたのだから、死から危害を受けたのだと論じることができる。

 

ウシが未来志向の欲求を持つかどうかは不明である。だがもし「明日はあの辺の草をめっちゃ食おう」という欲求をもしウシが持つことができたとしたら――そして現に持っているウシを屠殺するなら――死はウシに危害を与えるのである。

 

④機会剥奪説

②にせよ、③にせよ、これらは個体の欲求に基礎をおくアプローチである。②の場合は生と死の概念の理解に加えて「生き続けたい」という欲求、③の場合は未来志向の欲求を持つことが、死から危害を被る条件とされる。

 

しかしながら、もし②または③が正しければ、人間の乳幼児にとっても死は危害ではないということになる。生後1週間の乳幼児はおそらく未来に対して何の計画も持っておらず、また生に関する概念も形成していないだろう。この乳幼児が苦痛なく死を迎えることは、当人にとって悪いことではない。死によって何の欲求も阻害されておらず、したがって危害を被っていないからである。だが、このような結論は、どうも直観に反するのではないだろうか?私達の多くは、乳幼児が不慮の事故で死んでしまった場合、乳幼児は死によって害悪を被ったと自然に判断するのではないだろうか。

 

それに対して、機会剥奪説によれば、死は乳幼児にとっても危害である。機会剥奪説は、「死は生の継続が可能にする貴重な機会を閉ざしてしまう限りにおいて、手段的な危害である」と論じる。感覚をもつ動物は、生き続ける限り、喜びや満足など、経験の質を高める貴重な機会をもつことができる。死は、死ななければ享受し得たであろう様々な貴重な体験(大空を気持ちよく飛ぶ、楽しく泳ぎ回る)を奪うがゆえに、危害になる。このことは、個体が未来志向の欲求をもっているかどうかにも、将来にそうした機会をもつ可能性について自覚しているかどうかにも、関係がない。

 

したがって、感覚をもつ動物にとって、死は危害となる。乳幼児にとっても、ウシにとっても、マウスにとっても、魚にとっても、そうであろう。だが、感覚をもつ可能性がある存在にとって死が危害を意味するかどうかは議論を呼ぶところである(言うまでもなく、人工妊娠中絶の話である)。

 

さいごに

哲学は数学ではないので、どの説が正しいのか、正解を導くことはできない。だが、私自身は④の機会剥奪説を支持したい。種差別を避けること(すなわち人の死が動物の死よりも重大だとするなら合理的な理由を要すること)、常識的見解や直観と矛盾しないこと*5(奇妙な結論が出てきたら学説を疑うこと)、この二点を重視すると機会剥奪説が妥当と思われるのである。

 

むろん、常識的見解や直観が常に正しいわけではない。だが森村先生が言うように、「少なくとも倫理学のような実践的な領域では、常識の判断にはそれなりの重みがある」のであり、「もし他の点では同じ程度の論理的一貫性や説明力を持つ複数の理論があったら、その中では常識に一番合致するものをとりあえず採用するのが合理的」と言えよう*6

 

ただし、機会剥奪説とて欠陥がないわけではない。散歩家さん*7の指摘した機会剥奪説の欠陥について、今度少し考えてみて、記事にしたく思う。

 

 

 

*1:エピクロスについては、散歩家さんのブログに詳しい。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか

エピクロスの倫理観について   

*2:講座 あにまるえしっくす』第2回にも書いたが、シンガーはこれによって畜産を認めているわけではない。工場畜産で動物に苦痛を与えないのは事実上不可能であるという点から、工場畜産に反対している。

*3:例えばローランドゴリラのココが「死」の概念を理解していたというのは有名な話である。

*4:未来志向の欲求をよく「計画」と表現する。

*5:①はもちろん、②~④のいずれの説を採用しても、最初に取り上げた二つのケース(100歳まで幸福に生きた高齢者の死、苦痛に満ちた生を営む動物の死)について、死は危害ではないという常識的見解と合致する。

*6:森村進『幸福とは何か』ちくまプリマ―新書より

*7:苗野がtwitterで知り合った人。エピクロス主義者。ブログ「思考の断片」。