デイヴィッド・ベネターの反出生主義
先日の記事の最後で、「反出生主義」なる思想があることを紹介しました。「私たちは子供を産むべきではない」という考え方であり、その根拠は論者によりさまざまです。現在その論者として特に有名なのは南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターであり、『生まれてこなければよかった――存在することの害悪』(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)によって知られています。
Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence
- 作者: David Benatar
- 出版社/メーカー: Oxford University Press, Usa
- 発売日: 2008/09/15
- メディア: ペーパーバック
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彼の反出生主義は快楽と苦痛の価値に対する非対称性の議論を土台として、分析哲学的な手法によって導出されます。ベネターの論証の核心は「誕生害悪論」とでも呼べるもので、それは「この世界に生まれてくることは、誰にとっても、生まれてこないことより、必ず悪い」という主張です。これは、生まれてきた当人が、自分が生まれてきたことについてどう思っているかとは無関係に、論理的に成立するのだといいます。苦しみに満ちた生を生きている者はもちろん、自分の人生を幸福だと考えている者にとっても、その人の主観とは無関係に、「生まれてきたことは害悪」なのだそうです。*1
もしこの主張が正しいならば、この世に子供を生み出せば、その子は生誕により必ず害悪を被ることになるわけです。つまり、生殖は避けるべき非道徳的な行為ということです。ベネターによれば、誰であれこの世界に誕生(存在を開始)するべきではなかったのであり、またこの先も誕生(存在を開始)させるべきではありません。人類は生殖を控え、その数を減らさなければなりません。存在=害悪は少なければ少ないほどよく、地球上の理想の人口は「ゼロ」人ということになります。荒唐無稽のように思えるこの人類絶滅論ですが、ベネターは以上のことを本気で主張しています。
ベネターは人類の絶滅を「早ければ早いほどよい」としていますが、しかし全人類が一斉に生殖をやめるべきだとは主張しません。というのは、急激な人口の減少は、現存している人類に大きな負担をかけ過ぎてしまうからです。人類の絶滅は必要だが、人口を不用意に急激に減らすことで、現在の世代に害悪を加えることは避けなければならない。こうして、人口減少によって人々が被る害悪をなるべく抑えながら、しかしできるだけ早く、漸進的に人類が絶滅していくべきだとするのです。*2
もちろん、核兵器などにより全人類を一挙に抹殺するような解決案は、ベネターの立場からすると論外です。ベネターの議論はそもそも主体に害悪(たとえば苦痛)を加えてはならないという倫理観を根底においているので、いったん誕生(存在を開始)した人間が死に伴う精神的・肉体的苦痛を被ることは正当化されません。ただし、人格を有する生きている者を殺害することが許されないとしても、人格を有さない胎児は別です。ベネターの見解では意識発生以前(妊娠28週より前)の胎児は「道徳上の地位」を欠いているので、なるべく堕胎されるべきだとします。これは中絶容認ではなく中絶推進という立場であり、プロチョイス (pro-choice)ならぬプロデス(pro-death)の主張です。*3
以上がベネターの反出生主義とその核心である誕生害悪論によって導かれる結論なのですが、ではこの結論はどのような論証によって導かれるのでしょうか。彼の議論はかなり込み入っており、全体像を捉えるのは容易ではありません。また、その論証は破綻していると指摘する学者も少なくないようです。ただし、ベネターの議論が緻密さに欠けるものとしても、生命倫理をはじめとする倫理学の考察に刺激を与え得ることは間違いありません。
これ以上は長くなるので今夜はここまでにして、次回の記事でベネターの「誕生害悪論」の論証のまとめに挑戦してみたいと思います。ちなみに、ベネターの『生まれてこなければよかった』ですが、日本語で出版されるらしいです。ベネターの「反出生主義」を紹介する論文をおそらく日本で一番最初に書いたのではないかと思われる森岡正博先生のツイート↓
D.ベネターの『生まれてこなければよかった』が、すずさわ書店から刊行予定と、彼のサイトに書いてある。https://t.co/NCTNZsmUYy
— 森岡正博 (@Sukuitohananika) September 2, 2017
*1:ある者にとっての幸福や不幸を問題とする議論であるのに、その議論が価値に関して主観主義ではなく客観主義を採用している点はかなり興味深いです。
*2:前回の記事でも指摘したように、出産の停止による人類の消滅は、論理的には、今生きている私たちの決断と、今妊娠している女性が産む子の決断により、二世代で可能です。
*3:ベネターの議論は、実際は人類だけではなく、感覚を有するあらゆる動物に適用されます。したがって、ベネターの人類絶滅論はより正確には「有感動物絶滅論」とされなければなりません。ベネターの熱心な支持者は、人類が絶滅する前にどのようにして他の動物たちを滅ぼすか、地球上からあらゆる野生動物を消滅させるにはどうしたらいいか、本気で考えているようです。
生命倫理と反出生主義
2016年5月17日に、「生殖を禁止しましょう」という記事を書きました。この記事で私は、以下のような論理から、人類が生殖を控えるべきことを主張しました。
生殖・出産は親の利己的行為である。生まれたいかどうかという子供の自由意志を無視しているからだ。人間は生死と誕生を含む全ての活動に自由に主体的に自律的に関わるべきである。この世に生まれ出づるかどうかという、人生で一番大事な決断を他人が下すなんて言語道断ではないか。生まれるかどうかは、当事者であるところの、これから生まれる子供が決めるべき決断である。つまり、受精前の段階で、子供に、この世に生まれ落ちたいかどうか、その意志を確認しなければならない。そしてそのような対話をすることが現実できない以上、導かれる論理的な帰結としては、「生殖をしてはならない」ということになる。他者の自己決定を尊重するならば、私たちは生殖を控えなければならない。
……馬鹿げた主張かもしれませんね。不可能なことを要求する不毛な議論かもしれません。このような主張を真面目に受け取るかどうかが、大人として成熟しているかどうかの分かれ目になるのかもしれません。ですが、議論の有意義性は置いておいて、論理的な瑕疵は特に見当たらない気がします。
何年か前から倫理学というものに興味を持ち始め、生命倫理の勉強をするうちに、疑問に思うようになりました。どんな教科書を開いても、子供をつくること、生殖の是非、我々人類が続いていくことの可否について論じたものがないことに。*1
生殖補助医療や出生前診断、人工妊娠中絶、臓器移植と脳死の問題、終末期医療などなど、我々の生きる現代に生命倫理学のテーマは事欠きません。にもかかわらず、子供を「ただ産むこと」そのものは問題視されないことが不思議でならなかったのですよね。生命を特殊な手段でつくることは問題になるのに、生命を夫婦の自然な行為でただつくることは問題にならない。障害のある子が生まれる可能性がある場合、生殖は重いテーマになるのに、障害のない健康優良児が生まれるであろう場合、生殖はテーマとならない。終末期の生き方や治療方針の選択において、自己決定は重視されるのに、誕生の場面においては自己決定は重視されない。そうした事態が不思議でならなかったのです。
おそらく、生まれる前に、生まれたいか生まれたくないかを問われたことのある者はどこにもいないでしょう。同意の上でこの世界に産み落とされた者は過去一人たりともいなかったと思われます。他者の自己決定を人類が最初から尊重していたら、人類は最初の一世代で途絶えたでしょう(もちろん、「最初の一世代」などというのは比喩に過ぎず、人類の最初の一世代目と、人類に進化する一つ前の種の最後の一世代との間に線引きをすることなど進化生物学的に不可能です)。これもくだらぬ比喩ですが、生殖が許されるのは「神と動物だけ」であると思っています。
もし私の論理が広く受けれられれば、人類は緩やかに衰退し、やがて消滅することになります*2。(人類の自己消去は、論理的には、今生きている私たちの決断と、今妊娠している女性が産む子の決断により、二世代で可能です)。苗野さんが以上の主張を本気で実現すべきと唱えているのか、それほど本気ではない机上の考察なのか、そのあたりは読む方の解釈に委ねるものとしてぼかしておきます。
そんなわけで、産むことの是非、生殖の是非に関する疑問を去年の5月に「生殖を禁止しましょう」という記事にしたのですが、その後に「反出生主義」(アンチ・ナタリズム anti-natalism)という思想があることを知りました。それは「人間は生まれてくるよりも、生まれてこない方がよかった」というペシミズムの思想です。中でも近年特に脚光を浴びているのが「生まれてこなければよかった」という命題に分析哲学の手法から綿密に考察を加えた南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターです。ベネターも子供を産んではならないこと、地球上の最適な人口はゼロ人であること、したがって人類は緩やかに絶滅すべきことを説くのですが、その根拠は私のそれとはまったく違うものでした。根拠が違うわけですから、私の理想とする世界とは重大なところで相違点もあり、対立するところもあります。
ベネターがどのような根拠からそのように説くのか、主流の反出生主義*3の思想がどのようなもので、私の考える反出生主義とはどのように異なるのか、後日、私なりにまとめてみたいと思います。
*1:教科書ではないのですが、古牧徳生、他『神と生命倫理』晃洋書房で、以下で紹介するデイヴィッド・ベネターの「反出生主義」が考察されています。次田憲和(2016)「われわれは「存在」しなかった方が善いのか?――「反出生主義」の形而上学的分析」
*2:予備校に通っていた頃、小論文の先生に真面目にこの話をしたら、「君の言うようにしたら人類絶滅しちゃうじゃん」と驚かれました。しかし、「人類絶滅しちゃうじゃん」と返すからには「人類がなぜ絶滅してはならないのか」その理由を説明しければならないはずと思います。
*3:主流の、というのは私の反出生主義(私の考え方を「反出生主義」と呼んでよいのならば)を非主流のものとした上での分類です。
死なないやつら
タイトルから察するにいわゆる「極限生物」を紹介する本だろうと思って読んでみました。ですが全5章のうち、極限生物の紹介にあてられているのは第2章だけです。全体を通して「生命とは何か」「生きているとはどういうことか」「生命はどのように発生したのか」といった問題を探究する生物学啓蒙書のようです。筆者としては、すさまじい環境で生活する驚異の極限生物について考えることで、これらの疑問の答えに近付こうと試みたようなのですが、その試みが成功したのかどうか、初学者の私にはイマイチわかりませんでした。
極限生物として有名なのはクマムシですよね。クマムシは脱水して「樽」と呼ばれる乾燥状態になると、代謝が止まり、活動を停止します。この状態になると151℃の高温や0.075ケルビンという低温状態に晒されても死にません。ですが上には上がいます。クマムシよりはるかに驚異的な極限生物が実はたくさんいるのです。バクテリア(細菌)やアーキア(古細菌)です。クマムシの場合「樽」と呼ばれる仮死状態になって極限環境に耐えるのに対し、これらの微生物がすごいのはそうした極限環境でもいきいきと活動しているところです。
・122℃の熱水中でも増殖するアーキア「メタノピュルス・カンドレリ」
・16000気圧でも生きる「シュワネラ・オネイデンシス」
・20000気圧にも適応したふつうの「大腸菌」
・真水から塩分濃度30%の飽和食塩水まで生きられる広範囲好塩菌「ハロモナス」
・1440グレイの放射線量まで耐えられる「デイノコッカス・ラジオデュランス」
(人間の耐えられる上限値は10グレイ)
・40万Gの重力下でも細胞分裂し、増殖した大腸菌と「パラコッカス・デニトリフィカンス」
など…。面白いのは、これらの能力が明らかに「過剰」である点です。例えば地球上で1440グレイもの強烈な放射線が出ている場所はありませんし、40万Gもの重力が自然界に存在しないのは言うまでもありません。彼らの能力は、地球上で生きていく上で、まったく必要のないものです。
こうしたすさまじい極限生物の紹介を通して、生命の本質に迫るのかな、と思いながら読み進めていきましたが、そうでもありませんでした。生命の本質に迫る章はあったのですけど、それと「極限生物」はあまり関係ないような気がして、全体の中で第2章が浮いているように思えました。それは単に私が勉強不足のためなのかもしれません。
それなりに面白かったです。ブルーバックスの啓蒙書ですし気軽に読めますので、生物に興味のある方にはおすすめです。
天安門
今日は1989年の天安門事件から27年目です。ということで、カーマ・ヒントンとリチャード・ゴードンの『天安門』を観ました。天安門事件の推移を再検証した壮大なドキュメンタリーです。あの悲劇を、運動勢力を手放しに賞賛することはせず、政府側を糾弾するためのプロパガンダとしてでもなく、運動がなぜ失敗したのか、冷静にその問題点を浮き彫りにしていきます。
天安門事件と聞くと、民主化を要求した学生や労働者ら運動勢力を善とし、弾圧した政府の側を悪とする単純な構図をイメージする人が多いかもしれません。もちろん武力による弾圧は糾弾すべき蛮行と言えますが、それだけではあの事件の分析にはなりません。
ドキュメンタリーが焦点を当てるのは、民主化運動を挫折に追い込んだ重要な要因である、運動勢力の側の未成熟です。運動は党内部や労働者、都市住民のなかにも支持層を拡大していましたが、その中核的な勢力は学生と知識人でした。しかも知識人は運動の主導権を握られず、中心となった学生はいくつかの派閥に分かれ、内部で権力闘争に明け暮れる始末でした。
あのとき中国共産党は趙紫陽を中心とする改革派と李鵬を中心とする保守派に分裂していましたが、運動側もまた一つにはまとまってはいなかったわけです。運動勢力の総司令官を自任する当時23歳の柴玲は、王丹ら穏健派の主張する広場からの撤退に断固反対し、撤退は保守派を喜ばせる行為であり、裏切りであると主張して、「引き際」を失いました。また彼らは、党内の改革派勢力からの連帯の働きかけも拒否し、李鵬との対談も早々と打ち切ることで自らを追い込んでいきました。
学生らには交渉に必要な「譲歩」を受け入れる能力もなければ、労働者や都市住民をも取り込んで勢力を一個に結集させられる指導者もいませんでした。共産党に代替できるような組織もなく、まして共産党独裁を転覆した後の具体的なビジョンなど何も想定されていなかったのです。趙紫陽の立場を考えると、一方で共産党独裁体制の死守を決意する党内守旧派を説得せねばならず、他方では構造的改革を求める急進派や現体制を完全否定する反体制派を満足させねばならず、両者に“挟み撃ち”されて身動きの取れない状態にあったことでしょう。
運動勢力の未成熟は、民主化運動にとって致命的でした。学生らは大衆の影に隠れて自分の発言に責任を持たず、過激なことを叫びました。決して運動の価値を不当に低く評価するつもりではありませんが、けだしそこに個人はおらず、公との連結を重んじる意識も見られなかったのではないでしょうか。党指導者が天安門広場に見たものは、かつて「愛国無罪」「造反有理」を叫び権威に挑戦した紅衛兵と重なる光景だったのかも知れません。
動物実験に関わる獣医倫理およびナントカカントカ
動物倫理について勉強を始めました。「肉食の是非」、「動物飼育の問題」や「野生動物をめぐる問題」など色々なテーマがあります。すべてに興味がありますが、今後の自分に直接関わりが深そうなのはおそらく「動物実験」でしょうね。
獣医倫理・動物福祉学―獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠
- 作者: 池本卯典,吉川泰弘,伊藤伸彦
- 出版社/メーカー: 緑書房
- 発売日: 2013/06
- メディア: 単行本
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本書は獣医学共用試験の対策テキストです。本書の第5章で、動物実験に関わる獣医倫理について説明されますが、これは「動物倫理学」の教科書ではないため、当然(?)動物実験が必要不可欠であるという前提に立って書かれています。動物倫理学の本では「動物実験の是非」を問い、「正当化されるとしたら、それは如何なる根拠をもつのか」を議論しますが、獣医学生のために書かれた教科書ではもちろんそんなことは問題にしません。あくまで「人道的な」実験のガイドラインが書いてあるだけです。
このテキストによれば、「動物実験は科学の進歩、人や動物の健康および福祉にとって必要な行為」だそうです。ノーベル医学生理学賞の約95%が動物実験に関連する研究成果によるもので、その他にも動物実験の必要性を示す多くの例があるのだと強調します。2012年にノーベル医学生理学賞を受賞した山中教授のiPS細胞の研究も、マウスの実験が基盤となっていますね。
ところで、動物実験の有効性に疑問を抱く人々も多くいます。人間と動物には「種差」があるのだから、動物実験で得られたデータは必ずしも人間に適用できないという主張です。確かに、種差を考慮しなかった動物実験の結果が、医学の進歩や人類の健康と福祉に悪影響を及ぼした例もあります。*1私は、動物実験が本当に有益なのか、有益なのだとしたらどれほど有益なのか、勉強不足なためわかりません。ただ、ここでは一旦、「動物実験が有益である」ということを仮定として受け入れてみます。
しかし、動物実験が有益であるとしても、それがどうして動物実験が「不可欠」であるということの根拠になるのでしょうか。
A: 動物実験は有益である。ゆえに、動物実験は不可欠である。
とこのテキストには書いてありますが、有益であるということと不可欠であるということの間に因果関係はあるでしょうか。
B: 動物実験は有益である。しかし、動物実験をしてはならない。
と主張することも可能なはずです。有益であることは不可欠であることの正当な理由にはならないと思います。
「医学の進歩には動物実験が不可欠だ」と説く人は、なぜ医学を進歩させるべきなのかを説明しなければならないでしょう。「動物実験は人間や動物の健康および福祉の向上に貢献するから必要だ」と述べる人は、「なぜ健康や福祉を向上させるべきなのか」を説明しなければならないでしょう。「向上しなくても、別に停滞してもよいではないか」と問われたときに、論理的に答えられるのでしょうか。
極端な話ではありますが、「この動物実験をしないと人類が死滅してしまう」ということが仮に起きた場合、「なぜ人類が死滅してはいけないのか」「なぜ人類を存続させる必要があるのか」を明確に説明できなければいけないし、「人類が死滅したからと言って他の動物は困らないのになぜ彼らを犠牲にするのか」を問わなくてはいけないと思います。(私は、人類がこの地球に存続しなければならない理由、明日も生きなければならない理由はこれと言って特にないと思います。)
やや脱線してしまいましたが、動物実験が人類の健康にとって(ひいては動物の健康にとっても)有益であるということを仮に示すことができたとしても、「有益であるがゆえに必要である、不可欠である」と主張するのは論理の飛躍ではないかと思うのです。