相対主義について
6日未明に起きた北海道胆振東部地震に際して心配して下さった方々、どうもありがとうございました。中には食糧や衣類を送ろうかと申し出て下さった方もおり、お気持ち大変感謝しております。私は全然大丈夫ですので、被災者支援のための募金に回して頂けたらと思います。
- 作者: ジェームズレイチェルズ,James Rachels,古牧徳生,次田憲和
- 出版社/メーカー: 晃洋書房
- 発売日: 2003/05
- メディア: 単行本
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道徳は人それぞれ。また異なる国々・地域や時代により、何を「善い」「正しい」とするかは異なる。……誰もが一度はこのような発言を聞いたことがあるのではないでしょうか。これは「相対主義」と総称される考え方で、道徳的な論争では必ずと言っていいほど頻繁に登場します。しかし相対主義的な発言の意味するところは、その発言者により異なります。大雑把に、これを3つに分類することができます。
A: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、道徳に関する統一的な見解など存在しない
B: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、道徳に関する普遍的な真理など存在しない
C: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、異なる道徳観をもつ人々を批判したり、自身の道徳観を押し付けたりすべきではない
A、B、Cは「相対主義」と総称される立場ではありますが、それぞれ異なる主張をしています。そこで、Aを記述レベルの相対主義、Bをメタレベルの相対主義、Cを規範レベルの相対主義と呼ぶことにします*1。
■Aの主張――記述レベルの相対主義
Aの発言者は、「異なる国々や社会集団では、人々は異なる道徳律に従って生きている」という事実に関する主張をしています。これは何ら規範的主張(私達に対する「どうすべきだ」「こうしよう」という提言)を含んでおらず、単なる事実の問題です。したがって、これが正しいかどうかは社会学や文化人類学によって実証的に明らかにされなければなりません*2。
しかし、本当に「道徳に関する統一的な見解など存在しない」とまで言えるかどうかは、疑問が残ります。確かに、人が従う道徳律は国や地域によって多様性が見られます。これを示す印象的な逸話がヘロドトスの『歴史』で紹介される、ギリシア人とインドのカラチア族の「父親の埋葬の仕方の違い」です。ギリシア人は父親の遺体は焼くことが正しいと信じていたのに対して、カラチア族はそれを聞いて恐ろしいとおののきました。カラチア族は父親の遺体は食べることが正しいと信じていたのです。
ではこの逸話をもって、ギリシア人とインドのカラチア族とでは、異なる道徳律に従っていると言えるでしょうか。必ずしもそうとは言えません。ギリシア人とカラチア族は、父親の埋葬の仕方という外形上の相違こそあれ、そこには「遺体に敬意を払う」という共通の道徳律がある、と言える余地があるからです。両者は、魂なるものに対する宗教的見解や、遺体の取り扱いにまつわる病気の発生状況等々の違いにより、単に外形上の異なる習慣として現れているだけではないか、とも考えられます。
また、殺人の禁止や嘘の禁止はおよそどのような社会集団でも共有されている道徳律と言えそうです。もちろんある国家は死刑を採用しているなど、殺人の禁止に「例外規定」を設けていますが、殺人が全面的に許容されている社会集団は存在し得ない(というより存続し得ない)でしょう。したがって、「人が従う道徳律は国や地域によって多様性が見られる」ものの、依然としてそこに普遍性も見られると指摘できるのではないでしょうか。
■Bの主張――メタレベルの相対主義
Bの発言者は、道徳に関する普遍的真理の存在を否定しようとするものです。道徳に関する普遍的な真理とは何か。倫理学において実在論・認知主義と呼ばれる立場を採用する人々は、数学や物理学における真理のように、道徳の領域においても普遍的真理が存在していると考えます。「幼児を虐待することは悪い」という言説は、「100以下の素数は25個ある」「直角三角形において、斜辺の長さの平方は、他の2辺の平方の和に等しい」という言説が数学的真理であるのと同様に、道徳的真理である、と。
道徳や倫理に関してこのような普遍的な真理が存在するかどうかはわかりませんし、ここでは問いません。しかし、これを存在しないとするBの発言者の論証が誤っていることは確かです。Bの論証を注意深く見てみましょう。
前提 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ
だから
結論 道徳に関する普遍的な真理など存在しない
この論証は明らかに誤りです。前提では単に「人々の見解には不一致が存在する」という観察事実を述べているだけです。それは「人々の見解を越えた真理の実在性」に関して、いかなる証拠も提供しません。以下のような論証に置き換えてみるとその誤りがより明確になります。
前提 ある社会は天動説が正しいと考え、別の社会は地動説が正しいと考えている
だから
結論 地球の運動に関して天文学上の真理は存在しない
この論証が誤っていることは容易に判断できるでしょう。単に複数の対立した見解があるというだけでは、一方の社会が正しく、他方の社会が誤っている可能性、あるいは両者がともに誤っている可能性が依然として残されています。「1+1=3」と信じている人と「1+1=5」と信じている人が対立しているからと言って、「1+1 という問題に関して真理は存在しない」などという結論は導けないでしょう。同様に、「ある社会は犬を食べることを正しいと考え、別の社会は犬を食べることを間違っていると考えている」という前提から、「犬を食べるということに関して、普遍的な善悪は存在しない」という結論を導くことはできません。
もちろん、この批判は論証が誤りであることを指摘しているだけであり、結論が誤りであることまでは指摘していません。道徳に関して、普遍的な真理は本当に存在しないのかもしれません。「犬を食べるということに関して、普遍的な善悪は存在しない」という主張は、もしかしたら正しいのかもしれません。しかしそれは、人々の見解に不一致が存在することとは独立の問題であり、人々の見解の不一致をいくら提示してもその正しさを証明できないのです。
■Cの主張――規範レベルの相対主義
AとBの相対主義的な発言が規範的な主張を含んでいなかったのに対して、Cのタイプの相対主義は規範的な主張を含んでいます。つまり、私達に対して、「どうすべきだ」、「こうしよう」という提言を含んでいます。
C: 道徳は異なる国々や集団によって異なるものだ。だから、異なる道徳観をもつ人々を批判したり、自身の道徳観を押し付けたりすべきではない
このタイプの相対主義にはある種の「魅力」があります。それは私達に寛容や相互不干渉の精神を教え、異文化に対する尊重・理解や多文化共生の可能性を示唆しているように見えるからです。文化ごと(あるいは社会ごと)に価値観は異なる。我々は異なる価値観や習慣を持っている人々に対して、彼らの価値観が間違っていると批判すべきではない。……この考え方は文化間の摩擦・衝突を回避し、平和を促進するように見えます。
しかし、この主張には重大な欠陥があります。第一に、「異文化を大いに批判すべきである」という価値観を、相対主義は批判できなくなるというパラドックスが生じます。ある地域に住む人々は、「我々の宗教は地球上で唯一無二の真理であり、異教徒を積極的に批判し、我々の宗教に改宗させるべきである」という道徳律を信じていたとしましょう。ではこの道徳律に相対主義者はどう対処したら良いのでしょうか。彼らに「自分たちの信仰を他者に押し付けるな」と、その態度を改めさせるべきでしょうか。しかし、彼らの態度を改めさせることは、相対主義者がまさに批判していた当の行為ではないのでしょうか。
第二に、この種の相対主義を支持すると、いかなる残虐な行為も、非人道的な文化も、もはや批判できなくなるという事態が生じます。このタイプの相対主義者は、「殺人は許容される」「窃盗は悪いことではない」と信じる人に対して、「いや殺人は許されないのだ」「窃盗は悪いことなのだ」と説得する資格を持ちません。家の中では靴を脱ぐか靴を履くか、食事は右手で食べるか左手で食べるかといった文化的な相違は無害なものですが、世界には有害な文化や習慣があります。未だにアフリカや中東、アジアの一部の国々で行われているFGMに対する批判を、相対主義者は放棄しなければなりません*3。そしてこれらを毅然とした態度で批判しないのは、開明的ではないでしょう。
道徳や価値観は人によって異なります。ですが、少なくとも、他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反でしょう。菜食主義者でない人が、菜食主義者に対して肉を食べろと言っている話は聞いたことがありませんが、逆はよくあります。自分の道徳を貫くのは双方に勝手にすべきことです
— 福永 活也 (@fukunagakatsuya) 2018年9月6日
上のツイートは福永法律事務所代表、福永活也さんのものです(既に削除された模様)。福永さんは「道徳や価値観は人によって異なります。ですが、少なくとも、他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反」と主張します。では、「他人に自分の道徳、価値観を押し付けることは道徳違反」という道徳律は、絶対的な道徳律なのでしょうか、相対的な道徳律なのでしょうか。もしこれが絶対的な道徳律なのだとしたら、人によってそれぞれ異なるはずであるところの他種多様な道徳的世界に、自身の絶対的な道徳律を「押し付け」ていることになります。もしこれが相対的な道徳律なのだとしたら、「他人に自分の道徳、価値観を伝え共有させるべきだ」という道徳律と等価ということになり、一顧だに値しません。
私達は殺人や窃盗を禁止する道徳律を受け入れており、これに違反した人に対して義憤(道徳的な怒り)を覚えます。自分の部屋が空き巣に入られたり、自分の大切な人が暴漢に乱暴されたりしたならば、犯人に対する倫理的な非難をせずにはいられないでしょう。そして、できれば犯人が罪を自覚し、反省することを望むでしょう。ここで、「犯人に罪への自覚と反省を要求することは道徳違反であり、法律というルール違反の点で制裁を要求することしか我々はすべきではない」とするのはあまりに現実味がありません。
「押し付け」とはそもそも曖昧な言葉であり、話者の意味するところは必ずしも定かではありませんが、少なくとも、道徳とは私達の行動を律する指針の束なのであり、「押しつけがましい」ものであることは事実です。「自分の道徳を押し付けることは道徳違反」と言う人は、そもそも道徳が私達の行動を律する規則なのであるという事実を忘れています。
*1:佐藤岳詩『メタ倫理学入門』に依拠していますが、本書では記述レベルを「事実レベル」と表記しています。
*2:フランケナの『倫理学』、これに依拠している赤林朗・児玉聡『入門・倫理学』ではこの立場の相対主義を「記述倫理学的相対主義」としていますが、これは倫理学の研究対象というより人類学の研究対象ではないでしょうか。ですので「記述倫理学的相対主義」という呼称にはあまりしっくりきません。
ヒュームの法則、普遍化可能性
前回は、「特徴」や「能力」といった観点から、人間の特権的な道徳的地位を主張する議論を批判した。今回は論理学と倫理学の概念を用いて、この議論の構造を分析する。そして、やはり「種差別」は擁護し難い、という結論を導くつもりだ。尚、今回の議論は伊勢田哲治先生の『動物からの倫理学入門』の第2章に多くを負っているので、興味のある人は手に取ってみてほしい。
まず、「種差別」を擁護して、動物に対する差別的な扱いを許容する人たちが頻繁に提示する根拠を5つほどピックアップしてみよう。
(1)動物は自ら権利を主張しない。
(2)動物は人間のように知性をもたない。
(3)動物は責任能力や契約能力をもたない。
(4)人間が動物を利用するのは自然だ。
(5)人間は伝統的に動物を利用してきた。
多くの種差別主義者は、このような根拠を提示し、「だから動物を差別扱いしてよい」(=「だから人間は特別な道徳的地位をもつ」)という主張を展開する。しかし、こうした主張とそれに対する反論は動物倫理ではもはやお馴染みのやり取りになっている。(1)~(3)の根拠については、既に前回の記事で反駁した通りである。そこで強力な論法となるのが「限界事例論」であった。
とは言え、「動物は自ら権利を主張しない、だから動物を差別扱いしてもよい」と主張する人は、それによって「権利を主張しない者を差別扱いしてもよい」ということまで主張したことになってしまうのだろうか。この人はあくまで動物の話をしていたはずなのに、なぜその主張が、人間にまで拡張された一般論としての意味を帯びてしまうのだろうか。
その秘密は、この主張の論理構造に隠されている。
推論A
前提 動物には責任能力や契約能力がない
結論 動物は差別扱いしてもよい
この「前提、だから結論」の流れを推論という。「今日は月曜日だ。だから明日は火曜日だ」はひとつの推論だ*1。では、推論Aは正しいのだろうか。推論Aは
前提 XはYである
結論 XにZしてよい
という構造をしている。この推論に対しては、有名な「ヒュームの法則」に違反している、と指摘することができる。
ヒュームの法則とは、事実判断から価値判断を導くことはできない、という法則だ。わかりやすくいうと、「~である」という事実に基づく前提から、「~すべきである(でない)」とか「~はよい(悪い)」といった価値評価を含む結論を導くことはできない、論理が飛躍している、ということだ。18世紀イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームにちなんで「ヒュームの法則」と呼ばれる(ただしこの“法則”が実際にヒュームの意図に沿ったものであるかどうかは議論の余地がある)。
例えば、
推論B
前提 まりなは女性だ。
結論 まりなはお淑やかにすべきだ。
この推論は、「まりなは女性である」という事実に基づく前提から、「まりなはお淑やかにすべきだ」という価値判断を結論として導いている。
推論C
前提 この絵は対称性を備えている。
結論 この絵は美しい。
この推論は、「この絵は対称性を備えている」という事実に基づく前提から、「この絵は美しい」という価値評価を結論として導き出している。(「美しい」とか「ダサい」といった評価も価値判断である。「善い」「悪い」のような道徳的な価値判断に対して、これは美的な価値判断である。)
さて、「まりなは女性である」とか「この絵は対称性を備えている」というのは単なる事実である。この単なる事実から、「だからどうすべきだ」とか「だからよい」といった価値判断を論理的に導くことはできるのだろうか。ヒュームの法則が正しければ、できない。端的に言えば、「論理が飛躍」している。
「論理が飛躍している、だからこの推論は却下!」というだけでは面白くない。ヒュームの法則はさらに、この推論に暗黙の前提が隠れていることを示唆している。例えば推論Bは、「まりなは女性だ」という前提に加えて「女性はお淑やかであるべきだ」という価値判断に基づく第二の前提が隠れている、ということを見抜くことができる。推論Cについては、前提「この絵は対称性を備えている」に加えて「対称性を備えている絵は美しい」という第二の前提(あるいは仮定)が実は隠れているのだ、ということを見抜くことができる。
つまり推論Bは本当は
前提① まりなは女性だ。
前提② 女性はお淑やかであるべきだ。
結論 まりなはお淑やかにすべきだ。
という形の推論だったというわけだ。一般化して書くと、
前提① XはYである
前提② YであるならZすべきだ
結論 XはZすべきだ
ということになる。そして、推論Cは本当は
前提① この絵は対称性を備えている。
前提② 対称性を備えている絵は美しい。
結論 この絵は美しい。
という形の推論だったというわけだ。
このような三段論法に基づく推論なら、とりあえず形式的には正しい。形式的には正しいとは、これら2つの前提から、確かに結論が導かれるということ。この前提の内容が正しいかどうかはまた別の話である*2。
さて、ヒュームの法則という武器によって隠された暗黙の前提を見抜くことができることがわかった。では、種差別を擁護する先ほどの推論Aを検証してみよう。
推論A
前提 動物には責任能力や契約能力がない
結論 動物は差別扱いしてもよい
推論Aにもやはり、隠された暗黙の前提を指摘することができる。隠れている前提は「責任能力や契約能力がない者ならば差別扱いしてもよい」だろう。つまり推論Aは以下のように再構成することができる。
推論A
前提① 動物には責任能力や契約能力がない
前提② 責任能力や契約能力がない者ならば差別扱いしてもよい
結論 動物は差別扱いしてもよい
もし推論Aがこのような三段論法なら、推論の形式自体は正しい。しかし前提②を私達は受け入れることができるだろうか。これはかなり厳しい。もちろん、「相手が人間だろうと、責任能力や契約能力がない者は差別してもよいのだ」とか「相手が人間だろうと、権利を主張しない者を保護する必要はない」などと開き直って、限界事例の人々への配慮も否定することはできる。しかしそうすると、私達の培ってきた社会道徳は後退を余儀なくされ、歴史の歯車を大幅に巻き戻さなければならなくなるだろう。
次に、道徳判断につきまとう「普遍化可能性」という概念を導入する。普遍化可能性とは「ある場面で道徳判断をしたなら、それと類似したあらゆる場面で同じ道徳判断を下したことになる」という道徳判断のもつ性質である。
具体例で説明しよう。電車内で村山くんが、高齢者が目の前に座っているのに席を譲らずに座っていた。これを目撃したまりなさんは、村山くんに「高齢者には席を譲らないとダメじゃない」と注意した。この時まりなさんは、「高齢者には席を譲るべきである」という道徳的判断を下したことになる。もしこのしばらく後、まりなさんの前にも高齢者がやってきたのに、「私は席を譲らなくてもいいの」と呟いて寝たふりをしたら、先のまりなさんの発言は普遍化可能性を欠いており、まりなさんの道徳判断は失格だということになる。
高木くんが林くんにお金を貸しているとしよう。高木くんは「君はボクにお金を返すべきだ」と要求した。このとき高木くんが誠実な道徳判断に基づいて発言したなら、これは「借りたお金は返すべきである」という普遍化可能性のある判断を下したことになる。もし高木くんも別の人にお金を借りているのに、「自分は返さなくてもいい」と考えているなら、高木くんの発言もやはり普遍化可能性を欠いていて、道徳判断としては失格だと言わねばならない。
この道徳判断につきまとう「普遍化可能性」を手がかりに、最後の(4)と(5)を見てみよう。
(4)人間が動物を利用するのは自然だ。
(5)人間は伝統的に動物を利用してきた。
この(4)と(5)から「だから動物を差別的に扱ってよい」という結論を導くには、先ほど見たように、暗黙の前提を付け加えて再構成しなければならない。つまりこうだ。
推論D
前提① 人間が動物を利用するのは自然だ。
前提② 自然なことをすべきである(または自然なことをしてもよい)
結論 動物を差別的に扱ってよい
推論E
前提① 人間は伝統的に動物を利用してきた
前提② 伝統は維持すべきである
結論 動物を差別的に扱ってよい
推論Dの「自然なことをすべきである」や「自然なことをしてもよい」、推論Eの「伝統は維持すべきである」が普遍化可能性を備えた誠実な道徳判断ならば、動物に関与する場面に限らず「自然なこと」や「伝統」に関わる場面では一律にこのように判断を下さなければならない。
そもそも「自然なこと」という語の意味が非常に曖昧でつかみ難く、論者が恣意的に定めることのできる不適切な表現であろう。私たちが服を着ることや車や飛行機に乗ること、スマホやパソコンを使うことは自然なことだろうか。あるいは、路上での排泄や性行為も、性欲の赴くままに誰かを襲うことも、すべきこと、よいことになるのだろうか。私達が病気に倒れ、高度な医療によってこれを治療することはおよそ自然界では見られない現象だが、これは良からぬことなのだろうか*3。「野生動物も他の動物を殺して食べる」ことを自然なことの一例として挙げる者もあるが、野生動物の中には恐ろしい子殺しをする動物もいれば、レイプをする動物もいる。私達もそれに倣っていいのだろうか(ちなみに、大部分の野生動物は草食なのだが)。
「伝統は維持すべきである」なら、民主主義や人権などというものは放棄して、男尊女卑の社会に立ち返るべきだ、という判断も導かれかねない。
以上のように、動物への差別的扱いを肯定する根拠を厳密に分析すると、限界事例の人々に対する差別的扱いも肯定されたり、残酷な伝統も擁護しなければならなくなったり、非常にまずい結論が導かれてしまう。結論を言う。種差別を擁護するのは、非常に難しそうである。道徳判断が備えている普遍化可能性という性質はかなり強い縛りで、私達の倫理的思考をかなりの程度方向付けてくれるだろう。
人間と動物の道徳的地位
4月11日の記事で「種差別」という概念について説明を試みた。今回と次回では、種差別を正当化する議論に対する反駁を試みる。
「利益をもつ者に平等に配慮すべきこと」が道徳のひとつの要請である。これが「公正」である。他者の利益を不当に奪ったり、不利益を与えたりすることは、道徳的に許し難い行為だ。特に、相手の属性を理由にそうした不利益を与えることは、「差別」の一形態である。(差別の問題は根深く、これが差別のすべてだというわけではないが、差別のひとつの形である。)
相手の人種を理由に不利益を与えた場合、それは人種差別と呼ばれる。相手の性別を理由に不利益を与えたなら、それは性差別である。そして相手の属する動物種を理由に不利益を与えたなら、「種差別」だというわけだ。
しかしながら、理解はできるが納得はし難いという人が多いだろう。人種差別や性差別や人間同士の問題である。動物は我々とは「種」が違う。人間はやはり特別扱いされるのが当然なのではないか。相手が動物である以上、人間より軽視されてしまうのは仕方ないのではないか。
「倫理的な配慮に値する地位」のことを「道徳的地位」と呼ぶ。上記のような疑問を抱く人々の考え方を言葉にすると、「人間は道徳的地位をもつ。動物は道徳的地位をもたないか、もっていたとしても人間より低い程度の道徳的地位しかもたない」ということになる。今回と次回で、この考え方が正当なものかどうか、検討してみたい。
まず今回の記事では、人間の特権的な道徳的地位の根拠を、人間だけがもち、動物がもっていない「特徴」や「能力」に求める議論を批判する。では、人間だけがもつ特徴や能力とは何だろうか。
人間は、言葉によって他者とコミュニケーションがとれる。人間は、道具を使うことができる。人間は、他人と協力をする。人間は、楽しみのためにセックスをする。人間は、何かを達成するために努力したり、反省したりすることができる。……
このように人間にオリジナルな能力を探して、人間の特別な道徳的地位を示そうとする議論には、問題点が3つある。第一に、どのような能力を選んでも、多くの場合その能力を持っている動物がいるということ。第二に、どのような能力を選んでも、その能力をもたない人間がいるということ。そして第三に、ある種の能力をもって人間の特別性を説明するという議論それ自体がはらむ問題である。
まず、第一の問題点について。
人間だけがもつ能力とは何だろうか。例えば、言語を用いたコミュニケーションはどうだろうか。1940年代にチンパンジーに音声言語を教える試みがなされたが、うまくいかなかった。これはチンパンジーの喉の構造が人間と異なって、音声言語を物理的に発することができなかったからである*1。
しかし、手話を用いたコミュニケーションならば、ヒトとチンパンジーの間に双方向的なコミュニケーションが成立する。ゴリラやオランウータンでも、数百の手話サインを理解できることが報告されている*2。
アメリカの心理学者アイリーン・ペパーバーグが30年に渡って飼育・訓練した、ヨウムのアレックスも有名だ。アレックスは物の名前を覚えただけでなく、「同じ」や「違う」といった概念を収得し、比較したり、色や形や材質を判断することができた。アレックスは緑色のプラスティック製の鍵と金属製の鍵を見せられ、「何が違う?」と聞かれたら「色」と答え、「どちらの色が大きい?」と聞かれたら「緑色」と答えることができた。
では道具を使うという能力はどうか。長い間、人間だけが道具を作って使用する唯一の生物だと考えられていた。それを最初に否定したのは霊長類学者ジェーン・グドールである。1960年代半ばにグドールはタンザニアのゴンベ国立公園、チンパンジーが小枝から葉を取り除いてシロアリの塚に差し込み、シロアリ釣りをしているのを発見した。小枝を無造作に折り、単にアリ塚に差し込むだけではうまくいかない。チンパンジーは、慎重に適切な材料を探して、枝や葉を取り去って、道具を加工までしていた。
他にも、道具を使用する動物の例は多数報告されている。オーストラリアのバンドウイルカはカイメンを使って採餌行動をすることが知られている。カイメンをくわえて吻部を保護して、砂地の中を探索して小魚を追い出し、これを食べる。ニューカレドニアに生息するカラスは、木の枝や葉から道具を作って採餌する。小枝をかぎ針のように細工して、それを使って穴の奥に潜む昆虫を捕らえることが知られている。*3
「秩序ある社会を形成するのが人間だ」と主張する者もいるかもしれない。しかし、秩序ある集団を形成する動物もまた存在する。オオカミはアルファと呼ばれるリーダーの下に順位制を伴った群れをつくる。ハダカデバネズミも有名だろう。ハダカデバネズミは、繁殖を行う1頭の雌の下に、分業化された実に見事な社会秩序を形成している。
このように、人間の特別な道徳的地位を示すために人間に特有の能力や特徴を示そうとしても、多くの場合、それが動物にも共有されていることが明らかになっている。以上が、この議論の第一の問題点である。
次に、第二の問題点について。
何らかの能力をもつことを根拠に、人間が特別な存在であると示そうとすると、「ではその能力をもたない人間はどうなるのか」という問題が生じる。全人類に共通と思われるどのような能力を探しても、どうしてもその能力をもたない者がいる。例えば言語でコミュニケーションを行うことを人間の特徴だとしても、乳幼児や重度の知的障がい者、失語症の患者などはその能力が欠けていよう。
「文字を書くこと」というように、確かに今のところ人間以外の動物には見られない能力をあげることもできる。だがそのように能力の水準をあげてしまうと、なおさらその能力をもたない――「人間」の条件からこぼれ落ちてしまう――人々の数は多くなってしまうだろう。*4
実際、知性にしても記憶力にしても我慢強さにしても、ある種の動物(例えばイヌ、イルカ、チンパンジーなど)と同程度か、それより低い能力しかもたない人々が常にいる。乳幼児や知的障がい者、認知症患者など、こうした人々のケースを「限界事例」と呼ぶ。
種差別主義者が「人間は××の能力をもつ、それゆえに特別に配慮されるべき存在なのだ」と言うと、動物倫理を学んだ人には必ず「ならば××の能力をもたない限界事例の人々は配慮されなくてよいのか?」と切り返される。もし限界事例の人々も同じように配慮されなければならないと考えるのであれば、「××の能力をもつから」という根拠は撤回しなければならない。
この「限界事例論」という論法は大変強力で、それまで動物への配慮に否定的だった哲学者が、これに対抗できないことを悟り、動物への配慮の肯定派に立場を転向したくらいである。
最後に、第三の問題点について。
これがもっとも本質的な問題である。そもそも、ある種の能力や特徴をもって、人間の特別性を説明するというのは、正当な議論なのだろうか。なぜ、ある能力をもつことが、その所有者を、その能力をもっていない人よりも倫理的な配慮に値するものにするのだろうか。
例えば、カズキは数学が苦手だが、友人のマリナは数学をとても得意とする。ところで、高い数学の能力を備えているということによって、マリナはカズキよりもより大きな倫理的配慮を受けるに値すると言えるのだろうか。そしてカズキは数学が苦手だという理由によって、マリナよりも少ない倫理的配慮しか受けるに値しないと言えるのだろうか。
もちろん、マリナが数学の試験で高得点をとって褒められることもあるかもしれないし、数学の能力を活かせる会社に就職すれば、その能力のおかげでより大きな報酬をもらえるかもしれない。しかしそれは道徳的な地位とは無関係だろう。
『あにまるえしっくす』原作者のおにぎり氏は絵がとても上手だが、苗野は絵が下手である。では、絵が下手だという理由で、監禁され、太らせられ、やがて食べられるという運命を苗野に背負わせることは理に適っているだろうか。
どんな能力や特徴を挙げても同様である。走るのが早い、2か国語を話せる、背が高い……リストは続くが、これらは倫理的な観点から見て、まったく重要性をもたない。そして同様に、優れた言語能力をもつことも、道具を使えることも、道徳的地位とは無関係と言えるだろう。実際に我々人類は、何らかの能力に欠けていたり劣っていたりする人々を「無用」のものと見なし、その抹殺を試みた歴史を背負っている。
蛇足ながら、もう一点だけ付け加えたい。これは動物の権利を論じる著名な法律学者ゲイリー・フランシオンの指摘である。なぜ我々は言語能力や道具を使うという能力を指摘して、人間の特権性を示そうとするのだろうか。それは最初から「人間が特権的な道徳的地位をもつ」ということを前提した議論だからだ。こうした議論で、空を飛ぶとか、水中で呼吸をするといった能力の重要性を指摘する人はいない。それもそのはずで、何の道具も使わずに、空を飛んだり、水中で呼吸をしたりすることのできる人間はいないからだ。つまり、これは初めから「人間には特権的な地位がある」という結論ありきの議論なのである。しかし、言語能力が空を飛ぶ能力より、所有者により高い道徳的地位を与えるという根拠などはない。
たとえ言語能力に優れていても劣っていても、道具を使えても使えなくても、空を飛べても飛べなくても、それらは道徳的地位の優劣には無関係である。
特徴や能力から人間の特権的な道徳的地位を説明する議論に対する批判はここまでとしたい。次回は論理学と倫理学の概念を用いて、この議論の構造を分析する。
*1:この件について、京大野生動物研究センターのサクラギヒロコさんから、チンパンジーに真剣に音声言語を教える試みは1909年のものが最初のようである、とご指摘いただきました。ありがとうございます。
*2:2018年6月、雌のローランドゴリラのココが46歳で亡くなったニュースが話題を呼んだ。彼女に手話を教えたパターソンはココに「あなたは動物、それとも人間?」と尋ねた。これに対するココの答えは「ステキナ ドウブツ ゴリラ」だった。島泰三 『ヒト――異端のサルの1億年』 中公新書より
*3:さらに驚嘆すべきは魚の道具使用例である。進化生物学者ベルナルディは、ミクロネシアの海でダイビング中に、クサビベラが道具を使用する姿を撮影した。一匹のベラが砂地に水を吹きかけて埋もれていた二枚貝を見つけ出し、それをくわえて離れた場所にある大きな岩まで運んで、首を素早く振って岩に貝を放った。これを何回か繰り返し、貝を割って食べていた。日経サイエンス編集部 『別冊226 動物のサイエンス(別冊日経サイエンス)』日本経済新聞出版社より
もうすぐそこに夏がきています
このブログのタイトル「ピラビタール」は、私が大好きな大好きな歌手の森田童子さんの曲名から拝借しています。森田童子さんに出会ったきっかけは、月並みですが、中学の頃に放送されていたドラマ『高校教師』でした(桜井幸子さんではなく、上戸彩さんの方です)。
そこから彼女の歌に魅了され、全アルバムを集め、全詩集なんてのも自作しました。歌を聴けば聴くほど、ドラマ『高校教師』のイメージとはまるでかけ離れた森田童子を知ることができました。
高校生の頃に作った、森田童子全詩集です。 pic.twitter.com/As2gSjDsSV
— 苗野 (@naeno0920) 2018年6月12日
昨夜twitterに、森田童子さんが4月24日に亡くなられていたというツイートが流れてきました。今朝のニュースにもなっており、事実のようです。
特に悲しいということはありません。私が知っているのは詩を歌っている童子さんだけですし、そもそも私が童子さんを知るよりずっと前に、生まれるよりも前に、童子さんは引退していました。
活動をやめた童子さんのその後の生活など知る由もなく、同じ世界に生きていたことすらも実感が湧かないくらいですので、「亡くなった」というニュースを見ても実感がありません。
でも、twitterで「森田童子」の名前を見るのがちょっと嫌でミュートワードに設定しました。私の童子さんの像を大切にしたいので。童子さんに大切な思い出を持っていたり、語りたいことがある人はたくさんいて、色々流れてきました。文句などはまったくありません。
ただ私は、私の思い描いている森田童子だけに触れていたい。と思うので。