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環境と動物の倫理

 今回紹介するのは田上孝一『環境と動物の倫理』です。先月読んだ本なのですが、せっかくなので忘れないうちに自分なりにまとめておくことにしました。本書は6つの論文からなる論文集ですが、その主題は全体的には「環境倫理学における動物の問題」であり、最終的には「動物への考察から不可避的に出てこざるを得ない規範的提言である、ベジタリアニズム」につながります。以下、唐突ですが「です・ます」体から「だ・である」体に変わります。

 

環境と動物の倫理

環境と動物の倫理

 

 

 動物を取り巻く環境は不正義に満ちており、人間による動物の利用は道徳的に正当化できないようなものばかりだ*1。これは誰でも問題意識をもって調べてみればわかる現実である。ペットの生体販売と殺処分、動物実験、動物園や水族館、そして肉食。今回は、倫理学者・田上孝一氏の論文集『環境と動物の倫理』から、特に「肉食」の問題について論じた部分を取り上げ、まとめてみた。

■工場畜産の悪夢

 筆者は、かつての狂牛病騒動の際に牛丼の最大手チェーン店が牛肉の「安全」をアピールするためにHPに明記していた文章を引用し、そこで行われている紛うことなき動物虐待を糾弾する。件の最大手チェーン店は「あの濃厚な味」を出すためにあくまでアメリカ産の牛肉にこだわるのだが、その畜産の実態は文字通りの悪夢である。牛たちは生まれてからわずか1年半しか生かせてもらえず、後半生はフィードロットと呼ばれる狭苦しい肥育場に押し込められる。そこでは、牛丼に適した柔らかく濃厚な味にするために牛本来の食べ物ではない「穀物」を食べさせられる。そしてできる限り早く太らせ、生後30ヶ月以内に屠畜される*2。 

■肉食のもたらす環境負荷

 肉食は、環境倫理の立場からも放棄が要請される。上記のようなフィードロット牛には大豆やトウモロコシといった飼料が与えられるのであるが、それによって人間の食用のために利用できる土地が牛の飼料を育てるために使われることになる。人間がそのまま食べればよいはずの穀物をわざわざ牛に食べさせ、その牛を食べるという「迂回路」をとるために、大量の土地が必要となる*3。放牧地の開墾のために森林を破壊し、牛のゲップに由来する大量のメタンは温暖化に影響を及ぼし、さらにフィードロット生産では牛の糞尿は大地に還らず大量の産業廃棄物になる*4

■そもそも食べる必要がない

 我々はそもそも動物性食品をとる必要がなく、ほとんどの必須栄養素は植物性食品から得ることができる。つまり、肉を食べなくても栄養学的な問題は何ら生じないのである(ビタミンB12が数少ない例外だが、微量でよいので、ほとんど問題にならない)。タンパク質は豆製品から摂取すればよく、筋肉をつけるために動物の肉を摂取する必要はない。むしろ動物性脂肪過多の食事により血中のLDLコレステロールの量が増え、肥満や脂質異常症高脂血症)になりやすくなる。これにより動脈硬化が起こり、脳梗塞心筋梗塞のリスクを高める。健康のことを考えるなら、動物性食品の量を今よりずっと減らすべきだということになろう。

■倫理の要請

 これらの理由からーーただし主たる理由は倫理的な理由からーーベジタリアニズムの実践が要請される。しかし筆者は、その実践においてある程度の「緩さ」を認める。確かに、動物性食品を一切摂取しないビーガンになることがもっとも望ましい*5。だが我が国でそれを厳格に実践するのは容易ではない。動物性食品を完全に断つことを努力目標としつつ、まずは摂取量を減らそう。動物に与える苦痛や環境への負荷を想像して、その量がなるべく少なくなるような食事を実践しよう。筆者はそのように提言する。

 

実際厳格なビーガンが一人増えるよりも、緩やかなセミ・ベジタリアンが10人増える方が、計算するまでもなく、肉食消費量はずっと多く減るのであり、それによって動物が救われる可能性も増えるのである。徒に厳格さを追求して秘境的な閉鎖性に閉じこもるよりは、オープンでフレンドリーに宣伝する方が、結果的に多くの動物を救うことになるのである。

 

 セミ・ベジタリアンとは肉類を少量しか摂取しない立場である*6。このように筆者が言うのは、倫理学の要請は何の努力もなしに実現できるほど容易なものではなく、また超人的な努力をもってしなければ実行できないほど難しいものであってもならないと考えるからだ。あまりにも容易であればすでに社会で広く実現されており、倫理学の要請を必要としないはずであるし、あまりにも困難であればほとんどの人が実行できず、「絵空事」に終わってしまう。

 したがって筆者は、倫理学の要請する規範は「一般的な人格が常識的な努力によって実行できる範囲内」に留まる必要があると主張する。ビーガンになること、ビーガンであることは疑いなく正しいことだろう。セミ・ベジタリアンな生活を送ることは、少なからず悪に加担しているのだろうし、整合性という点からも「正しくない」かもしれない。しかし、人々が現実に受容可能な規範と、我々の目指す目標とを総合的に考えれば、「緩さ」を認めることが無視できない効果につながるはずである。というのは、もし我々の当面の目標を工場畜産の廃絶とするなら、工場畜産が立ち行かなくなるまで肉食の消費量を減らせばよいのであるから*7。そのためには人類のすべてがビーガンにならなければいけないわけではなく、今より肉食の消費量がずっと減ればよいというわけだ。

 

できれば厳格に追求すべきだが、厳格でなくてもできる範囲でやればよいという、質的断絶ではなく量的漸進性を認める寛容さが、倫理規範の実現可能性を著しく高めると思われるのである。……できることならば厳格に遂行すべきだという原則を堅持しつつも、できないならばできる範囲で善を成すことも確かな前進であると認める寛大さが、倫理学理論のアクチュアリティを高めて行く。理想は高くしかし実践は柔軟にというスローガンが必要なのではないかと、私には思われるのである。

(太字原文ママ

 

 厳格なビーガンから見ると、このような実践は不十分に見えるかもしれない。「できる範囲で」という表現に敏感に反応し、「そのような姿勢ならまたすぐに肉食生活に戻ってしまう」と反発する者もいるだろう。しかし、このような姿勢だからこそ長く続けられるとも考えられる。人ができることは0か100かではない。少しでも動物性食品を口にすれば失格というようなハードルを設定して強迫観念を抱くよりは、緩やかな実践を続けながら自分に自信をつけ、徐々にハードルをあげていくという姿勢も認められよう。

 ベジタリアニズムもビーガニズムも、目的ではなく手段である。我々の目的は動物に対する残酷な仕打ちを減らすこと、最終的には無くすことであって、ビーガンになることが目的なのではない。そうであれば、その手段は有効な限りにおいて評価に値すると言えるだろう。

 

倫理学の理論として、ベジタリアニズムは厳格な肉断ちではなくて、漸進的なアプローチの合理性を訴える。ビーガンになることを目指しつつも、できる範囲で肉食を制限することが、ベジタリアニズムの核心である。これならば誰でも大義に参加することができるのである。

 

 かつて私は、理論と実践からなる政治学では「論理的整合性を追求する誠実さと論理的曖昧さを受け入れる勇気の双方が必要」と思うことがあったのだが、本書を読むに、倫理の世界でも似たようなことが言えるかもしれないと感じている。

*1:人間による動物の利用が許容されるのは、それが動物の幸福の増大につながる場合に限ると私は思っている。その意味で、麻薬探知犬盲導犬は、(それが犬の負担にならないという限定付きで)よいあり方であると思われる。

*2:この論文では牛に限定しているが、ニワトリやブタの状況も苦痛に満ちているのは、言うまでもない。

*3:「肉1キロを生産するために10キロ前後の飼料を与えなければならないという。牛に与える代わりにそのまま人間が食用すれば、ずっと多くカロリーと必須栄養素を得ることができる。」

*4:「毎日20キロもの糞尿をする巨大生物がアメリカ一国で一億以上もいる。掛け算すればどれ程強大な公害源か分かろう。」

*5:ビーガンは卵や牛乳を含む動物性食品の一切を摂取しない人々。ベジタリアンは通常、卵と牛乳は摂取する。

*6:セミ・ベジタリアンは肉食を完全に拒否するのではなく、抑制的・選択的に肉を摂取する。意識して摂取量を減らしたり、人道的に屠畜された肉だけは食べるなど。

*7:もちろん工場畜産の廃絶だけではなく、畜産そのものの廃絶が最終的な目標ではある。