ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

獣医学と動物倫理と

 獣医学部に入学してから1年と半年くらいが過ぎました。倫理学分析哲学の勉強をしながら、ときどき獣医学もがんばっています。倫理学の中でも、特に興味深く学んでいるのは動物倫理です。

 

 倫理学には以前から興味がありましたが、獣医学部に入るまで、動物倫理を本格的に学ぼうと思ったことはありませんでした。というか医療倫理や生命倫理と並んで、動物倫理という確固たる研究領域が確立されていることも知らなかったし、動物をめぐる倫理学的な議論がとても活発に行われていることも知りませんでした。例えばピーター・シンガー*1の名前も、聞いたことはありますという程度で、その道にどれほどの影響力を与えたのかも知りませんでした。

 

 獣医師を目指す者はどの大学でも動物福祉や獣医倫理の講義を一通り受講するはずですが、おそらくは動物をどのように扱えばよいかというマニュアルや、訴訟沙汰にならないような細々とした法律を教わる程度だと思います。動物福祉論と動物権利論との考え方の違いや、動物権利論の思想的背景や理論的根拠をしっかり学べるような大学はたぶんないのではないでしょうか(全国の獣医学系の大学について調べたわけではないので、もし学べる大学があったらすみません)。卒業した学生の大部分は、「3つのR*2」や「5つの自由*3」といった項目が頭に残っている程度だろうなぁと推測します。

 

 そういうわけで、ほとんどの獣医学生は動物倫理など学ばぬまま獣医師になるものと思います。6年間という限られた時間と他に学ばなければならない膨大な量とを考えると、それが悪いとは必ずしも言えないのかもしれません。私としては、倫理学の勉強が面白いということと、動物に関わる仕事に就くことになるのだから知らなきゃという何となくな理由で学び始めたのですが、しかし、学べば学ぶほど獣医学と動物倫理の相性の悪さを実感せずにいられません。

 

 動物倫理のロジックでは、いくつかの立場はあるにせよ、動物に必要のない苦痛を与えたり、動物をもっぱら人間の利益のために利用したりするようなことはだいたい否定されます。代表的な例は畜産です。肉食は人間にとって必要な行為ではありません(「生きるために食べる」と主張する人もいますが、必須栄養素は動物性食品からでなくとも得られるため、この理由付けは失敗しています)。ですので畜産は動物に必要のない苦痛――工場畜産によって動物たちを不快で不健康な環境に押し込め、本来よりはるかに短い寿命でその命を奪う――を与える行為として筆頭にあげられ、批判されます。もちろん、モンゴルの遊牧民や寒冷地帯に居住するイヌイットなど、動物の肉を食べないで生活することが困難な人々は確かに存在しますが、少なくとも先進国に住む我々が食べずに生活することは可能でしょう。

 

 翻って獣医師を見ると、平成26年の時点で5人に1人が産業動物*4の臨床に携わる獣医師です。したがって、動物倫理のロジックで言えば5人に1人が動物に必要のない苦痛を与える悪しき営みに加担していることになり、転職すべきだということになります(ちなみに日本で肉牛を飼養する農家の戸数は平成29年の時点で50100戸、豚を飼養する農家は4670戸です*5。動物倫理のロジックで言えばこれらの人々は廃業すべきなのであり、世界規模で見れば廃業すべき人々の数は億を超えるでしょう)。

 

 その他にも、獣医学には解剖実習や動物実験といった動物の利用がつきまといます。臓器の位置や大きさや色を覚えさせるために、果たして動物の命を奪って学生に身体を切り刻ませる必要があるのでしょうか。映像授業ではダメなのでしょうか*6。既に教科書で習得した動物の生理的機序を確かめるために実験をやらせる必要があるのでしょうか。「動物を助けたくて」という動機で獣医師を志した学生の一部は、実際に勉強を始めると動物の命を奪う場面に遭遇し、理想と現実とのギャップに苦しむといいます。

 

 そもそも、身も蓋もないことを言ってしまえば、獣医師の仕事はほとんどの場合、動物の利益を実現することではなく、人間の利益を実現することにあります。ですから、動物の喜びや悲しみや苦しみ、動物の尊厳に真正面から向き合う動物倫理と、どうしても相性が悪くならざるを得ません。とはいえ、それはあくまで獣医師という職業の一般論に過ぎず、私個人としてはもっと違う形の獣医師を目指すことは可能かもしれません。夢想的と笑われるかもしれませんが、動物自身の利益や尊厳に配慮した獣医師というのも、あるいは可能かもしれません。

 

 10年後に自分がどんな獣医師になっているのかわかりませんが、今のうちに、自分がこれから就くことになる仕事の倫理的側面について批判的に考える視点を養っておきたいと思います。そのための方法が、倫理学を学ぶことであり、動物倫理を学ぶことだと思っています。

*1:ピーター・シンガー(1946年7月6日~)、オーストラリア出身の哲学者・倫理学者。主著『動物の解放』は現在の動物解放運動に革命的な影響を与えた。

*2:「3つのR」は、動物実験に使われる動物に対して必要な配慮として導入された概念。「Replacement(代替)」「Reduction(削減)」「Refinement(改善)」の3つを表す。

*3:「5つの自由(Five Freedoms)」とは、動物の生活の質の向上を目指して広く採用されている飼育方針。①飢えと渇きおよび栄養不良からの自由、②不快からの自由、③痛み、障害、疾病からの自由、④恐怖や苦悩からの自由、⑤正常な行動を表現できる自由の5つからなる。

*4:産業動物とは人間の経済活動に利用するために飼養されている動物のことで、要するに家畜や家禽のことです。経済動物ともいいます。

*5:農林水産省のHPから。乳牛や採卵鶏も問題なのですが、ここではひとまず置いておきます。

*6:映像を使えば毎年何体も切らせる必要はなく、一度録画すればその後も何年も使い回せます。