ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

ムーアの未決問題論法

「ひいおばあちゃん」とは「親の親の母」のことである。(性の多様性のことを考えればそう言い切るのは問題だが、ここではその点には目をつむってほしい。)「ひいおばあちゃん」という概念は「親の親の母」という概念へと分析される。ある対象Xについて、Xがひいおばあちゃんならば、Xは親の親の母であるし、逆もまた真である。ひいおばあちゃんであるが親の親の母ではないもの、親の親の母ではあるがひいおばあちゃんではないものは不可能である。

 

二つの概念がこのような関係にあるとき、両者を必然的に同値であるという。必然的同値性は概念と概念の関係について語るメタ概念である。必然的に同値であるものAとBについて、「Xについて、XはAだが、XはBだろうか?」という問いは馬鹿げた問いになる。「然り」としか答えようがないからである。Aを独身男性とし、Bを配偶者のいない男性としよう。「鈴木さんは独身男性だが、鈴木さんは配偶者のいない男性なのだろうか?」という問いは馬鹿げている。そりゃそうだとしか答えようがない。独身男性と配偶者のいない男性は必然的に同値なのである。「トメさんはあなたのひいおばあちゃんだが、トメさんはあなたの親の親の母だろうか?」という問いも同様に馬鹿らしい。

 

このような問いの馬鹿らしさは、AとBが同値であるという概念分析の正しさによって支えられている。「XはAだが、XはBか?」は、AとBが同値ならば、「XはAだが、XはAか?」という問いと同義だからである。では、このような問いが馬鹿げていないときは、AとBが同値であるという概念分析が誤っていると言えるのだろうか。仮にそうだとしてみよう。そのような論理を倫理概念に応用し、「善」という概念の分析不可能性を主張したのがムーアの未決問題論法*1である。

 

「善」とは何か。これを仮に「人々に望まれていること」と定義してみよう。「Xが善であるとは、Xが望まれているということだ」と考えるのである。このとき、「Xは望まれているが、Xは善だろうか」という問いは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていない。我々は思案するだろう、利益、名誉、安全、……これらは望まれているが、善とすることが適切なのだろうかと。つまり、先の問いはだたちに「然り」と答えられる類の問いではない。これを未決問題(open question)という。

 

ムーアは論じる。もし善が「望まれていること」ならば、上の問いが未決問題であるはずがない。よって、善は「望まれていること」ではない。

 

善を「人の役に立つこと」と定義してみよう。「Xは人の役に立つが、Xは善だろうか」という問いは馬鹿げているだろうか。馬鹿げていない。我々はあるもの・ことが善かどうかを考えるとき、それが人の役に立つかどうかを考えているのではないはずだ。そしてもしも善と「人の役に立つこと」が必然的に同値ならば、これは「Xは人の役に立つが、Xは人の役に立つか」と問うているに過ぎなくなる。よって、善は「人の役に立つこと」でもない。

 

ムーアは善という性質は経験科学によっては明らかにされ得ないと考えた。「XはFだが、善だろうか」という問いの述語Fにいかなる性質を当てはめても、それは未決問題となると論じたのである。ゆえに、善というものの性質と経験科学の方法によって調べ検証できる性質とを、同一視することはできない(同一視するような立場を「自然主義的誤謬」と批判したのは有名であるが、自然主義的誤謬はムーアの元来の使い方とは違った意味で使われることが非常に多い)。こうしてムーアは、善という性質は分析不可能な単純概念だと考えた。

 

ムーアの未決問題論法はその正否を含めて活発な議論を呼んだ。メタ倫理学史と分析哲学史の重要な1ページである(らしい)。

 

意味・真理・存在  分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)

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メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

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*1:佐藤岳詩『メタ倫理学入門』勁草書房では、「開かれた問い論法」と紹介されている