ピラビタール

息をこらえて 目を閉じて 夜のふちへ

倫理のうしろのうしろ

 「倫理学の教科書」というと、今までは2種類あったように思われます。規範倫理学をメインに扱う教科書と、応用倫理学をメインに扱う教科書です。前者では、ベンサムやミル、カントといった大思想家の学説がまず紹介され、社会契約論、徳倫理学、ケアの倫理、余裕があれば政治哲学的な項目も扱われます。後者は、医療倫理、生命倫理環境倫理、ビジネス倫理や企業倫理、情報倫理など、現代的な倫理の問題を扱う教科書。その分野を専門に学ぶ人を主な読者と想定している場合が多いですね。

 先日読んだ佐藤岳詩『メタ倫理学入門 : 道徳のそもそもを考える』は本邦初、メタ倫理学をメインに扱うテキストです。言わば、第三の倫理学の教科書です(もちろん今までの教科書でもメタ倫理学を扱うものはあったのですが、メタ倫理学のみを扱う入門書というのは日本初です)。本書はメタ倫理学の代表的な理論、争点となっている話を、網羅的に紹介してくれます。紹介されるすべての理論について、その長所と短所も解説してくれているので、読みながら「おっ。この理論はいけるかもしれぬ」→「ぐぬぬ…」と何度も浮き沈みしてしまいました。

 

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

 

 筆者はメタ倫理学を「規範倫理学や応用倫理学を一歩後ろから眺める学問」と表現します。倫理学とは、私の考えでは、私たちが社会で馴染んでいる道徳のルールを批判的かつ論理的、合理的に検討し、その背景にある根拠を見出す学問です。この作業によって、あるルールは正当化され、またあるルールは棄却されます。ルール同士の矛盾や不整合が見出されたり、私たちが今まで知らなかった新しいルールが「発見」されたりするでしょう。つまり私たちが社会生活で身につけた倫理を「一歩後ろから」眺めるのが倫理学です。

 メタ倫理学が筆者の言うように規範倫理学や応用倫理学を「一歩後ろから」眺める学問だとしたら、メタ倫理学は、倫理の「一歩後ろ」にある倫理学の中でも、かなり後ろの方に位置していることになります(笑)倫理の、うしろのうしろです。

 規範倫理学では、「私たちが何をすべきで、何をしてはいけないか」「私たちはどんな人間になるべきか。いかに生きるべきか」といった問題に答えようとします。ここでは、「なすべきこと」や「正しいこと」がある、というのが前提にされていることは間違いありません。メタ倫理学はこの前提を批判的に検討します。そもそも「なすべきこと」「正しいこと」などあるのだろうか。「正しい」とはいったいどういう意味なのだろうか。私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのか……などなど。

 ちょっとだけメタ倫理学上の立場を紹介すると、「正しいこと」や「善いこと」が私たちの主観とは独立に世界の側で決まっていると考えるのが客観主義の立場です。例えば、無実の人が危害を加えられたとしたら、客観主義によれば、それを見ている私たちの評価や判断とはまったく独立に、そこに「悪さ」という性質があります。道徳に関する真理は、世界の側で決まっているというわけです。普遍的な物理法則や化学法則が世界の側で決まっているように、世界の側に普遍的な道徳法則がある、ということにもなるでしょうか。

 これに対して主観主義の立場では、世界の側に「善さ」や「正しさ」といった性質など存在せず、そうした性質に関する判断は私たちの主観によると考えます。無実の人が危害を加えられたとき、そこにあるのは私たちの評価や判断であり、そこに客観的な「悪さ」が存在していたりはしません。主観主義と言っても一枚岩ではなく、善や悪、正や不正は私たちの個人的な感情や好みの問題であると考える立場や、私たちの同意や合意によって形成されるという立場など、いくつかの考え方があります。一枚岩でないのはもちろん客観主義も同様です。

 客観主義と主観主義の対立に呼応して、道徳に関する実在論非実在論の対立があります。道徳的実在論は、道徳的な事実・真理が私たちの心から独立に存在し、善や悪、正や不正といった道徳的性質も現実に存在すると考えます。2+3=5が数学的真理であるように、物理現象の背後に数式で表される真理が存在するように、私たちの考えや好き嫌いとはまったく無関係に、客観的真理として、道徳の真理はある。「無実の人に危害を加えることは悪い」というのは、私たちがそれをどう考えるかとはまったく無関係に、事実である。このように考えるのが、実在論です。

 非実在は、道徳的な事実や善や悪、正や不正といった性質も存在しないと考えます。道徳判断は、真理や事実に関するものではなく、私たちの感情表現であったり、態度であったり、あるいは命令であったりします。ブラックバーンは、価値は世界の側に本当に実在しているのではなく、私たちの価値観の投影によって世界にあるように見えている、という投影説を展開します。ダイヤモンドはただの石に過ぎないのだが、私たちがダイヤモンドを価値あるものと認識し、そこに私たちの価値を投影している。それによって、ダイヤモンドはそれ自体としては価値はないのに、価値あるものであるかのように扱われている。道徳的価値についても同じことが言えるのだ、と。*1

 メタ倫理学ではさらに認知主義非認知主義の対立、なぜ私たちは善いことをしなければならないのかという“Why be Moral”の問題など、まだまだ面白い話題に尽きないのですが、長くなるのでこのへんで終わります。

 メタ倫理学はややもすれば不毛な議論をする学問であるかのように思われます。しかし例えば私たちが道徳的な問題で議論をしているとき、両者が同じ単語を同じ意味で使用しているのか、道徳の真理の実在性に関して両者は共通の土台の上で議論をしているのかなど、前提を見つめ直すための強力なツールになります。また、既存の道徳のルールを「一歩後ろ」から批判したり、提言をしたりする際に、批判・提言のさらに「一歩後ろ」からこれら批判・提言の前提の妥当性を検討することができるのも、メタ倫理学の強みです。まさに倫理のうしろのうしろに位置するのがメタ倫理学であるとは言えないでしょうか。

 

■表紙のキャラクターについて

表紙の生き物(メタ子という名前らしいです)について、描いたイラストレーターさんご本人(あまえびさん @amaebi4330 )からご返事をもらいました。

 

 

 

■とてもかわいい

*1:ブラックバーンの立場では本書では「準実在論」とされますが、やはり「本当は実在しない」という非実在論の立場です。