ピラビタール

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デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」概略

 こんばんは。苗野さんです。昨夜の記事では、ベネターの反出生主義とその核心たる「誕生害悪論」によって導かれる結論であるところの、人類絶滅論や中絶推進論を紹介しました。しかし、ベネターがどのような議論によって誕生害悪論を示したのかを説明しなくては、それがどこまで正当なものなのか判断できません。ベネターはなぜ「生まれてくることは、生まれてこないことより、悪い」という結論に至ったのでしょう。昨晩の記事だけでは、古来から繰り返し説かれる厭世主義に過ぎず、この程度の言説は現代ではネット上にも溢れています。そこで昨日の予告通り、今回の記事ではベネターの誕生害悪論の論理展開を私なりにまとめてみたいと思います。

 

■4つの命題

 ベネターの誕生害悪論は4つの命題により導出されます。その論理展開を理解する鍵は「苦痛と快楽の非対称性」です。ここでいう苦痛 pain とは害悪 harm の一例であり、快楽 pleasure とは利益 benefit の一例です。ベネターはまず、以下の2つの命題は議論の余地なく正しいとします。

(1)苦痛の存在は悪い。
(2)快楽の存在はよい。

 快と苦を善と悪に対応させていることから、目的論的な理論であると言えるでしょう*1。(1)と(2)からわかるように、苦痛の存在と快楽の存在の間には対称性が見出されるのですが、しかし、苦痛の欠如と快楽の欠如との間にはこのような対称性は見出されません。

(3)苦痛の欠如は、たとえそのよさが誰によっても享受されていない場合であっても、よい。
(4)快楽の欠如は、快楽を剥奪されたがゆえに快楽を享受できなくなるような人間がいるのでない限り、悪くない。

この(3)と(4)には解説が必要です。丁寧にその論証を追ってみましょう。

 

■苦痛の欠如について

 第3命題は、苦痛の欠如を、たとえそのよさが「誰によっても享受されない場合であっても」よいと評価しています。当然、ここでは次のような反論が予想されます。「苦の欠如を『よい』としても、快苦を感じる主体が存在しないのなら、『よい』という評価など不可能だ。その『よさ』を経験する人間がどこにも存在しないのであれば、苦の不在が『よい』という価値を帯びることなどあり得ない」と。このような当然の疑問に対してベネターは、苦の欠如のよさには二つの意味があるとして回答を用意します。①苦の主体が存在する場合についてと、②苦の主体が存在しない場合についてです。

①苦痛の主体が存在する場合

 苦の主体、たとえば太郎が苦痛を被っているとします。太郎の苦痛がもし仮に欠如したとすれば、それはよいことでした。それがたとえ、太郎が存在しなくなることによってのみ達成され得たのだとしても、よかったのです。これは、「ここに太郎という人間がいるとする。太郎に苦痛が欠如していることは、よいことである」という単純な話ではありません。太郎という苦しんでいる者がいるとき、太郎の苦痛の欠如が実現すればそれはよいことだが、それが太郎がいなくなることによってのみ達成されたとしても、苦痛の欠如は太郎の利害に照らしてよいことだった、このような主張なのです。

②苦痛の主体が存在しない場合

 苦の主体が存在しない場合、そこに苦痛はありません。苦痛を被る主体が存在しないからです。このとき、苦痛の欠如は、苦痛を被る主体が非存在であるということによって保証されています。そしてベネターは、実際には存在していないが存在したかもしれない、この潜在的な主体の利害に照らし合わせて、苦痛の欠如をよいことと評価しているのです。例えば太郎が生まれなかった宇宙を想像すると、そこに太郎の苦痛は存在しません。しかしこの宇宙で達成されている「太郎の苦痛の欠如」は、もしかしたら生まれてきたかもしれない太郎の利害に照らし合わせて、よいことである。私の理解が正しければ、以上のことが主張されています。*2

 

■快楽の欠如について

 第4命題は以下のことを含意するものです。快楽の欠如は、快楽を剥奪されたような者が存在した場合に限り、悪い。*3もしそのような者が存在しないのであれば、快楽の欠如は悪くない。ここに、「苦痛と快楽の非対称性」が現れます。「苦痛/快楽の存在」については「悪い/よい」と対称的な評価を下すことができるのに、「苦痛/快楽の欠如」については「よい/悪い」ではなく、「よい/悪くない」という非対称的な評価を下すべきなのです。

 では、快楽を享受する主体が存在しないことは、本当に「悪くない」のでしょうか。あるカップルが、「いつか子供ができたら、ハルキという名前をつけようね」と決めていたとします。しかし、諸事情により、このカップルは子供をつくるのをやめました。このとき、不利益を被った者はいるのでしょうか。もしカップルが生殖をしていたらその約38週間後に誕生したかもしれない「ハルキ」なる者が「快楽を享受できなかった」という不利益を被ったのでしょうか。

 否です。不利益を付与すべき人格が最初からこの宇宙に出現しなかったのですから、その者が不利益を被るはずがありません。存在しなかった者について、その者自身のために、「ハルキは幸福な人生を送れたはずなのに……」などと同情することは不合理です。この世界に存在しなかった者は、快楽を剥奪されることもなく、その非存在者が快楽を享受しないことを「悪い」とは言えません。かくして、快楽の欠如は、非存在者にとって「悪くない」というわけです。

 もちろん、カップルがいつか後悔をすることはあり得るでしょう。「あのとき子供をつくればよかった」と。しかしそれは、子をつくらなかった親の自分自身に対する後悔に過ぎません。存在しなかった者について、その者の非存在を、その者自身のために後悔することは不合理であり、また不可能です。*4

 

■シナリオAとシナリオBの比較

 以上の(1)~(4)の四つの命題により、以下のような表が得られます。Xを苦痛と快楽の主体(例えば太郎)として、Xが存在する場合をシナリオA、Xが存在しない場合をシナリオBとし、両者を比較検討していきます。

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 まず苦痛に注目すると、Xが存在する(1)は悪く、Xが存在しない(3)はよい。したがって、苦痛について言えば、Xは存在するよりも存在しない方がよい。つまり、シナリオAよりシナリオBの方が望ましいということになります。では快楽に注目するとどうなるでしょうか。(2)と(4)を比較すると、「よい」と「悪くない」なのだから、(2)の「よい」を、すなわちXの存在するシナリオAを選びたくなります。しかしベネターによれば、(2)の「よい」と(4)の「悪くない」とを比較して、単純に(2)を選ぶべきではありません。その理由としてここでは2点取り上げます。①義務の観点から、②(2)のよさと(4)の悪くなさの本当の意味から。

①義務の観点から

 ベネターによれば、我々には苦しむ人を生み出さない義務があります。他方で、幸福な人を生み出す義務は我々にはありません。なぜ苦しむ人々を生み出さない義務があるかと言うと、第1命題より苦痛の存在は悪く、第3命題より苦痛の欠如はよい――そのよさを享受する者がいないとしても――からです。それに対して、我々は幸福な人を生み出す義務はありません。なぜその義務がないかと言うと、第4命題より、快楽の欠如は悪くないからです。換言すれば、我々には害悪を回避する消極的義務はあるが、幸福を増進するというような積極的義務はないのです。

②(2)のよさと(4)の悪くなさの本当の意味から

 義務の観点から説明する①はわかりやすいですが、この②は少々理解に手こずります。ベネターは「よい/悪い」の意味を二つに分けるのですが、両者の使用があちこちで混在し、整理不足であると思われるからです。私の理解が正しいと仮定して、ベネターの趣旨をまとめてみましょう。ベネターは「よい/悪い」の価値判断を、本性的に「よい/悪い」(それ自体として端的に「よい/悪い」)という意味と、相対的に(何かと比べて)「よい/悪い」という意味に分けます。したがって、後者の「よい/悪い」は better/worse ということになります。

 快楽の欠如を「悪い」と評価できるのはどのようなときでしょうか。それは、快楽を享受していた者が、その快楽を剥奪されたときです。つまり、シナリオAの(2)の領域にいる人間に異変が起きたような状況、これが「悪い」と言えるのです。しかしそこでの「悪い」は、(1)の苦痛の存在を評価する「悪い」とは意味が異なります。ベネターの見解では、苦痛の存在の「悪い」は本性的な「悪い」bad ですが、剥奪による快楽の欠如は、快楽を剥奪される前の状態に比べて、「より悪い」worse なのです。つまり、剥奪による快楽の欠如とは(2)の領域内で発生した異変を指し、これを剥奪前より「より悪い」と考えるのです。

 逆方向から見ると、(2)における快楽の存在に対する「よい」という評価は、本性的な「よい」なのではなく、剥奪による快楽の欠如と比べた、「よりよい」better なのです。快楽の存在の「よい」は、(4)の単なる快楽の欠如との比較において better なのではなく、剥奪による快楽の欠如との比較において better なのです。(2)は(4)に比べて「よりよい」なのではなく、第2命題が「快楽の存在はよい」と言うとき、そこに比較があるとすれば、(2)の領域内で、「快楽の存在は、快楽が剥奪された状態に比べて、よりよい」と主張していることになります。

 さらに第4命題が言うように、剥奪によらない快楽の欠如は「悪くない」のですが、ここでの「悪くない」とは、快の存在よりも「より悪くない」という意味なのだそうです。(2)は(4)に比べて「よりよい」わけではなく、(4)は(2)に比べて「より悪い」わけでもない。*5だから、(2)は(4)を上回るアドバンテージをもつわけではない。ベネターはそのように主張します。

 

■結論

 まとめるのが下手で、概略のつもりだったのにずいぶん長くなってしまいました。以上の議論により、誕生害悪論の結論が導かれます。シナリオAの「Xが存在するとき」とシナリオBの「Xが存在しないとき」とで、どちらがよいのでしょうか。

 苦痛に関して言えば、シナリオBの方がよい。快楽に関して言えば、シナリオAがシナリオBより「よりよい」とは言えず、またシナリオBがシナリオAより「より悪い」とは言えません。ですから、苦痛と快楽を総合的に見たならば、シナリオBの方が望ましいということになります。すなわち、Xは存在しない方がよい、存在するべきではないというのが結論です。「生まれてくることは、生まれてこないことより、悪い」のです。

 今既に存在してしまっている私たちについて言えば「生まれてこなければよかった」のですし、未来の世代について言えば、存在する(させる)べきではありません。こうして出生の停止と抑制、中絶の推進が説かれ、人類の絶滅という我々の目指すべき将来が描かれます。

 

■ベネターの論証は正しいか

 私見では、ベネターの議論はいくつか誤りを含む不十分なもので、その論証は失敗しているように思われます(もう少し検討が必要ですが)。しかし仮に誤っていたとして、その価値がなくなるわけではもちろんありません。古来から厭世主義者たちが細々と伝えてきた反出生主義の思想を分析哲学の次元で構築しようとした試みとして、非常に高く評価できると思います。また、ベネターの反出生主義が誤っているからといって、反出生主義そのものが誤っていると言えるわけでは、もちろんありません。ベネターとはまったく別の論証によって反出生主義の正しさが示される可能性は依然として残っているからです。

 引き続きベネターの議論を検証し、その誤りを指摘していきたいのですが、長くなってしまったので、今日はここまでにします。面倒なのでいつやるかはわかりませんが、いつか、ベネターの「誕生害悪論」の批判をしたく思います。「そもそも苗野さんのベネター理解が間違っている」と思われた方は、コメント欄にて指摘して頂ければ幸いです。ありがとうございました。

 

参考文献

Benatar, D.2006.Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence, New York: Oxford University Press.

*1:ウィリアム・K・フランケナ〔著〕杖下隆英〔訳〕倫理学培風館、1975年

*2:ベネターの用意した①と②の回答は、分析哲学でいう可能世界論を駆使したものです。そして、この考察は実は失敗しています。

*3:快楽が剥奪されるとは、どのような事態でしょうか。例えば「毎週楽しみにしていたテレビ番組が終わってしまった」「通勤のときに毎朝電車から楽しんでいた景色が、土地開発により一変してしまった」「大好きだった自転車を盗まれてしまった」といった事態でしょうか。最後の例は苦痛に該当するかもしれませんね。

*4:我々が快楽の欠如よりも苦痛の存在の方を問題視するはずだということを示すために、ベネターは面白い想定をします。我々は、火星に生命がいないことを知っても、火星に存在しなかった者たちのために、快楽を経験できなかったことを嘆き悲しむことはないでしょう。「火星の非存在者が快楽を経験できなかったこと」を嘆く人がいたなら、変人です。しかしもし火星に生命がいて、それらが苦痛に満ちた生を生きているとしたら、それを嘆く人がいても、それほど不合理ではありません。

*5:判然としないのは、ベネターが「(4)は(2)より、より悪くない」と言うとき、これは(4)と(2)はそもそも比較が不可能だから「より悪くない」と結論しているのか、それとも(4)を(2)と比べて「より悪くない」と結論しているのかが不明瞭な点です。もし比較の結果として「より悪くない」と結論しているのであれば、かなり支離滅裂な論証をしていることにならないでしょうか。というのは、(2)快楽の存在は「よりよい」better なのだが、(4)に比べて「よりよい」なのではない、としているからです。(2)に着目した説明では(4)との比較が不成立であることを示唆していながら、(4)に着目した説明では(2)と比較をしていることになります。